7. 川の道
鉛と、石灰。水道の修理には、この二つが、いくらあっても足りない。
鉛は管になり、石灰は継ぎ目のモルタルになる。どちらも、市中で買えば足元を見られる。俺は、サルノ川をさかのぼった先の里で、安く仕入れる伝手を作ることにした。運ぶのは、川を下る艀である。
艀の親方は、ニゲルという、川面みたいに日焼けした男だった。舟の上で暮らして四十年になる、という。俺と、同じ数字だ。それを聞いて、妙に馬が合った。
「水道屋が、川に用かい?」ニゲルが、白い歯を見せる。
「川は、水の道です。俺の縄張りですよ」
ニゲルが、がはは、と腹の底から笑う。その笑い声が、川面を渡って、対岸まで響いていく。
艀に乗せてもらうと、水の匂いが変わった。辻の噴水の、澄んだ冷たい匂いではない。泥と、葦と、魚の腹の、生きた川の匂いだ。舳先が水を割る音、櫂のきしみ、遠い岸で鵜が羽を打つ音。ニゲルは、櫂ひとつで、流れの筋を器用に読んで舟を進めていく。俺が管の中の水の声を読むように、この男は、川面の皺の一本から、底の流れを読むのだろう。同じ、水の職人だ。言葉は少なくても、通じるものがある。
俺たちは、まず、川港までの道を直すことにした。荷を上げ下ろしする石畳が、あちこち割れて、車輪を取られる。俺は、その割れ目を埋め、水はけの溝を切っていく。水道屋が、道普請に精を出す。傍から見れば、ずいぶん奇妙な取り合わせだろう。
「水道屋のくせに、ずいぶん道に熱心じゃねえか」ニゲルが、荷を担ぎながら、からかう。
「水も、人も、通り道がなけりゃ、どこへも行けません」俺は、溝の泥をさらいながら答える。「道を直すのは、水を直すのと、同じ仕事です」
ニゲルは、はあ、と気のない返事をして、それきり、深くは訊かなかった。それで、いい。訊かれても、本当のことは、答えられないのだから。
川港は、日ごとに、賑わいを増していった。夜明けから、艀が着き、荷が上がり、荷車がきしみながら坂を上る。俺が溝を切った石畳は、雨のあとも水を溜めず、車輪を取らない。荷役の男たちは、俺を見つけると、片手を上げて挨拶を寄こす。潮の匂いと、麦の匂いと、汗の匂い。生きて、動いて、稼いでいる街の匂いだ。俺は、その賑わいの真ん中で、荷車の轍を、また一つ、埋め直す。にぎやかであれば、あるほど、いい。
「おかげで、こっちも実入りが増えたぜ」ニゲルが、荷を積みながら、上機嫌に言う。「あんたの直した道は、雨でもぬかるまねえ。荷車がひっくり返らねえと分かりゃ、荷主も安心して荷を出す。荷が増えりゃ、川屋の懐もあたたかい。……水道屋が、なんで道普請までって笑ったが、こりゃあ、いい相棒を持ったもんだ」
「そうだと、いいんですがね」俺は、曖昧にうなずくにとどめた。ニゲルが数えているのは、荷の目方だ。俺が数えているのは、この道を歩き慣れていく、足の数のほう。同じ道を見て、別のものを勘定しているのを、この気のいい川屋は、知らずにいる。それで、いい。
「いい道になったなあ」舟の舳先で、ニゲルが煙管をふかしながら、目を細めた。「なあ、水道屋。この川、下ればすぐ海だ。いざとなりゃ、舟で海へ逃げりゃいい。地震が来ようが、火が出ようが、水の上なら安心よ」
俺は、笑わなかった。
海。その一言が、胸の底の、いちばん冷たいところを、するりと撫でていく。
俺は、知っている。あの日の海が、どうなるかを。山が火を噴けば、海の面には、軽石が浮く。びっしりと、筏のように固まって、櫂の一本も、立たなくなる。おまけに、風は沖から陸へ、まともに吹きつける。舟は、出せない。浜で舟を待つ者は、ただ、山の吐いたものを、逃げ場のない浜で浴びるだけだ。だから、海は、逃げ道に数えない。川も、銭を運ぶ道であって、命を運ぶ道では、ない。命の逃げ道は、東へ、陸を、自分の脚で歩く。それきりだ。――だが、それを、今ここで言うわけには、いかない。
「……海は、あてになりません」俺は、それだけを口にした。「水は、上から下へしか、流れませんから。逃げるなら、いつだって、自分の脚が、いちばん確かです」
「違えねえや」ニゲルは、深い意味も取らず、また笑う。
帰りの艀の上から、俺は北を見た。街の甍の向こうに、ヴェスヴィオの稜線が、夕日を受けて、静かに横たわっている。穏やかで、なだらかで、どこにも、火の気配などない線。
その線が、前の世で見せられた映像の、天を衝く噴煙の形と、ふいに重なった。息が、一瞬、止まる。俺は、艀の縁を、指の白くなるほど強く握りしめた。夕風が、川の匂いを運んでくる。生きている、水と、泥の匂いだ。
この、生きた水の匂いの中で、俺は、あと十六回、同じ季節を巡らせる。祭りを重ね、道を敷き、水帳に、一年また一年と、目盛りを刻む。ただ、それだけを、黙って。
――まだだ。まだ、十六年ある。俺は、心の中で、折れかけた指を、そっと数え直した。




