九話
「ラルスさん、大ボケだねえ。それを確かめるために俺たちは慌ててこの部屋に来たんじゃない」
ノルトゥースは慌てず騒がず、同輩の髭面を楽しそうに眺めやった。
「だからその泥棒さんに、返してくれるように頼めばいいんだよ」
にこにことそばかすの衛兵は笑い、床にまるまっている金紗の布を指差した。
金糸の織込まれた優雅な薄絹の布は、ただ丸まって落ちていたわけではなかった。よくよく気を付けて見てみれば……いや、ちょっと見ただけでもその金紗の所々から、明らかに異質な漆黒や深朱の色彩が覗いていることが分かる。
金紗にくるまるようにして、先程の黒髪の青年が気持ち良さそうに眠っていた。
「……まだ、居てくれたか……」
ほっと息をつき、ラルスは青年を起こそうと素早く歩み寄る。けれども伸ばされた手は戸惑ったようにその場でぴたと固まって、そうしてゆるゆると自分のほうへと引き戻された。
青年の眠る姿はどこか侵し難く、神々の寵愛を一身に受けた者だけが持てる純粋で美しい光が溢れているようで……思わずラルスは気後れしてしまう。
幸せそうに眠っている青年の姿を見つめながら、一瞬ラルスはとんでもないことを考えていた。
このケースに安置されていたのは彼で、実はこれは神の人形か何かなのではないだろうか? だから泥棒が入ったわけではなく、初めから彼は"ここ"に在った者なのではないだろうか ―― 。
「もし本当にラルスさんの言う通りだとしたら、たいそう寝相の悪い人形だね。硝子ケースから自分で飛び出してしまうんだから。それに、大きさだってずいぶん違うと思うけどねえ」
ノルトゥースはにこにこ笑顔で言ってくる。
ラルスはかあっと一気に赤面した。口に出したつもりはなかったのに、どうやら我知らずのうちに口走ってしまったらしい。
こんな馬鹿げた空想は自分ではなく、同輩のノルトゥースの十八番だったはずなのに。何をとち狂って、自分はそんなことを考えてしまったのだろうか。
あまりにも恥ずかしくて、穴があったら入りたいというのはこういう心境なのかと、ラルスは図らずも実感した。
「まあ、とにかく起きてもらおうよ。本人に直接聞くのが早いでしょうし」
ノルトゥースはためらいもなく青年に近付いて行くと、ぐいっと金紗の布を思いっきり引っ張りあげた。
ごろんと、黒髪の青年が布の上から床に転がった。
「きゃあ! ティスリーヴ様に、なんてことをするのよっ」
フィアセルは慌てて青年に駈け寄って、心配そうにその顔を覗き込む。
「だ、大丈夫ですか?」
「いたた……ひどいことするなあ」
今まで目を閉じていた青年はおどけた表情で起き上がりながら、ひょいっと床にあぐらをかいた。
「まったく、なんなんだよお。人様の睡眠の邪魔をするなんて酷すぎる所業だぞ。おれにとっては寝ている間が至福の時だっていうのにさ」
非難の言葉とは裏腹に、ティスリーヴの口許は笑っていた。
口では文句を言いながらも何がそんなに可笑しいのか、ついには肩をゆすりながら笑い出す始末。
「でも、いやあ、まいったねー。おれが神様のお人形さんかあ。面白いことを考える人もいるんだなあ。君は詩人にでもなった方が向いてるかもよ」
「…………!!」
ティスリーヴは静かだけれど良く透る声で髭の衛兵にそう言った。さっき寝ているように見えたのは、実はたぬき寝入りだったらしい。しっかりとラルスの発言は聞いていたようだ。
綺麗すぎる繊細な容貌がいっきに子供のような無邪気さでおおわれて、先程の神秘的な雰囲気など今は微塵も見当たらない。
「佳い詩が出来たら、おれが吟ってあげるよ? 世界中の街を巡ってさ」
大道芸人らしいことを言いながら、ティスリーヴは愉快そうに笑った。
この中でその吟を聴きたいと思ったのは、自称『ティスリーヴ様の親衛隊』フィアセルだけであったけれど。
「えーと、ティスリーヴさんでしたっけ? ラルスさんは根が純粋な人なんだから、からかったら駄目だよ。思い詰めてしまうタイプなんだもん。ねえ、ラルスさん?」
ノルトゥースはにこやかにティスリーヴをたしなめてから髭の衛兵に同意を求め、したたかに殴られた。
「い、いいからお前は黙ってろ!」
