3/4節『異世界清泉 山梨県忍野八海』
山梨県忍野八海は、山川草木の多い田舎の趣を保った村にある。
そこは、驚くほどに澄んだ湧水の湧く泉があちらこちらと点在し――。
遠景を見れば雄々しい富士山の山肌が肉薄して眺められ――。
木々の木陰と高い標高、そして泉の冷気に満ちた、清涼な土地である。
充たちを乗せた車は高速道路を降り、ほどなく。
目的の場所、忍野八海の観光客用に用意された、広い駐車場へと到着した。
「ああ! この涼しい空気感! 1ヶ月ぶりですね!」
「こんな短期間で何度も山梨に来たのははじめてだよ」
「――!」
「充さん、主人は富士山が綺麗だと言っています」
「あ……すみません、充お兄さん。咄嗟に日本語が出てきませんでした……」
居並ぶ各地方のナンバープレートを付けた車。
観光バスから列をなして降りるツアー客。
それら人混みにまぎれるように。
充たち3人は思い思いのことを口走りながら、忍野八海の地を踏んだ。
この日の天気は快晴。
雪で真っ白に化粧した富士山の優美な曲線が、日の光で煌めいている。
「車中から見るのとは臨場感が違いますよね」
「綺麗……」
寄り添って大迫力の富士山を眺めるミヤとエンシェの2人から一歩離れ。
充はといえば、周囲を見渡していた。
「昔に比べると観光客が増えた気がするなぁ……まあ、丁度良いか」
彼の目に映るのは、国外からの旅行客と思われる人々の列である。
充が昔に訪れた頃とは、観光客の顔ぶれが異なるように思う。
以前は、年配の観光客が多い、まさしく長閑といった雰囲気だった気がするが。
今日は外国人観光客がかなり目立つ。
これも時流だろうか、と充は思いつつ。
ともあれ、今回の旅行においてはそれが大いに助かるな、と頷いた。
充は視線の向きを同行者の2人へと戻した。
山を見上げては言葉を交わす、異世界の魔女と竜の少女の2人。
今日のミヤの格好は、ロング丈のダッフルコートにロングブーツの組み合わせ。
エンシェは、ミヤに比べて丈の短いファー付ダッフルコード。
そこからスカートをふわりと広げ、可愛らしい格好である。
本来の姿の角を模した、銀糸の刺繍が施されたヘアバンドも似合っている。
服装は、見事なまでに場に溶け込んでいるといえるだろう。
だが、いかんせん、エンシェの銀髪と青緑の双眸はそのままなのだ。
日本に移動する直前のミヤとのやり取りを充は思い出す。
「髪と目の色も目立つと思うけど変えないの?」
「こんなに綺麗な髪と目を!?」
「……ごめん、私の提案が野暮でした」
あのときにミヤが浮かべた、あまりにも悲壮な表情。
あんな顔をされては、発言を即座に撤回するしかなかった。
そのような経緯により、竜の少女は見てのとおり。
遠目からでも日本人と思われないであろう姿のままである。
だが、これだけ異国の言葉が飛び交う場所ならば、不審には思われまい。
旅の案内役として、気を張っている充としては。
周囲の状況に、ほっと安堵の溜息を吐き。
これで気兼ねなく遊びまわれそうだと気合を入れ直した。
「それじゃあ、忍野八海巡りに出発しよう」
「はい! よろしくお願いします」
「よろしくお願いします、充お兄さん」
それから2人の元へと歩み寄った充は、出発の号令をかけ。
ここに、3人パーティーとなった充たちは、蒼天の下を歩きはじめた。
忍野八海はその名が示すとおり、8つの池を擁する場所である。
池にはそれぞれ竜が祀られ、様々な伝承が残されている。
それこそ竜であるエンシェに相応しい場所だろう、と充は思う。
今回の旅、充はいわば竜の先導役である。
その響きは、神話や伝説に憧れる者からすれば、燃えずにはいられない。
充は予め、あれこれと考えて今回の旅行に臨んでいた。
一目で「なにこれ!?」と驚かせられる池といえば。
それはやはり、お釜池と湧池だろう。
まずはこの2つを見せて、そのまま土産物屋の中心地になっている中池へ。
そこからは適当に一周りして、戻ってきた中池で昼御飯にして。
それから古民家の資料館を見学する感じで――などなど。
