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『だって私は……お母さんが死んでしまうまで、ずっとお母さんに嘘をつき続けていたんですから……』
志希が震えながらそう言い放ってから、一週間が過ぎた。
荒熊さんはカウンターでコーヒー豆を挽きながら、「どうぞ、ブレンドコーヒーです」と笑顔で給仕をする志希の後姿を見つめる。
あの日以来、志希に変わった様子はない。いつも通り、人好きのする笑顔で、楽しそうに常連さんや明日香と接している。
「志希ちゃん、何かおススメの本とかある?」
「そうですね……。先日、小学生向けのなぞなぞの本が入荷したのですが、これがなかなかトンチの利いた難問揃いで。きっと、いい頭の体操になると思いますが、いかがですか?」
今もこの通り、お客さんとカフェに新しく入った本の話題で盛り上がっている。
しかし、荒熊さんはどうにもあの日の志希の様子が気になっていた。
志希の後姿を見つめながら、荒熊さんはあの日のことを思い出す。
あの日、荒熊さんはもう少し詳しい話を聞こうと、項垂れた志希にこう尋ねたのだ。
『……もしかして志希ちゃんも、お母さんとうまくいってなかったのかな』
『いいえ、そんなことはありません。お母さんは明るくて優しくて、いつも私を大事にしてくれました。私も、そんなお母さんが大好きでした』
荒熊さんからの質問に、志希ははっきりと否定で答えた。そして荒熊さんの目から見ても、志希の答えに嘘はなかったと思える。実際、志希はこれまでの生活の中でも、両親――特に母を尊敬している旨の話を何度も繰り返してきた。志希自身は、母親のことを誰よりも慕っているのだ。
ただ、それでも……。
『でも、私はそんなお母さんのことを、幼い頃から欺き続けてきたんです』
志希は再び、荒熊さんへそう言ったのだ。
その後、志希は『すみません。私、ちょっと顔を洗ってきます』と言って、奥へ引っ込んでいった。そして戻ってきた時には、何事のなかった様子で――。
『さっきは取り乱してすみませんでした。忘れてください』
と恥ずかしそうに笑いながら謝ってきた。
本人がそう言う以上、荒熊さんとしてもそれ以上は突っ込めない。話はそこで終わりとなった。
だが、その夜のことだ。バーの営業を終えた荒熊さんが二階へ上がると、廊下に光が漏れていることに気が付いた。光が漏れている方を見てみれば、志希の部屋のドアが微かに開いていた。
実は、志希の部屋のドアは、少し立て付けが悪いのだ。きちんと閉めていないと、ラッチボルトが外れてしまうことがある。故に、荒熊さんはきちんと閉まり切っていなかったのだろうと考え、志希に教えてあげようとした。
そして、見てしまったのだ。
『お母さん、ごめんなさい……。ごめんなさい……』
開いていたドアの隙間から見えた部屋の中で、志希は絵本を抱きしめて泣いていた。それも、なぜか母親に対して謝りながら……。
志希が何を思って泣き、何を謝っているのか、荒熊さんにはわからない。それでも、昼間に志希が言っていた『お母さんに嘘をつき続けていた』に関係していることだけは明らかだろう。
さすがにそんな状態を誰かに見られていたと知るのは酷だろうと思い、荒熊さんは志希に声を掛けないまま、部屋の前を離れた。
だが、翌日になってみれば、志希は本当にいつも通り。前の晩のことは夢ではなかったかと思ってしまうほど、至って普通だった。
そして、一週間が経過して今に至ったわけだが……。
「けどまあ、本当に大丈夫なわけないよね。あの様子は……」
志希を見つめながら、荒熊さんは独り言ちる。
志希は、思いやりのある優しい子だ。母親のことが好きだったという言葉にも、やはり嘘はなかったと思う。だからこそ、母親との間にあった何かに対して、志希は必要以上に責任を感じてしまっているのではないだろうか。
荒熊さんは、先日の志希の様子を、そのように推理していた。
