少女
『ここから先は歩いて行くがいい』
言われてリートは緑竜の背を降りた。
『ここはどこ?』
『月神殿裏手の森。地下の宇宙船への入口は、このすぐ近くのはず。正確な場所は我も知らぬ。神獣にでも聞くといい』
フヌウ、というのは、人から神の御使いとも神の化身とも呼ばれている草食の四足獣だ。それゆえ、人からは「神獣」の扱いを受けている。
北海に住む水中大型哺乳類のシュナが海の王とされるのに対し、フヌウは陸の王と称されている。
称されるだけの理由は、あった。
彼らは大抵、その住処の森で一番の知恵者であり、物知りだ。
そのことを人は知る由もない。ないはずだが人は彼らを敬う。知識以外の何かが人の心にそれを告げているのかもしれない。
この森に住むフヌウならば、宇宙船の入口を確実に知っているだろう。問題は、彼らがこの森のどこにいるのか、だ。
なお、蛇足ながら付け加えると、フヌウもシュナも、もともとフリームに生息していた動物だ。
他惑星から移り住んできたのは、精霊、エルフ、竜族、それに人だけ。
『はい、そうします。送ってくれてありがとう』
すぐ飛び立つかと思われた緑竜はしかし、礼を言い頭を下げるリートの前にしっかりと座り込んだ。
『最後に一曲、お願いできるかな、吟遊詩人殿』
『喜んで』
もらったばかりの竪琴を取り出し、細かく弾いて調律をするリートの横で、緑竜はゆっくり目を閉じた。
『オグマの竪琴が唄うのは、何百年、いや何千年振りだろうな……』
やがて、朗々とした歌声が森中に響いていった。
竪琴が最後の音を奏でた。
余韻が森の奥へ染み渡る。
静寂。
『お見事』
和やかな瞳で、ただ一言感想を述べる緑竜。
リートは軽く頭を下げると、真に自分の物となった竪琴をゆっくりと撫でた。
(なんて深い音を出すんだろう、この竪琴は……)
弾いてみて、トーマスが持っていた竪琴との『格』の違いがはっきり判った。
緑竜が身を起こす。
『成功を祈っている。祈りというものに意味があるかどうかは知らぬが』
そう言うと緑竜はバサッと風を巻き起こし、あっと言う間に空の彼方へ消えていった。
改めて周囲を見渡すリート。一体どちらへ向かうべきか。
『誰か』
リートは人ならざる者の言語で辺りに問いかけた。
『誰か宇宙船への……』
入口を知っている人はいませんか? と、問いかけようとしたその時、
「キャアアアァァァッ 」
人の悲鳴が聞こえた。
反射的にそちらへ向かう。
狼、だった。
一人の少女が数頭の狼に囲まれていた。
だが狼たちに殺意はない。彼らはただ、遊んでいるだけだ。
しかし少女にそれが分かるはずもない。彼女はただ、その場に座り込み、震えていた。
『おやおや』
リートは狼たちに語りかけた。森に住まう動物は皆、森の民の友だ。
リートにとって狼は遊び友達に過ぎない。
『誇り高き森の勇者が、何故そのような児戯に等しい真似をなさいます?』
口から流れ出たのは今までの自分らしくない口調。
『吟遊詩人』としての物言いを、自然に行った自分に自分で驚く。
(……竪琴の所為?)