綿密にスケジュールを組んでの旅路であったが――。
その労力は忍野八海最初の湧き水を見た瞬間に、
「おお! ……おお!? えっ……綺麗! なんですか、この水の色!?」
「綺麗……“終焉と始まりの町”の湧水とは雰囲気が違う……」
ミヤとエンシェの歓声によってお釜池が迎えられた瞬間に、報われた。
どうしてこんなにも澄んだ青色になるのかが不思議で仕方ない。
そう思わせる忍野八海の湧き水に、ミヤとエンシェは驚き、喜んだ。
池の中を泳ぐ魚の影や、揺れる水面の反射光が網目に輝く模様。
それらが、青く澄んだ水底の岩にはっきりと映る。
まるで、池の底が浅いかのように錯覚する。
透明度の高い水だからこそ生まれる絶景である。
「綺麗ですねぇ……」
「うん、綺麗……」
深く青い水と、池に生える水草の緑が混じり合う。
透きとおる青と緑に輝くその池を。
同じ色の目をした少女は、しばし、興味深そうにじっと見つめ続けていた。
「充お兄さん、こんな池が、まだ沢山あるのですか?」
池の縁に屈み込んでいたエンシェは、やがて水面から目を上げ。
期待に輝かせた目で充を振り仰いだ。
「そうだね、次の中池は人工の池だけど、凄い綺麗だから期待するといいよ」
「楽しみです」
「次と言っても、すぐ横だけど。あの人だかりができているのがそうだよ」
――そうして、上機嫌なエンシェを連れた3人旅は愉快に進行した。
観光地といっても、忍野八海は田舎の住宅街にある公園程度の規模である。
緑豊かな土手と、頑張れば跳び越えられそうなほどの川幅の清流。
古めかしい茅葺屋根の民家がちらほらと建つ、時代がかった風景。
軒先に土産物の棚を並べる、観光客用の店が軒を連ねる小道。
それらの景色が一箇所に混在し、溶け合っている。
「充さん! あれ……家の縁側の下が池になっていますよ!?」
「あそこは土産物屋さん。庇から水が垂れているのも風流だよね」
「格好良いです!」
日本好きのミヤは古民家風の建物に興味が尽きないらしい。
観光地らしいパフォーマンスを欠かさない土産物屋の建物に喝采を送る。
こうして見ると、普通の外国人観光客みたいだ。
そのように充が思っていれば――。
池の底に誰かの落としたカメラを見つけたミヤが、
「落とし物という意味でも美観を損ねる意味でも、両方の意味でもったいないですねぇ」
どうやって水底から回収したのか、それを瞬時に消し去り。
濡れたカメラを手に、平然としている魔女ぶりを発揮し。
「香ばしい匂いが……」
「主人、あれじゃないですか?」
「お団子屋さんだね。こういうのは店頭で買って、食べ歩きするんだけど」
「充お兄さん、わたし、いただいてしまっても良いですか?」
「もちろん! あ、ミヤさん? りゅーちゃんはアレルギーとか食べたらダメなものとかは……」
「ご心配には及びません。竜には毒の類は効きませんので」
「なるほど」
エンシェはそこかしこで売られている食べ物に興味を惹かれたらしい。
店頭で焼きたてを販売しているみたらし団子や、煎餅。
それらを見つけては購入し、小さな口で上品に食べ、
「充お兄さん……お土産屋さんが並んでいて、たくさんの人が賑やかにしていると、見ているだけでも楽しいものですね」
「りゅーちゃんもそう思う? 新しい場所に行って、市場なんかに顔を出して、どの店も知らないものばかりが売られているところを見たりなんかするとテンション上がるよね。ちょっと値段が高くても、必要かどうかわからなくても、つい買っちゃったりとかね」
「僕もそれ、わかります! 新しい町に到着したら武器屋防具屋で初登場の装備品を見るのが楽しくて!」
「ミヤさん、すっかり思考がゲームに染まってるね。でも確かに、その感覚は同じものかもね」
「あ……充お兄さん、あの緑色のお餅……」
「よもぎ餅が気になる? いいよ! 買ってくるから!」
また、充とは山梨への道中で決めた愛称でお互い呼び合い。
「りゅーちゃん」と呼べば「充お兄さん」と返す、その姿は。
いかにも外見相応の、少女らしいものであった。
――かと思えば。
注意深く少女の姿を見ていると――。
