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君が待つ空へ――昭和、九州航空廠の恋  作者: 櫻木サヱ


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2/2

油の匂いと、白い夏

翌朝。


 恒一が工場へ入ったとき、まだ空には薄い朝靄が残っていた。


 六月の九州は、東京よりも暑く感じた。


 朝だというのに空気は湿っていて、シャツが肌に張りつく。


 それでも工場の中では、すでに大勢の人間が動いていた。


「おはようございます!」


「おう、朝倉。早いな」


「おはようございます」


 昨日紹介された整備班の男たちに挨拶をしながら、恒一は格納庫の奥へ進んだ。


 昨日、澄江と話した戦闘機がそこにある。


 まだ薄暗い格納庫の中で、機体だけが妙に大きく見えた。


 恒一は工具箱を置く。


 そして、機体の前にしゃがみ込んだ。


「……さて」


 昨日は外から見ただけだった。


 今日は、細かく調べる。


 まず機体の損傷。


 翼の一部に大きな傷。


 外板にもへこみがある。


 さらにエンジン周辺。


 ここが問題だった。


 恒一は工具を手に取り、慎重に部品を確認していく。


 機械は嘘をつかない。


 壊れている場所には、必ず理由がある。


 異音。


 摩耗。


 変形。


 わずかな傷。


 それらを一つずつ見つけていけばいい。


 恒一にとって、整備とはそういう仕事だった。


「朝倉さん」


 背後から声がした。


 振り返らなくても誰か分かった。


「おはよう、澄江さん」


「おはよう」


 澄江は小さな木箱を抱えていた。


「これ、持ってきた」


「何?」


「部品」


 恒一が木箱を見る。


「こんなに?」


「昨日、部品庫の人にお願いしておいたの」


「まだ必要になるか分からないよ」


「だから持ってきたの」


「……なるほど」


「役に立つ?」


「たぶん」


「たぶん?」


「まだ調べてる途中だから」


 澄江は少し頬を膨らませた。


「朝倉さんって、愛想ないね」


「よく言われる」


「自覚あるんだ」


「ある」


「ふふっ」


 澄江が笑う。


 恒一は工具に視線を戻した。


「でも、昨日より話すようになったね」


「そう?」


「うん」


「仕事だから」


「またそれ」


 澄江は笑いながら、近くの木箱に腰掛けた。


「じゃあ、私はここにいるね」


「どうして?」


「手伝うから」


「危ないよ」


「何が?」


「工具とか、機械とか」


「私だって仕事してるんだけど」


「あ……」


「ひどい」


「悪かった」


 澄江はまた笑った。


 その笑い声が、工場の騒音の中でも不思議とはっきり聞こえた。


 恒一は少しだけ口元を緩めた。


 その瞬間。


「朝倉!」


 整備班の責任者が怒鳴った。


「はい!」


「エンジン周り、見られるか!」


「今やっています!」


「終わったら報告しろ!」


「分かりました!」


 責任者が離れていく。


 澄江が恒一を見る。


「大変そうだね」


「まあね」


「東京でもこんな感じ?」


「もっと忙しかった」


「じゃあ、九州は楽?」


「そんなことない」


「だよね」


 澄江は少し遠くを見る。


 工場の中では、十代くらいの少年たちも働いている。


 みんな黙々と手を動かしていた。


 笑い声は少ない。


 仕事を止める者もいない。


 誰もが何かに追われるように働いていた。


「……ねえ、朝倉さん」


「何?」


「東京って、どんなところ?」


 突然の質問だった。


「どんなって……」


 恒一は少し考えた。


「人が多い」


「うん」


「電車も多い」


「うん」


「建物も多い」


「それは分かる」


「あと……」


 恒一は少し笑った。


「夜でも明るい」


「夜でも?」


「街灯があるし、店も多いから」


「いいなあ」


 澄江は呟いた。


「こっちは夜になると、真っ暗だもん」


「灯火管制?」


「うん」


 澄江は格納庫の外を見た。


「最近は特に厳しくなったから」


 その声には、昨日までの明るさが少しだけ消えていた。