かもしれない。
狼たちが一斉に振り向いた。
『ほう、こんな子供が人ならざる者の言語を操るとは』
中の一頭が目を丸くする。と、他の一頭がアッと小さく叫び声を上げた。
『この子は人じゃないよ。ほら、森の匂いがする』
その言葉に、一斉に匂いを嗅ぎだす狼たち。
『本当だ』
『君は誰だい?』
『私は吟遊詩人。名はリート。森の民と人の間に生まれし存在』
台詞と同時に竪琴を取り出し、ポロロ……ンと弦を弾く。いつの間にか第一人称までが『私』に変化している。
『吟遊詩人?』
『ああ、先刻の歌声は君か』
『いい声をしてる。思わず聞き入ってしまったよ』
『それはこの娘もご同様のようだがね。我々がいることに今の今まで、まるで気づいていなかったらしいから』
『それにしても…』
『ハーフエルフ?』
『それはまた珍しい』
『証拠は?』
リートは黙ってサークレットを外した。少女にも『耳』を見せることになるが、あえて考慮しないことにする。
『……成程』
『確かに』
『あッ、もしや』
一番年かさらしい狼が、息を飲んだ。
『森の民と人の混血と言ったね。ひょっとして、ジュリオンさまの息子かい?』
リートは一拍おいて、うなずいた。聖域を追放された今でも、彼の息子であることに変わりはない。
……ないはずだ。
『これは……失礼を』
狼たちが一斉に恭順の意を示す。
森に住まう者にとって、森の民の長は敬うべき存在だ。そしてその息子もまた。
『やめて下さい』
苦々しい表情でリートが首を振る。
『私は人であって人でなく、エルフであってエルフでない半端な存在。あなた方が敬意を表するに値する者ではありません』
『だが、あなたがジュリオンさまの一人息子であることに違いはない』
リートは、ふうっと重いため息をついた。
(ただ、父様の子供というだけで、彼らは僕を敬う)
それは、今に始まったことではない。
もともとリートは、『森の民の長の息子』ということだけで特別扱いされていたのだ。
今まではそれを当然と思っていた。自分は特別なのだと。
しかし今は……。
が。
取り敢えずそれはどうでもいい。
この際、彼らが自分に対して敬意を表してくれているのは都合が良い。
(そうだ、都合が良いものを利用して何が悪い? 緑竜は言った。僕は都合の良い存在だと。彼らが都合が良いというだけで僕を利用するなら、僕だって……)
リートはにっこりほほ笑むと狼たちに語りかけた。己の心と異なる表情をして見せたのはこれが初めてだった。意外と……簡単だった。
『ところで、どなたか宇宙船への入口を知りませんか?』
『宇宙船?』
『そうです。月神殿の下に埋まっているはずなのですが』
狼たちは互いに顔を見合わせる。ややあって年かさの狼――リートをジュリオンの息子と言い当てた狼が代表で答えた。
『あいにく、この中に知っている者はいないようです』
『そうですか。……では、フヌウの居場所は?』
『知ってます』
今度は全員の声が揃った。年かさの狼が続いて口を開く。
『成程。確かにフヌウならばその入口とやらを知っていましょう。……が、彼もまた気まぐれな生き物。巣にいつも居るとは限りませぬ』
そう言うと狼は、しばし小首をかしげた。
『そうだ、こうしましょう。明日、太陽が一番高く昇る頃、この場所においで下さい。我々がフヌウを連れてきます』
『それは……。そこまでご迷惑をおかけする訳には……』
『なに、造作もありません。お任せを』
『ならば……お願い致します』
リートはゆっくりと一礼した。『ジュリオンの息子』という立場は、なかなか使い勝手が良さそうだ。
狼たちは尻尾を一振りすると、森の奥へと走り去っていった。
「あの……」
おずおずとかけられた声に、リートはびっくりして振り向いた。目の前に少女が立っていた。
「あ……」
とっくに逃げたと思っていた。
あわてて作り笑いを浮かべ、こういう場合に人が口にするであろうセリフを紡ぎ出す。
「お怪我、ありませんか?」
コクンとうなずく少女。
「あの、ありがとうございました」
「どういたしまして」
別に少女を助けようとして行ったことではないが、とりあえず、そう答えておく。
(何故、逃げなかったのだろう)
少女は見たはずだ。
リートの耳を。
リートが人間ではないことに気が付いているはず。普通の人間なら、その時点で逃げ出す。
なのに何故、ここに居る?
何故、わざわざ声までかけた?
「あの、旅の方……ですよね? その竪琴……吟遊詩人? 先刻の歌はあなたが?」
「ええ」
答えた途端、少女の顔がパアッと輝いた。花のように笑う、という形容詞の実例を、リートは初めて目にした。
「旅の方、よろしかったら今宵はうちにお泊まりくださいな」
リートは、彼女のセリフに、次いで彼女の動作に、驚いた。
少女は、リートに駆け寄ると、その両の手を取ったのだ。
「え?」
「大したおもてなしはできませんけれど、でも、この森の中で夜を迎えるのは危険ですわ」
『人間』に対しては当たり前のこのセリフは、だが完全に的を外している。リートにとって森ほど安全なところはない。
「ですが……」
「さ、こっちですわ」
少女はリートの戸惑いなど意に介さず、彼の手を取って歩きだした。
「ですが私は……」
「何かお約束でも?」
「いいえ、そういうものは別に……」
「だったらよろしいでしょう? さあ、遠慮なさらずに」
「ですが」
リートは堪らず、叫んだ。
「ですが私は、人ではないのですよ?」
そう、人ではない。
それはこの耳を見て分かっているはず。
なのに何故、もてなすなどと言えるのだ?