焼きたてで湯気のたつ餅や団子を熱がりもせず平然と食べて見せて。
非常に些細ながらも、竜の身体の強靭さを発揮していたり。
人混みのなかで転びそうになった小さな子供を見つけ、
「大丈夫ですか?」
「……う、うん。ありがと。お姉ちゃん」
熱々の餅を当てないよう、瞬時に餅を放り出して子供を抱きとめ。
子供がいなくなってから、地面に落ちた餅を見つめるその表情は――。
「忠義のために死地へ赴く騎士を無言で見送るお姫様」さながらであったり。
「りゅーちゃん! 新しいお餅、買ってくるよ!」
「あ――ありがとうございます。充お兄さん」
「さっきの人助け、格好良かったよ!」
ミヤの主人らしい、人の良さを垣間見せた結果。
半日足らずで、充はエンシェのことを大いに気に入るようになっていた。
3人の、遠目には常識的に見える、実は非常識な忍野八海を巡りは続き。
中池に戻るころには、昼食を食べるには少々遅い、昼下がりとなっていた。
「水は綺麗ですし、食べ物も美味しいですし、楽しい場所ですね」
「僕も凄く楽しいです」
「そう言ってもらえると、案内するこっちも嬉しいよ。ミヤさんやりゅーちゃんと一緒に周っていると、いつもより楽しいしね」
池に臨む絶好の位置に建つ蕎麦屋。
そこに腰を落ち着けた3人は、開口一番、そう言い合い。
これまでの忍野八海観光を振り返っては、会話を弾ませていた。
「本当に、私もここに来たらいつも豆腐とか団子とか、つい買い食いしちゃうんだけど、どれも美味しいよねぇ」
「充お兄さんも、そうなのですね」
「不思議なのは、ここで美味しかったものをお土産で買っても、家で食べるとここで食べたときほどには美味しく感じないんだよね。なんだろうね、あれ」
「味が変わるんですか、充さん?」
「いやあ、そうじゃないと思うけど……きっと、この景色のおかげで良い気分になってるから、食べ物まで美味しく感じるのかな」
「わたしも、わかる気がします。本当に、ここは綺麗ですから」
「ううん、そういうものなんですか……僕は食事をしないので、実感が湧かないですが……」
特に、話題として盛り上がったのは、美しい池の景観と、もう1つ。
忍野八海中に良い匂いを漂わせる店頭調理の品々――食べ物のことであった。
エンシェはどうやら細身の割に、かなり食欲旺盛らしい。
散策中も、ずっと串団子や煎餅を齧ってはご満悦の表情を浮かべていた。
ミヤの話では、エンシェの産まれた“石の国”は料理と無縁の地であるらしい。
その反動からか、竜の少女は別の国を旅するようになって以来。
食事という娯楽に、すっかりと魅了されたとのことであったが。
そんな少女を満足させられたようで、忍野八海の食事事情よありがとう。
そうした旅行地への感謝の思いを充は浮かべ、
「このへんには食べ物を美味しくする魔法でもかかっているんじゃないかな」
「魔法……ですか」
もしかすると、と冗談も交えて、さらに旅行地の美観を褒める。
エンシェも、池の水面を写したかのような瞳を輝かせている。
「“天使を歓待した町”の回復の泉は治癒魔法。忍野八海は美食の魔法、なんてね」
「あ、そのたとえ、わかります」
横からミヤがなるほど、と頷いた。
「回復の泉と同じでしたら……食べ物を持ち帰ると一味足りなくなるというのも、ぴったりですね」
「そうそう」
回復の泉の治癒力は、水ではなく泉の湧く場所に宿っているものである。
水は、あくまでその力を冒険者に届ける媒介にすぎない。
そのため、泉の水を汲んだところで、回復薬にはなり得ない。
その場から離れれば、泉の水は単なる水でしかなくなるのだ。
これは、以前、ゲームに苦戦していたミヤと充のあいだにあったやり取り、
「セーブポイントと回復の泉が離れていて辛いです!」
「泉の水を持ち運べたら楽勝なのにね」
「うーん、回復の泉の水は持ち運んでも効果がないんですよ」
「え? どういうこと?」
そのような会話のすえに、充が得た知識であった。
自分の世界の、ダンジョンを扱うゲームのお約束と。
異世界に実在する迷宮の仕組みが、不思議と合致する。