 恒一は何も言わなかった。


 戦争の話になると、二人の間に沈黙が生まれる。


 それは工場の誰もが同じだった。


 何を話しても、最後には戦争へ戻ってしまう。


 好きな食べ物の話をしても。


 故郷の話をしても。


 将来の夢を話しても。


 最後には、戦争がその先を塞いでいる。


「朝倉さん」


「ん?」


「甘いもの、好き?」


「急だね」


「答えて」


「嫌いじゃない」


「じゃあ、これ」


 澄江が懐から小さな包みを取り出した。


「何?」


「お菓子」


 恒一は目を丸くした。


「どこで?」


「秘密」


「秘密って……」


「いいから」


 包みを開く。


 小さな砂糖菓子だった。


 今の時代、甘いものは貴重だった。


「これ、いいの?」


「いいの」


「澄江さんの分は?」


「私はもう食べた」


「本当に?」


「本当」


 恒一は少し迷ったあと、砂糖菓子を口に入れた。


 甘い。


 たったそれだけだった。


 けれど、妙に懐かしい味がした。


「……うまい」


「でしょ?」


 澄江は嬉しそうに笑った。


「昔はもっと甘いもの、たくさんあったんだけどね」


「そうなの?」


「うん。父さんがよく買ってきてくれた」


「お父さんは?」


 聞いた瞬間、澄江の笑顔が止まった。


 恒一はすぐに気づいた。


「……ごめん」


「ううん」


 澄江は首を横に振った。


「もう大丈夫」


「……」


「去年、亡くなったの」


 工場の音だけが響く。


「戦争で?」


「うん」


 それ以上、恒一は聞かなかった。


 澄江も話さなかった。


 ただ、二人で黙って機体を見つめていた。


 やがて澄江が立ち上がった。


「私、仕事戻るね」


「ああ」


「朝倉さん」


「ん?」


「お菓子、返さなくていいから」


「分かってる」


「じゃあね」


「また」


 澄江は工場の奥へ歩いていった。


 恒一はその背中を見送った。


 昨日初めて会ったばかりなのに。


 なぜか、彼女のことが少し気になった。


 そして、その日の夕方。


 恒一はエンジンの点検を終えた。


「……やっぱりだ」


 小さく呟く。


 内部の部品に問題がある。


 交換しなければならない。


 だが、部品庫を探しても同じものは見つからなかった。


「どうするかな……」


 恒一が考えていると、横から声がした。


「なにか困ってる?」


 澄江だった。


「部品がない」


「どの部品?」


「これ」


 恒一が見せる。


 澄江は部品を受け取り、しばらく眺めた。


「これなら……」


「知ってる?」


「部品庫の奥に、似たようなのがあった気がする」


「本当?」


「うん」


 澄江はすぐに走り出した。


「待って!」


「何?」


「場所分かるの?」


「たぶん!」


「たぶんって……」


 澄江は振り返って笑った。


「見つけてくる!」


 そして、そのまま走っていった。


 恒一は呆れながら笑った。


「……変な子だな」


 けれど。


 その日の夕暮れ。


 澄江は本当に部品を見つけてきた。


 泥だらけになりながら。


 埃まみれになりながら。


 それでも、笑っていた。


「見つけたよ!」


「……本当にあったんだ」


「だから言ったでしょ」


 恒一は部品を受け取る。


 そして、ふと思った。


 この人がいるなら。


 この工場での生活も、悪くないかもしれない。


 窓の外では、夕日が山の向こうへ沈みかけていた。


 赤く染まる空。


 滑走路の向こうを、一機の飛行機がゆっくりと移動している。


 澄江が空を見る。


「綺麗だね」


「ああ」


「明日も晴れるかな」


「たぶん」


「また、たぶん?」


「天気のことまでは分からないよ」


「ふふっ」


 二人の笑い声が、夕暮れの工場に小さく響いた。


 その頃の二人はまだ知らなかった。


 明日も同じように話せることが、

 どれほど大切なことなのか。


 そして、戦争という時代が、

 そんな当たり前の時間さえ奪おうとしていることを。

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