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そして、また場面が飛ぶ。場所は同じ、志希の家。しかし、先程までとはまるで別の場所のように見える。明るかった室内は薄暗くなり、賑やかだった三人の声もなくなって、母のすすり泣く声だけが響く。
そう――ここは、父の葬式の直後。志希にとって運命のターニングポイントとなった日だ。
この後に起こることを思って、志希の体が震える。
「志希ちゃん、大丈夫?」
「……大丈夫です。これくらいで根を上げたりはしませんよ」
志希の目の前ではテーブルに置かれた父の遺影の前で、母は喪服のまま『拓真……、拓真……』と泣き崩れていた。
志希の記憶にある通りだ。普段は明るくて強い母が初めて見せた、弱った姿。何度目にしても、胸を締め付けられる。
そこへ、母の様子を窺うように幼い志希が歩み寄る。
今でもこの日のことは鮮明に思い出せる。泣き崩れた母の姿を見て、父はもう戻ってこないのだと幼心にもわかった。
優しい父ともう会えない。そう思うと悲しくて、泣き崩れている母を見ていると自分も泣きたくなってきて……。志希自身、父の葬式の日は今までに感じたことのない不安と恐怖と悲しみで胸の中がいっぱいだった。
だからこそ、余計に母に泣いていてほしくなかったのだ。いつものように、母に笑って『大丈夫だよ』と言ってもらいたかったのだ。
その為に志希は、あの日、母を元気づけようとしていた。
今にして思えば、幼い自分は何と自分勝手なひどいことを考えていたのだろう。母の辛さを思いやるのではなく、自分が安心するために母を焚きつけようとしていたのだから。五歳の子供とはいえ、これはあまりに身勝手過ぎる。
だから、あの結果も因果応報だったのだろう。
『おかーさん、げんきだして』
そう思う志希の眼前で、幼い志希が母の肩に手を置く。
子供ながらに演技がうまい。まるで本当に心配しているようだ。
だが、母は鬱陶しそうに幼い志希の手を払いのけ、感情の籠っていない虚ろな目で背後に立つ志希を見上げた。
『……ごめん、志希。今はほっといて。ひとりにして……』
十三年ぶりにこの言葉を耳にして、志希が辛そうに胸を押さえる。
幼い志希も目を丸くし、呆然としたままよたよたと歩み去っていった。
「なるほど。これが、志希ちゃんが言っていた……。実際に見聞きしてみると想像以上にきついね……」
隣に立つ荒熊さんが、珍しく狼狽えた様子で唸るように言った。
「自業自得ですよ。あの時の私は、お母さんを励ます振りをして、自分の不安と悲しみを取り除いてもらおうとしていたんですから……」
それに対して志希は、胸を押さえたまま俯きながら、幼い自分の愚行を切って捨てる。
すると、その時だ。ぴょーんとジャンプした荒熊さんが、小さな手で志希の頭を叩いた。
「志希ちゃんは自分に対して厳し過ぎるよ。というか、自分のことを卑下して悪く考え過ぎ。自分を悲劇のヒロインか何かと勘違いしてるんじゃないかな。多分、その所為で記憶を都合よく書き換えてもいると思うよ」
「荒熊さん……」
珍しく厳しい表情で説教をする荒熊さんを、志希は呆然と見つめる。
そんな志希へ、荒熊さんは幼い自分が去っていった寝室の方を指差しながら言う。
「だってほら、見てみなよ」
荒熊さんに促された志希は、隣の寝室の方を見つめ――思わず目を見張った。
そこでは幼い志希が、泣きながら画用紙に絵を描いていた。父と母、そして自分が笑って手をつないでいる姿だ。ごしごしと袖で涙を拭い、必死にクレヨンで絵を描き続ける。そして、絵の端にはうろ覚えの汚い字で“おかあさん、げんきだして”と書いてあった。
「志希ちゃんには、あれが本当に自分のことだけ考えている子に見える? 僕には、自分なりに必死で考えて、お母さんを元気づけようとしているようにしか見えないよ」
荒熊さんの言葉が、志希の中で波紋を生んでいく。
荒熊さんが言う通りだ。少なくともこの幼い自分は、自分のことばかりを考えているようには見えない。
志希はこんなこと、覚えていなかった。すっかり記憶から消してしまっていた。おそらくは荒熊さんの指摘通り、その方が自分にとって都合が良かったから。
「確かに志希ちゃんはこの後、お母さんから言われたことが原因で、捨てられる恐怖に怯え始めてしまうのかもしれない。――でも、この時の志希ちゃんは違ったんだよ。捨てられる恐怖なんか考えもせず、ただお母さんを励ますことに必死だったんだ。それしか見えていなかった。それも大切な君の一面、お母さんを想う君の強さだ。それを否定しちゃいけない」
「私は……」
「記憶の世界に来る前に、志希ちゃんはお母さんを貶めたくないって言ったよね。それと同じだよ。君は、勝手な思い込みで過去の君自身を貶めちゃいけない。でなきゃ、きっと君の欲している答えは見通せないよ」
荒熊さんの言葉が部屋に木霊し、志希の鼓膜を震わせていく。
志希はそれに対して、何も言い返さない。なぜなら今この瞬間、こうして頑張っている過去の自分を目の当たりにして、ようやく自分自身の愚かさに気付けたから。
確かに志希は、過去の自分の行いをずっと否定し続けてきた。それはつまり、自分自身の過去を認めず、否定する材料だけを取捨選択して集め続けてきたということでもある。母の本音を知るために絵本の記憶を紐解いておきながら、過去の自分からは目を逸らしたままだったのだ。
自分自身に目を向ける勇気もない人間が、自分以外の人間の気持ちを知りたいなんて、おこがましいにも程があるというものだろう。
自分が真っ先にするべきだったのは、過去の自分を認めること。自己弁護するためではなく、自分を正しく理解するために、過去の過ちだけでなく頑張りにも目を向けなければならなかったのだ。
そうでなきゃ、母の本音を知っても素直に受け止めることはできないだろう。『母の本音を知った上で謝りたい』なんて願いは、文字通り夢のまた夢だ。
「荒熊さん、ありがとうございます。私、ようやく目が覚めました」
志希が、幾分すっきりした表情で荒熊さんへ礼を言う。
すると荒熊さんは、「気にしないで」と志希に微笑みかけた。
「志希ちゃんがそれに気付いてくれたなら、僕が一緒に来た意味もあったってことだからね。――それに見なよ。どうやら早速、志希ちゃんの知らなかった真実があったみたいだよ」
荒熊さんが言うと同時に、居間の方から『私は何をやってんだ!』という叫びが聞こえてきた。