もしかしたら今の志希は、表面上こそ穏やかだが、母を亡くしたことで心の中はひどく危うい状態になっているのではないか……。そんな気がしてならないのだ。
と、そこで荒熊さんは、はたと気が付いた。悩みを抱えた人間が助けを求めてくるのを待つだけだった自分が、人間である志希のことで悩んでいるという事実に。
「何だかもう、おかしなこともあるもんだね」
思わず笑ってしまう。どうやら自分は、随分と志希の“お人好し”に感化されてしまったようだ。少なくとも、自分から“助けてあげたい”と思う程度には……。
志希があらいぐまにやって来て、たった一か月。神様として生きてきた五十年以上と比べれば、一瞬のような時間しか経っていない。それなのに、自分はこんなにも大きく変わってしまった。
その事実に、衝撃を受ける。
ただ……衝撃は受けても、それを不快であるとは感じない。
「本当に、志希ちゃんはおもしろい子だよね」
神様の心内をあっさり変えてしまった女の子に、賞賛の言葉を贈る。もっとも、本人には聞こえていないが。
そして、だからこそ彼女が苦しんでいるならば、助けてあげたいと思う。縁結びの神様として、自分と結ばれたこの縁を大事にしたいと思うから。
と、その時だ。
入り口のドアが開き、ひとりのお客さんが入ってきた。
* * *
常連さんと新着本の話をしていた志希は、扉が開いたのに気が付いて、すぐに「すみません」と会話を切り上げた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
小走りで入り口に立つお客さんのところへ行き、礼儀正しく頭を下げる。
やってきたのは、七十歳くらいと思われるお爺さんだった。初めて見るお客さんだ。凛とした佇まいで、背筋がピンと伸びた、厳格そうな雰囲気の老人である。
お爺さんは一度店の中を見回した上で、志希の方を向いた。
「失礼、お嬢さん。君が、小日向志希さんで間違いないかな?」
初めて来たお客さんに名前を呼ばれ、志希はきょとんとした表情を見せる。
しかし、すぐに気を取り直して「はい、私が小日向です」と名札を見せながら返事をする。
すると、お爺さんの纏う雰囲気が、安心したように少しだけ柔らかくなった。
「あの……失礼ですが、どこかでお会いしたことがありましたでしょうか」
「覚えていないか。まあ、当然だな」
志希が問うと、お爺さんは肩を竦めてフッと笑った。
「かく言う私も、一目で君とわからなかったのだから、まあ人のことは言えない。まあ、私たちが顔を合わせたのは十三年前――拓真の葬式の時の一回きりだ。一目でわかるわけがない」
「お父さんの……葬式?」
自分の名前に続いて父の名前まで飛び出し、いよいよ志希が首を傾げる。
するとそこへ、ちょっと厄介そうな気配を感じたのか、荒熊さんがやってきた。
「志希ちゃん、どうかした? このお客さんはお知り合い?」
「あ、ええと、そうみたいなのですが……」
向こうは明らかにこちらを知っているみたいだが、志希としてはまったく覚えがないので言い淀む。
その間に、お爺さんの方が荒熊さんへ声を掛けた。
「あなたが、こちらの店長さんですか?」
「ええ、そうです。失礼ですが、うちの店員とどのようなご関係で?」
やや警戒する気配を放ちながら、荒熊さんがお爺さんへ問い返す。
するとお爺さんは、「ああ、これは失礼」と懐から名刺を取り出して、荒熊さんへ差し出した。
「名乗るのが遅れてしまい、申し訳ない。私は、小日向満男と申します」
荒熊さんが受け取った名刺を、志希も一緒になってのぞき込む。そこには確かに、今名乗った通りの名前が記されている。ついでに、神社の名前も。どうやらこのお爺さんは神主らしい。
そしてお爺さん――満男は、さらにもうひとつ、志希にとって重要な事実を明かした。
「私は、そこにいる志希さんの父方の祖父にあたります。今日は、志希さんに話があって参りました」




