第八話
広い吹き抜けのエントランスを抜け、毛足の長い深紅の絨毯が敷かれた階段をラルスとノルトゥースはいっきに駆け上った。
普段はどこかとぼけたような雰囲気の二人だったけれど、さすがに今は緊張した面持ちで、なかなか衛兵らしい走りっぷりだ。
必死の形相で階段を上りきると、普通ならばその先に続いているだろうはずの廊下などはなく、いきなり大きな扉が彼らを出迎えてくれる。
見事な神花の彫刻が施された荘厳な扉。大きな建物であるのに、その中に扉らしいものはこのひとつしかなかった。
一階は入り口から階段に向かう為だけに存在するただの広い通路に過ぎず、二階全体がひとつの部屋になっている。
なんとも実用的とはいえない不思議な建物だった。
しかも、その扉には鍵らしきものは見当たらない。
ここには大切なものを保管してあるのだと、国王シルクスからは聞かされていたはずなのだけれど ―― 。
いくら自分たち二人が外で見張りをしていると言っても、鍵さえも付いていないのは少し……いや、かなり無防備だったのではないかと、ノルトゥースは一瞬そう思った。
けれども今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「よし、俺が突入する。お前は泥棒が逃げないように、ここで待機だ」
髭の衛兵は槍から赤い飾り羽を外し、身構えながらノルトゥースに後ろにまわるように促した。
「……血気盛んだからなあ、ラルスさんは」
危険なことはいつも自分でやろうとする、優しいのか単に危険好きなのか判断しがたい同輩に、ノルトゥースは皮肉とも感嘆ともとれる言葉を吐くと、その背後にまわった。
それを確認し、ラルスは勢いよく部屋の扉を開け放つ。
バタンと扉が壁にがぶつかる大きな音と共に、槍を構えたラルスが部屋の中にいっきに飛び込んだ。
ノルトゥースも入り口を固めるために一歩部屋に入る。
「うわっ!」
けれどもすぐに、ノルトゥースは大きなラルスの背中に鼻をぶつける羽目になった。ラルスが入口付近でいきなり立ち止まったのだ。
「いったいどうしたんだよお、ラルスさん?」
ぶつけた鼻を痛そうにさすりながら、ノルトゥースは髭の同輩を背後から覗き込む。
「……見ろ、ノルトゥース」
ふっと、ラルスの背中から殺気にも似た緊張感が消えた。
しっかと構えられていた槍も、気が抜けたようにだらりと下ろされる。
そうしてラルスは茫然としたように、そばかすの同輩に前方を指差していた。
「えー、なんだよ?」
あまりに気の抜けたラルスの声にノルトゥースは目を瞬かせ、そうして訝しげにその指の先を見る。その瞳も、大きく見開かれた。
「う、わあ……これはすごいっ!」
ノルトゥースは自分が今見ているものが夢か現か分からないというように、ぽかんと口を開けた。
扉の向こうに、碧々としたたくさんの樹木が見渡す限りに立ち並んでいた。
閑静なる森。そんな言葉がふたりの脳裏に、ぽっと浮かぶ。
ひどく暑いこの季節にも、ただひたすら清涼なる空気をまとう、深い深い森。
「どう、なってるんだこれは? ノルトゥース、こういうのはお前の得意分野だろう?」
空想好きな同輩に助けを求めるように、常識派のラルスは眉間に皺を寄せ、ゆっくりと振り返った。
なぜ扉を開けたらいきなり森がある? そんな事はあるはずがない。ここは王宮の中だ。部屋の中のはずだ。こんなにも深い森が広がっているわけがないのだ。
ラルスの瞳は常軌を逸した現実に戸惑うように揺れながら、ノルトゥースの顔を見つめていた。
この同輩の馬鹿な空想でも聞けば、少しは気も落ち着くような気がした。
「うーん……魔法の抜け道とか……かなぁ?」
ノルトゥースもこれには困ったのか、考え込むように首をかしげた。
いくら空想することが好きだと言っても、それが現実に目の前で起こったらどうしようもない。適切な説明などはなかなか考えつくものではなかった。
「ねえっ! 待ってって言ってるでしょう! ティスリーヴ様に」
ようやく追いついたフィアセルは、階下から大きな声で叫んでいる。
「ひどいことしてないでしょうね!」
部屋着の長い裾が走るのに邪魔なのだろう。何度も蹴躓きそうになりながら、すごい勢いで走って部屋の中に入ってくる。
けれども二人が入口に立っているせいで、部屋の中にいるはずのティスリーヴの姿は見えなかった。
「……あれ? どうしたの? 二人とも」
あまりに茫然としている二人の衛兵にフィアセルは勢いを削がれ、ぱちぱちと目をしばたいた。
さっき彼らはすごい形相でこちらに走ってきていたはずなのに、今はぼんやりと立っているだけなのだ。
「ねえってば! どうしたの?」
返事がなかったので、手近にいたノルトゥースの腕を勢いよく引っ張ってみる。
「あ、ええ。それが……あれ? も、森が無い!?」
激しく腕を揺さぶられて我に返ったノルトゥースは、状況をフィアセルに説明しようとして更に目を白黒させた。
自分が最初に見たときには確かに遥か向こうまで広がっていたはずの森林が、ほんの一瞬で消えていた。
前方に見えるのは既に森などではなく、飾り気のないこの部屋の白い壁だけだった。
「ラルスさん!」
「そんな馬鹿なこと……」
ラルスはこの現実にかなりショックを受けたようで、気が抜けたように呆然とそう呟いた。
柔らかな印象を与えるオフホワイトの壁にかこまれた広い部屋。人の生活に必要な調度品など何ひとつ見当たらない殺風景な四角い空間。
ただそこに存在しているのは、グラヴィール細工の美しい大きな硝子のケースだけだった。
その脚元に金糸を織込んだ薄絹が無造作にまるまっている。おそらく金紗は最初は硝子ケースに被せてあったに違いない。
「 ―― !」
自失していたラルスは壁から床へ。床から部屋全体へと順繰りに視線を巡らせてゆき、繊細な絵柄の掘り込まれた硝子箱のところで、はっと我に返った。
「な、ないっ! 失いぞ、ノルトゥース!」
硝子ケースの蓋は無造作に開かれていた。
そして……中に在るべき物がない。
硝子の箱の中に敷かれていた深紅の真綿が中央だけ僅かに沈み、小さなくぼみを作っている。確かに、ここに何かが置かれていたはずなのだ。
それが見当たらないという事に、ラルスは血の気が引いたように青褪めた