その奇妙さに、当時の充は膝を打って面白がったものであるが。
そうしたやり取りを言外に思い出し、充とミヤは笑った。
エンシェも、くすりと笑う。
「主人も、この持ち運べない素敵な景色を今のうちに堪能しましょうね」
「うん。ありがとう、ミヤ。素敵な景色をありがとうございます、充お兄さん」
「どういたしまして。景色は私の手柄じゃなくて忍野八海のおかげだけど」
「それでも……ありがとうございます」
「僕からも、ありがとうございます」
そうして、茹であがった蕎麦が席に届くまで、3人は歓談を楽しんだ。
誰もが確かな満足感と充足感を得られた、忍野八海観光。
日中のあいだは、こうしてすべてが平穏無事に進んだが――。
ただ1つ。
それは、蕎麦屋での歓談の最中のこと。
この後に向かう、資料館となっている茅葺屋根の古民家。
屋根裏へと登り、そこから眺める景色はどんなものだろう。
忍野の清流に手を浸し、泳ぐニジマスに触れてみたい。
そのときの水はどれだけ清冽だろう。
会話を続けながら、充は花を愛でる気分でミヤとエンシェを眺めていた。
ミヤは、相変わらず理知的で柔らかな大人の女性らしい見た目と。
あれにもこれにもと興味を惹かれ、落ち着きのない子供っぽさと。
つまり、おおよそいつものミヤであるが。
ただ、エンシェを見るときだけ、彼女の視線は常時にない熱を帯びている。
エンシェは、ここまで触れ合ってきた、半日だけの所見ではあるが。
静かで透きとおるような存在感の、あどけなさの残る少女の姿と。
根っこの部分には純粋さ、無垢さのようなものを感じるものの。
落ち着いた物腰と、強い自制心から、大人びた印象をまとう少女である。
嬉しそうに笑うエンシェの顔を、ミヤは慈母のような笑みで見守り。
その周囲に、小さな水玉でできた魔法の花が浮かび。
魔力漏れに気付いたミヤが、慌てて水の花を消し。
その様子をエンシェが微笑んで見返し――。
大人の見た目をした少年のようなミヤと。
少女の見た目をした大人のようなエンシェと。
それらのやり取りを見て。
「ミヤさんとりゅーちゃんって、本当に仲が良いんだね」
異世界の図書館を出るときから思っていたことを、充は口にした。
それは、充にとっては悪気もなにもない、感想にすぎなかったが。
「それはもう、主人は僕の大切な主人ですから」
ミヤの、その言葉に続き、
「はい。ミヤはわたしの大切な家族です」
エンシェが言った、「家族」という単語。
それを聞いたミヤの表情が、一瞬だけこわばったこと。
その僅かな時間の出来事が、楽しさで溢れていた忍野八海観光のなか。
充の胸中に、微かな引っかかりを覚えさせたのであった。
※茅葺屋根……竹などで組んだ骨組に、乾燥させたススキ等の植物の束を縛り付けて(何層も)敷き詰め造る屋根。火災に弱いという最大の欠点以外は、断熱・保温・通気・吸音に優れる高機能な屋根でもある。ここでは和風の景観を織り成すものとして扱われているが、日本以外の国でも昔から観られるものである。
※竜の食欲……竜は食事の必要がないものの、趣味として食事を摂取することは可能である。
※ミヤの遊んでいるゲーム……町で冒険に必要な装備・傷薬などの消耗品を購入して準備し、危険な生物の棲む迷宮のなかに潜り、迷宮の奥深くに眠る貴重な宝物を入手して帰還すること(宝物をコレクションすること)を目的としたコンピューター・ゲーム。難易度の高いものほど、目的の宝物を入手して迷宮から帰還することが困難になる。
※セーブポイント……コンピューター・ゲームにおける、敗北条件(この場合、迷宮の罠にかかる・凶暴な生物に襲われるなどにより主人公が死んでしまうこと)を満たしてしまった際にもう一度ゲームをやり直せる場所のこと。迷宮を探索するゲームでは、ここで主人公を休憩させたりもできる場合が多い。
※回復の泉(ゲーム用語)……ここでは、コンピューター・ゲームに登場する、主人公の怪我などを治療し、回復させる場所のこと。迷宮を探索するゲームなどで、ゲーム難易度の調整のために、迷宮内に設置されていることがある。