遠い空から来た男
昭和十九年、六月。
九州へ向かう列車の窓から見える景色は、東京で見慣れていたものとは少し違っていた。
山が多い。
田畑が広い。
そして、空がやけに大きく見えた。
朝倉恒一は、窓際の席に座ったまま、流れていく景色をぼんやり眺めていた。
膝の上には、茶色い革の鞄。
中には着替えと、整備士として必要な書類が入っている。
鞄の横には、工場から渡された一枚の辞令。
何度読んでも、そこに書かれている文字は変わらない。
九州地方、航空機整備施設への派遣。
期間は未定。
恒一は小さく息を吐いた。
「……未定、か」
窓に映った自分の顔を見る。
二十歳。
まだ若い、と自分では思っている。
だが、工場ではそうも言っていられなかった。
戦争が始まってから、航空機の整備をする人間はいくらいても足りない。
熟練した職人たちは次々に徴用され、若い整備士たちにも大きな仕事が回ってくるようになった。
恒一も、その一人だった。
幼い頃から機械が好きだった。
父親の使っていた古い工具を勝手に触っては叱られた。
壊れた時計を分解して、元に戻せなくなったこともある。
それでも、機械に触れるのが好きだった。
金属の匂い。
油の匂い。
工具が触れ合う音。
故障して動かなかった機械が、修理を終えて再び動き出す瞬間。
それが好きだった。
だから航空機の整備士になった。
少なくとも、戦争が始まる前は、それだけだった。
けれど今は違う。
修理するのは、ただの機械ではない。
戦闘機だ。
空を飛び、敵と戦うための機械。
その先に何が待っているのか。
恒一は考えないようにしていた。
考えたところで、自分にはどうすることもできない。
命令された場所へ行き、命令された仕事をする。
それが自分の役目だった。
列車が大きく揺れた。
向かいの席で眠っていた男が目を覚まし、窓の外を確認する。
「もうすぐだな」
男が呟いた。
恒一は顔を上げた。
「はい」
「九州は初めてか?」
「……はい」
「そうか」
男はそれ以上何も言わなかった。
再び目を閉じる。
恒一も窓の外へ視線を戻した。
遠くに山々が見える。
その向こうに、自分がこれから暮らす場所がある。
どんな工場なのだろう。
どんな人たちが働いているのだろう。
そして、自分はいつ東京へ帰れるのだろう。
答えは、どこにもなかった。
ただ列車だけが、決められた線路の上を走り続けていた。
数時間後。
恒一は小さな駅に降り立った。
駅前には軍用車両が何台か停まっていた。
迎えに来た男に名前を確認され、恒一は荷物を持って車へ乗り込む。
「朝倉恒一だな」
「はい」
「整備経験は?」
「三年です」
「エンジンは?」
「一通り」
「機体の修理は?」
「できます」
「なら助かる」
男は短く答えた。
車が走り出す。
窓の外には、田畑と民家が続いている。
穏やかな風景だった。
けれど、その穏やかさとは裏腹に、街には戦争の影があった。
配給の列。
物資を運ぶ荷車。
軍服姿の青年。
見送りをする家族。
恒一は何も言わず、それらを眺めていた。
やがて車は山道へ入った。
しばらくすると、木々の間から巨大な建物が見えてきた。
航空機工場だった。
大きな格納庫。
その周囲を走り回る作業員。
積み上げられた木箱。
そして、建物の向こう側に見える滑走路。
遠くで、一機の戦闘機が離陸していった。
低い轟音が山々に響き渡る。
恒一は思わず窓の外を見た。
「……すごい」
それが、最初に出た言葉だった。
車が工場の敷地へ入る。
そこからは、別世界だった。
エンジン音。
金属を叩く音。
怒鳴り声。
走り回る人々。
油と燃料の匂い。
整備を待つ機体が何機も並んでいる。
恒一は鞄を抱え直した。
「ここが、お前の仕事場だ」
「はい」
「今日から忙しくなるぞ」
男はそれだけ言うと、先に歩いていった。
恒一も後を追う。
格納庫の中へ入った瞬間、むっとするような熱気に包まれた。
六月の暑さ。
機械の熱。
人の熱。
すべてが混ざっている。
「朝倉さん?」
突然、横から声がした。
振り返る。
そこに少女が立っていた。
白い作業着。
肩まで伸びた黒髪。
少し日焼けした肌。
年齢は、自分とそれほど変わらないように見えた。
少女は恒一をじっと見ている。
「東京から来た人?」
「そうだけど……」
「整備士?」
「うん」
「へえ」
少女は恒一の顔を見たあと、持っていた書類へ目を落とした。
「朝倉恒一さん。二十歳」
「……よく知ってるね」
「さっき名簿を見たから」
少女はそう言って笑った。
「私は白石澄江。ここの工場で働いてます」
「白石さん」
「澄江でいいよ」
「え?」
「みんなそう呼んでるから」
恒一は少し戸惑った。
「じゃあ……澄江さん」
「うん。それでいい」
澄江は笑った。
その笑顔が、妙に印象に残った。
戦時中の工場には似つかわしくない、普通の女の子の笑顔だった。
「朝倉さん」
「何?」
「一つ、お願いしてもいい?」
「仕事なら聞くけど」
「仕事だよ」
澄江は格納庫の奥を指差した。
そこには、一機の戦闘機が置かれていた。
機体の一部は大きく損傷し、翼にも傷がある。
整備士たちが周囲を囲んで作業をしている。
「この飛行機」
澄江は少しだけ声を落とした。
「直せる?」
恒一は機体を見る。
損傷具合。
部品の状態。
エンジン。
ざっと確認する。
「……やってみないと分からない」
「そっか」
「どうして?」
「この飛行機ね」
澄江は機体を見つめた。
「前に乗ってた人、無事に帰ってきたの」
「……」
「だから、また飛べるようになってほしい」
恒一は黙った。
機体を見る。
傷だらけの機体。
その機体に乗っていた誰か。
そして、その帰りを待っていた人たち。
今までなら、そんなことを考えたことはなかった。
修理する。
飛ばす。
それだけだった。
けれど、澄江は違った。
彼女にとってこの機体は、ただの戦闘機ではない。
誰かが生きて帰ってきた証なのだ。
「……できる限りやるよ」
恒一は言った。
澄江が顔を上げる。
「本当?」
「ああ」
「約束?」
「約束」
澄江は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、よろしくね。朝倉さん」
「ああ。よろしく」
そのときだった。
格納庫の外から、突然大きなエンジン音が響いた。
二人が同時に空を見上げる。
一機の戦闘機が、青空を横切っていく。
ほんの数秒。
それだけだった。
澄江は飛んでいく機体を見つめていた。
恒一も同じ方向を見る。
青い空。
白い雲。
そして、その空を飛ぶ一機の戦闘機。
それは美しい光景だった。
だからこそ、恒一には少し怖かった。
あの空の先に、戦争がある。
そして自分はこれから、その空へ飛んでいく機体を直す。
隣で澄江が、小さく呟いた。
「……ちゃんと帰ってきてね」
「え?」
「ううん。なんでもない」
澄江は笑った。
恒一は、その言葉の意味をまだ知らなかった。
それがやがて、自分自身にも向けられる言葉になることを。
この九州の空の下で。
二人の長い夏が、始まった。