が。
「それがどうかしまして?」
少女の答えがリートの胸に落ちるまで数秒を要した。
道すがら、少女は語った。
わたくし、アンディティーナと申します。アニーと呼んでくださいな。
まあ、リートさん、とおっしゃいますの?
驚いた。わたくしの兄の名はネスリートなんですよ。半分、同じですわね。
え? いいえ、一緒には暮らしていません。
3年前、『町で仕事を探す』と言って出て行ったきり、行方不明なんです。
両親はわたくしがまだ幼い頃になくなりました。今ではわたくし一人です。
ですから、遠慮なさることはありませんのよ――
「さあ、粗末な所ですが、どうぞ」
森の外れにポツンと建つ小さな家の扉を開け、アニーはリートを招き入れた。
部屋の中は小さなテーブルと、イスが二脚。水瓶。
暖炉には小さなナベがかかっている。
壁に打ち付けられた棚には何枚かの皿と二つのコップ。
穀物を入れるのであろう箱は、しかしほとんど空。
『人』の家に入るのは初めてのリートにも、この家が貧しいということが判る。
がしかし、それでもなお、窓辺には野の花が生けられている。
この家の住人が心の豊かさまで失ってはいない証拠だ。
「どうぞ、おかけになって。今、シチューを作りますから」
手にした籠から、茸や木の実――これらを採りに森に入っていたらしい――を、取り出しながらアニーは突っ立ったままのリートを促す。
勧められて腰掛けるリートの額からサークレットは外されたままだ。
森の中で、アニーは言った。人間の方が信用できない、と。
アニーが今までどんな目に遇ってきたのか。それはリートの知らぬことだし、また知る必要のないこと。
だがリートは興味を持った。同じ人間よりも他種族であるエルフの方が信用できると言い切るアニーに。
リートの知識にある『人間』と異なる反応を示す少女に。
その夜。
粗末な、だが精一杯の心が込められた暖かい夕食を済ませると、リートは望まれるままに歌いだした。
久方ぶりの弾き手を得て、竪琴も満足気に深い音を奏でる。
その脇で軽く目を閉じ、旋律の海に心をゆだねるアニー。
リートは、心の奥が暖かくなるような不思議な感情を覚え、少なからず戸惑いながらしかし、ずっとこのままでいたいと、ふと、思った。
理由は自分でも分からない。
翌日。
リートは少女に礼を述べると、名残惜しげな視線を背に、再び森へ向かった。
昨日約束した場所で、太陽が一番高く昇るのを待つ。
(結局、何も聞けなかったな……)
軽く、竪琴をつま弾きながら、あの少女のことを考える。
(何故、彼女は人間が信じられないんだろう。彼女も人間なのに……。人間を信じないのなら、何を信じているんだろう)
ふと気づいて、自分自身を振り返る。
(僕は……? 僕は何を信じてるんだろう)
竪琴を抱え、その場に座り込む。
(父様が、僕のことを嫌ってないことは、信じてる。
でも、父様には、僕よりも大事なものがあることを、知っている。
そのためには、僕を切り捨てることがあることを……。
カラムじいが僕に好意を抱いていることは信じてる。
でも、僕が一番じゃない。
緑竜の言葉は信じてる。僕に期待していることを疑ってはいない。
でも、緑竜にとって大事なのは、幻竜さまを目覚めさせることであって、僕自身じゃない。
僕はただ、彼にとって都合がいいだけ)
視線を空へ滑らす。今日もまた抜けるような青空だ。
(ひょっとしたら、世の中には信じられる存在、なんて、ないのかもしれない。ただ、時々、信じられる事柄があるだけなのかもしれない……)
そう考えると、何やら物悲しくなって、リートは自分自身を抱き締めた。
(もしかしたら僕だけかな、こういうの……)
泣きたいような切ない気持ちになった丁度その時、自分を呼ぶ声が聞こえ、顔を上げる。
いつの間にか目の前にフヌウが立っていた。その周りに昨日の狼たち。
リートはあわてて立ちあがった。