ラルスはよく熟れたトマトのように赤くなった顔に必死で平静さを取り戻し、今更ながらに厳めしい表情を作ってみせる。
今はそんな漫才のような会話を同輩としている時ではないと、彼だけが自覚しているようだった。
ラルスは気を取り直すようにひとつ咳払いをすると、綺麗な顔の奇行な青年をじっと見やる。
「この硝子ケースの中に入っていた物がどこに行ったのか、知っているのなら教えてくれないかな」
お前が盗ったのだろう、とは決して言わないところがラルスらしい。
彼は根っからのお人好しなのだ。そこが好きなんだよねと、ノルトゥースなどはくすくすと笑って同輩に視線を向け、フィアセルはうっとりと、床にあぐらをかいている黒髪の青年を楽しげに眺めている。
ノルトゥースもフィアセルも、そして問題のこの青年自身も、思考があまりに能天気に存在しているようだった。
「硝子の箱?」
ティスリーヴは髭の衛兵の言葉にきょとんと目をまるくし、不思議そうに硝子ケースを見た。そしてバネじかけの人形のように勢い良く立ち上がった。
「……また、やられたかなあ」
小さく呟いてぐるりと部屋を見回し、そして困ったように黒髪の青年は二人の衛兵と一人の少女を見やった。
「どうしたの? ティスリーヴ様」
「ここ、おれの家じゃないよね。まいったなあ」
ぽりぽりと鼻の頭を掻きながら、情けない声を出す。
「ここは、シルクスの王様のお城だよ。ティスリーヴ様でも寝ぼけて道に迷うことあるんですね」
フィアセルは彼の言うことを疑う気がまったく無いのか、真剣そのものの表情だ。
ここが自分の家でないことをティスリーヴが知らないのであれば、それは道に迷ったからに違いないとそう思い込んでいる。
「迷ってこんな所に来るなんて、珍しい人だなあ」
ノルトゥースは相も変わらずにこにこ笑顔で納得したように頷いた。
そんな言葉を信じる方がどうかしてる。そう、ラルスだけが思った。
道に迷ってこんな王宮深くに、それも見張り付きの建物に入ってくる者がいるはずがないではないか ―― 。
しかし青年の瞳を見ていると思わず納得してしまいそうになる自分が怖かった。
美しくきらめく黒珠の瞳。……いや、黒ではない。深い深い朱の瞳。黒に見紛う程に深い朱。その瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。
「……と、とにかく身柄を拘束させてもらう。ノルトゥースは、しばらくここを見張っていろ。俺はこの者を陛下の御前に連れて行く。そこでいろいろと話は聞こう」
必死に職務に忠実であろうとする努力が伺える髭の衛兵に、ティスリーヴはくすくすと楽しげに笑った。
「いいよ。本当に故意的にじゃないんだけどねえ。他所様の家に勝手に入っちゃったのは確かだから。ちゃんとお叱りは受けましょう」
「じゃ、じゃあ行くぞ」
ラルスはほっとしたように頷くと、ぎこちない動作で部屋を出る。
身柄を拘束すると言いながら、縄を打つわけでも手枷をするわけでもない。ちゃんと逃げずに付いてくると信じているようだ。
ティスリーヴはさらに楽しそうに笑ってそんな衛兵を見ると、裾の長い深朱の上着を翻すように歩き出した。
逃げようと思えば簡単に逃げられるけれど、今は彼の面子を立てて上げよう。そう思ったのかもしれないし、本当に、ただの能天気な青年なのかもしれない。
「あ、私も行く!」
フィアセルは慌てて二人の後に付いて行く。せっかく憧れのティスリーヴの側にいられる貴重な時間なのだ。それを不意にするはずがない。
「なんか、楽しそうだなあ」
ノルトゥースはきちんと部屋のドアを閉め、元のように建物の入口に立ちながら、遠ざかって行く三人の後ろ姿に呟いた。
あの顔ぶれを見ていると、この先もまだ何か起こりそうな気もするし、自分もそれを見たいと思った。
けれどもここを見張ってろというラルスの言葉があるので、そうもいかなかった。
「もう見張るべき物もここには無いと思うんだけどね。ラルスさん、やっぱり律義だなあ」
もっともなことを言いながら、にこにこ笑顔のそばかす衛兵は手持ち無沙汰そうに誰もいなくなった建物を見上げていた。




