第94章「変わらないもの④」
「駄目、もう一度!」
柏原コーチの厳しい声が練習ホールに響いた。
「音楽を止めて――」
傍らのコーチ補助を務めるアルバイトの女子大生がプレーヤーから流れる音楽を止めた。
練習ホールに響いていた音楽が止まる。
レオタード姿の少女たちも立ち尽くす。
恐らく次に来るだろう、コーチの厳しい指摘に身を堅くした。
「息があってないわ。動きに切れがない。表情も硬いし……もう一度最初から」
その声色に少女たちが身を震わせる。
大会が近いのでコーチの指導も一層力が入っているのだ。
麻里、亜美、そして美乃理たちは、はいっと返事をする。
手具に使うボールを手に最初の位置に戻る。
「特に、楢崎さん」
「は、はい」
「ジャンプの高さも正確さも、明らかに他の子よりも足りてない」
「が、頑張りますっ」
「頑張るだけじゃ駄目よ、前にも言ったでしょ?」
「わ、わかりました」
美乃理は忍をちらり、と見た。
そういう時、忍は下を向かない。むしろ背を伸ばしてコーチの言葉を受け止める。
確かに忍は厳しく指導されている。
元のキッズコースにいたら、楽しくやれていただろう。
なのに何故育成コースに来てまで、やっているのだろうか。
厳しいのは、もちろん、忍だけじゃない。
美乃理もよく注意をとばされる。よく言われるのは技術的なことより、精神的な部分。
美しい華やかな表現ができない。機械的と言われる。
指示された動きや技はできるようになるが、そこから先を目指さないといけない。
だが、その理由は言えない――。
☆ ☆ ☆
忍の思い出は尽きなかった。
「コーチは別の人かと思うほど怖くてね、一人外されて別練習なんてこともしょっちゅうだった。ついでに同じ学年の子できつい子がいて、あんたが足を引っ張ってるっ、本番で失敗したら絶対許さないって言われてたこともあったの。その子、朝比奈麻里ちゃんって子。いつも美乃理ちゃんにもつっかかってくる子で、美乃理ちゃんに一歩及ばない、あえてライバル校の月見坂女子学園に行った子――。あ、でも彼女を恨んでなんかいないよ。むしろ、それは本当のことを言ってくれていた」
「どうしてそこまでしたんですか?」
好子は信じられないような表情で聞き返した。
「もちろん」
忍は語気を強めて言った。
「美乃理ちゃんと同じ舞台にいたかったからよ」
「同じ……舞台?」
「小学校はずっと同じクラスで毎日顔を合わせることができたし、今だってこうやってしょっちゅう顔を合わせているけど……、それだけじゃ嫌なの」
好子は言葉を返さず、忍の言葉をかみしめるように考え込んでいた。
俯いていた顔が徐々に上がる。
「みつめるだけじゃ……駄目。同じ場所にいないと思った。わたしは美乃理ちゃんと同じ舞台にいたかった。新体操をやめれば苦しさからは、解放されるけど、明日からもう自分は、美乃理ちゃんとは同じ場所にいない――それが一番怖いことだったの」
美乃理はただ空を見つめて聞いていた。
美乃理だけが知っている。
遠い記憶。忍は、新体操を辞めるのだ。
共新中学に進学をすることをきっかけに、新体操を辞める。
それが稔として知っていた忍だ。
恐らく、キッズコースで過ごし、さらに高いレベルのコースなど考えもしなかった。
それが明確に未来が変わったことだ。
美香がこの世界で生まれたことも、
「好子ちゃんは、今美乃理ちゃんと同じ舞台に立ってるのよ」
「これ、見て」
美乃理が好子に差し出した。
「あ、どうも……」
好子がのぞき込む。
手には、今時珍しい折り畳み式の携帯。
その画面に一枚の写真が写っている。
「地区の大会で、忍ちゃんが、三位に入賞した時のだよ」
記念撮影らしく、忍らしき少女が、水色のレオタード姿で賞状を手に持っている。
おそらく五年生ぐらいだろう。
幼さが消え女の子らしくなろうとしている少女が、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
――横でジャージ姿の美乃理が泣いている。
「もう、美乃理ちゃんの方が泣いちゃったんだ」
感情が高ぶると涙が出やすいのは、美乃理のという少女の性質らしい。
記憶はたとえ稔という男子のものが入っていても――。
恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「だって、シノちゃんの努力が実を結んだ瞬間だもん」
絶対に無理。三ヶ月で辞める。足を引っ張るだけ。
そんな陰口を言われた時もあった。
それに耐えても入賞は遠い夢とも言われた。
でも、ついに結果を勝ち取った。
「美乃理ちゃんたちが、別のもっと大きな大会に出場するから、この時は出てなかったっておちだけどね。でも……嬉しかったのは本当かな」
「自分なんかには無理――いても邪魔。そう思ったら、本当にそうなるだけ」
「今日は、まだ好子ちゃんは部員なんだよ」
会話はそこで終わった。
忍はすがすがしい顔をしていた。
好子も遠くを見つめた。
暗くなってきた空は、雲が晴れて星が見え始めていた。
「あ、長くなっちゃった……ごめんね、個人的なことを聞かせちゃって……そろそろ戻るね」
忍はベンチから立ち上がった。
「好子ちゃん、またお話ししようね」
好子の手を取った。
「あ、どうも……ありがとうございました」
好子は、立ち上がって一礼をする。
「美乃理ちゃんも、またね」
「急にごめんね」
いいよ、なんでもないよ、と首を振った。
そして小走りで走り出す。
「皆、待たせてごめんなさい」
忍がいないまま練習を続けていたジャージ姿の少女たち。
忍が戻ると、再びかけ声をあわせて、ステップ、振り付けの練習を始めた。
まだまだ洗練してはいないが、どことなく明るく優しさに満ちている。
確かにあの新体操は、共新中学の、そして楢崎忍の新体操だと思えた。
「じゃあ、行こうか?」
美乃理と好子も立ち上がり歩き出す。
駅まで二人で歩いた。
その間、好子は無言だった。
駅まで来ると再び行き交う人々の雑踏や車の音が聞こえる。
改札口まで見送った。
「もう、好子ちゃんにあたしから言うことはないよ。あとは今晩ゆっくり考えて……」
一度、言葉を区切って、改めて真剣な眼差しで好子を見つめる。
「明日、部室で待ってるから」
「は、はい」
「じゃあね、また明日」
さよならといいそうになったが、やめて言い換えた。
ちょうど列車が到着したところだった。
降りてくる人、乗り込む人で、改札口とホームはたちまち混雑する。
好子が一度振り返って手を振った。
やがて帰宅ラッシュの波に乗まれていった。




