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帰路にて。

 白河さんがいなくなり、突然静かになった気がした。

 今になって、控えめな音量で随分懐かしい曲がスピーカーから流れていた事に僕は気付く。

 音楽の授業で聞かされたこの曲を歌っているのは、確かファミリーネームをグループ名に使っているアメリカの歌手じゃなかっただろうか。

 

「知ってる? この曲」


「聴いた記憶がある、くらいです。音楽の先生が、この人たちの曲大好きだったんじゃないかなあ。昔すぎて忘れちゃいました」


 まだ若いじゃない、と笑いながらユキコさんは新しいお酒を僕の前に置く。


「面白い子でしょ、ユカちゃん」


「ええ、本当に。まさかコンビニで声かけた時は、こんな事になるとは思いませんでした」


「いい子なのよ。でも、珍しいわ」


 ユキコさんはそういうと、おかしそうに笑った。


「あの子、この店に誰か連れてきたの初めてなのよ。私だけの秘密基地なの! って言い張って誰も連れてきたことなかったんだから。きっと安達さん、気に入られたのね」


 初めて連れて来たのが、その日に出会った女装した男なら、ユキコさんもびっくりだろう。また少し気恥ずかしさが生まれてきて、思わず黙り込む。


「そう言えば、明日どうするの? 女装して出勤、ほんとにするの?」


 すっかり忘れていた。でも、自分の中ではもう、ケリはついている。


「やめようと、思います。困らせるだけですから。女装して出勤しようとしてたのは、多分」


 そこでまた一口、グラスからウイスキーを流し込み、そして口を開く。


「自分の気持ちを受け入れてもらえないのが面白くなくて、意地になってたんだと思います。吐き出したら、何だかすっきりしました」


 本心だった。

 二人に掘り起こされた僕の思い出は、楽しい事も悲しい事も彩り豊かで、相馬さんが暗に主張する『この関係を壊したくない』と言う気持ちが、何となく今の僕にはわかる。


 それならば。

 それならば、半ば意地のように女装して出勤するのは、僕の独りよがりでしかない。二人で作った思い出を、僕だけの勝手で壊すのはそれこそ今までの関係に泥を塗るようなものだ。


 何年かしたら笑い話に出来る、そんな夜を過ごせた。

 僕は今、それだけで満足してもいいような気持ちになっていた。



 不思議な夜だった。

 予行演習のつもりで女装をしてコンビニにストッキングを買いにいき、コンビニで出会った女性に脅されて食事を奢らされ、そしてバーに連れて来られて馴れ初めにもならない馴れ初めを語らされた。こんな体験も女装も、これからの人生で経験する事はもうないだろう。


「そろそろ僕も帰らないと。また、来てもいいですか」


 余韻に浸りたい所だけど、そろそろ現実に戻る準備をしないといけない。

 僕は身支度を整えながら、ユキコさんに帰ることを告げる。


「もちろん、どうぞ。待ってるわよ。またユカちゃんとお話しましょう。女装は、ナシで」


「はい、ナシで。じゃあ、また」


 このバーにまた来る日は、そう遠くないだろう。会計を済ませて、僕は一人ドアを潜る。

 既に外は、明るくなり始めていた。




 既に深夜三時を過ぎていた。

 ヒールがアスファルトを穿つ音だけがやたらと響いて、僕はどこか居心地が悪くなる。 

 普段ウイスキーなんて飲まないからか、口の中が随分と妙な感じだった。落ち着かない。

 そこでふと思い出し、僕はバッグからガムを取り出した。


「あ……」


 いつのまにか、ガムのパッケージに電話番号を書いた紙が挟まれていた。

 そこでふと、白河さんがガムを受け取ってから。もそもそと手を動かしていた事を僕は思い出す。

 多分、この番号に電話しろと言いたいんだろう。せっかちな彼女の事だから、今日中に一度電話しないと怒られそうだ。その様子があまりにも想像しやすくて、思わず頬が緩む。


 そういえば、彼女は随分と慌てて帰っていった。

 彼女も僕も、今日の仕事に影響が出ないといいのだけど。

 僕はそんな事を考えながらガムを一枚口に入れ、痛む足をまた一歩踏み出した。

 

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