第96章「一つの始まり」
「明日、部室で待ってるから」
そう別れたものの、翌日の朝練に好子は現れなかった。
期限は放課後までとはいえ、ひょっとしたら朝から来るかもしれないと美乃理は思ったが、それは外れた。
「ねえ、好子はどうしたの?」
「え? 知らないの? 退部届けだしたって」
「えー、そうなの?」
女子の噂が早いのは相変わらずだ。特に事情をしゃべったわけではないが、既に好子の件は広まっていた。
一年生が固まってヒソヒソ声をたてる。
「ほら、練習、練習」
手を止めて噂話に興じようとする一年生たちを清水敦子が追い立てた。
ジャージを着てランニングや柔軟などの基礎練習をこなす。
昼間の授業中も、美乃理は、どことなくうわのそらだった。
昼に机の上で、弁当を広げておしゃべりにふけるクラスメイト――。
「ねえ? 知ってる? うちの学園七不思議」
「七不思議? それって学校の怪談とかでよくあるやつ?」
「うん、でもよくある、理科室の人体模型が動き回るとかありがちなのじゃなくて、うちの学園七不思議は本当にやばいんだって」
「えー? 何々?」
「特に、図書館裏の雑木林……あそこは昔、旧校舎があったって」
「へえー。でもそれがどうしたの?」
「ある時……無いはずの旧校舎が現れるんだって。その内部には異世界への扉が開いていて、入ったら最後飛ばされて帰ってこれないって……あ、あともう一つは学園内に魔女がいて……」
「うわ、わたし、そういうの苦手」
降参とばかりに、手を突きだす。勝ち誇った顔をする。
「ねえ、美乃理はどう思う?」
「ん?」
好子のことを考えていた美乃理は顔をあげた。
耳に入っていない表情をしていた。
「どうしたの? さっきから考えごとして……」
「うーん、ちょっといろいろ」
「あ、ひょっとして恋ばな? 気になる男子がいるとか?」
「違うって、わたしは新体操のことしか……」
美乃理が辟易するのは、女子の会話はやたらと恋愛の
自分には、そんなこと考えたこともない――。考えることもできない――。
「なーんだ、ちょっと期待しちゃったじゃん。あ、そうだ。新体操部の公開練習っていつ」
「え? えーっと、まだ決まってないけど、そろそろだと思う。決まったらまた教えるから」
「あたしも絶対見に行くから」
「わたしも」
ついに放課後が来た。
中等部部長の高梨と美乃理は部室で向き合っていた。
既に他の部員たちは練習を始めている。
美乃理も高梨も、着替えて練習の準備はしている。
壁に掲げられている時計を見た。いつもの開始時刻三時半前。
好子は来ない。
「規則は知ってるよね?」
高梨から、念を押される。
「はい」
来るものは拒まず、去る物は追わないのが新体操部の方針。
今日の練習に来なければ、これ以上の引き留めはしない。
退部届を正式に受理し、部員から消える。
美乃理も、その決まりを守らなければいけない。
もう待つことしかできない。
だが、そのわずかな機会もなくなりつつあった。
リミットが近づいている。
開始時間を5分過ぎた。
「駄目みたいね」
高梨が呟いた。そして立ち上がろうとする。
「もう少し……待ってください」
美乃理の懇願に、再び椅子に座った。
「わかったわ、あと少し待ちましょう」
傍らから書類を取り出して目を通す。
今度の合宿の準備、大会遠征の準備などのための資料だ。
15分過ぎた。
再び高梨が顔をあげた。
「そろそろ行こうか」
壁の時計をみた。
既に練習開始の時間を10分は過ぎていた。多分、練習場では最初の柔軟の準備が始まっているだろう。
「はい……」
これほど腰が重く感じたのは、初めてだった。体重が増えた覚えもないのに――。
退部届を部長から職員室に届ける――。それで終わり。
パイプ椅子を折り畳んだ。
「!?」
部室を出ようとしたが、すぐに立ち止まった。
部室のすぐドアの外側に立っていた人物のために行く手を遮られたのだ。
好子だった。
その疲れた顔は悩みに悩んだ顔だった。
「どうするか決めた?」
高梨は、新しいところで頑張れ、と言う準備を心の中でしていた。
少しの沈黙が続いた。
口から言わせる必要があると思い、高梨はあえて何もいわず、好子の言葉を待った。
最初は丸く大きな体を、うつむき加減にしていたが、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「や、やっぱり……わたし、続けます」
巨体には似合わず小さな声で、それだけを振り絞るように言った。
「それが……好子ちゃんの決断ってことでいいのかな?」
好子が頷いた。
「つらくても、もう先輩からあの言葉をもらえないかと思うと……」
「言葉?」
「明日も頑張ろうって言葉……嬉しかった……」
「もう駄目、限界って何度も思いました。毎日、もう今日でやめようって思ってた。目が回りそうなぐらいお腹が減って……でも厳しい練習を終え1日が終わるとき、先輩たちが笑って認めてくれる瞬間がうれしかった
―頑張ったね、好子ちゃん―
素直に嬉しかった。
「また明日頑張ろうって言われて、あと一日だけ続けてみようって思いました」
それを入部以来、ずっと毎日のように繰り返した。あと1日だけ頑張る。
先輩が待っているから。
小さな喜び幸せの瞬間が、どんなケーキやアイスよりも甘美だった。
食べることが唯一の楽しみだった好子が初めてしった別の喜びだった。
「やめたら、もう先輩からあの言葉がもらえないと思うと……」
やめたとしても、この失った喜びの隙間を食べ物で埋めることはできない。
あの喜びを再び手にすることはもう無い。それが何より怖いことだと気づいた。
「もう戻れない……」
美乃理は気づいた。好子も、また新体操に導かれている。
「こんなに見守ってくれてるのに……やめられません、私……続けます」
顔をくしゃくしゃにして泣く好子。
美乃理は抱きしめ、その頭を撫でた。
好子を覆っていた陰や暗さが消えた。迷い、苦しみが今は消え去った表情だった。
好子は顔をあげて涙を拭う。そして、美乃理たちをまっすぐ、見据えた。
「入部したての頃、龍崎さんが言った言葉を思い出しました」
晴れ晴れとした表情で好子は記憶をたどる。
「龍崎さんは、新体操を通じて、自分ととことん向き合いなさい。新体操をすることの意味の1つは、自分を高める為だって。厳しい練習に耐える中で、自分と向き合う内に新しい世界が見えてくるから。楽しい時にも苦しいときにも、何故自分が新体操をするのか問いかけてみなさいって」
「そう、宏美さん、なんていってたかな?」
「ほんの少し、その意味が……わかったような気がしました。自分の世界が見えてきた……なんだか、今そんな気持ちです」
どんなにおいしいお菓子やごちそうでも得られない。
いや、むしろもっと尊く感じられるのだ。
いつか他の人にも与えられるものができるように――。
「いこう、好子ちゃん。早く着替えて練習しよう」
美乃理は手招きして部室に好子を招き入れた。
好子も一礼をした。
「はい、いろいろ心配をおかけしました。高梨先輩……美乃理先輩」
まだ好子に対するものが完全になくなったわけではなく、困難が待ち受けている。
きつい練習も、変わらない。
だが、その声は昨日までと違って、吹っ切れた明るさに変わっていた。




