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4. 湯気の戻る日

 浴場の再開が、いつしか街じゅうの悲願になっている。


 地震から二月、応急の水は、どうにか行き渡った。それでも、湯だけが、まだ戻らない。人というのは、案外、湯で正気を保っている。前の世でも、断水の復旧に出るたび、年寄りが最初に聞くのは、決まって「風呂はいつ出る」だった。腹の心配より先に、湯の心配をする。生きる、というのは、どうやら、そういうことらしい。俺は、その順番が嫌いではなかった。


 俺は浴場に籠り、突貫の修理にかかる。床下の火道に厚く詰まった(すす)をさらい、割れた目地を石灰で丹念に埋め、地震で狂った鉛管を、一本ずつ継ぎ直していく。火入れは、急がない。三日かけて、じわじわと石を温めていく。急いで焼けば、温まりきらぬうちに、また目地が割れる。水も火も、せかすと、すねるのだ。


「ネアポリスより、先に開けろ」浴場主のホルコニウスが、毎日のように口を出しに来る。


「開けますとも」俺は煤で真っ黒になった顔で、応じてやる。「ただし、割れない開け方でね。旦那の見栄は、長持ちさせましょう」


 ホルコニウスは、口だけの男ではなかった。翌日には、伝手をたどって左官を五人も連れてきて、薪を裏庭に山と積ませる。見栄のためなら、この男の財布の紐は、驚くほど緩む。俺は遠慮なく、その見栄に働いてもらうことにした。虚栄も、向ける先さえ間違えなければ、街に湯を戻す立派な力になる。


 火入れの三日は、退屈な仕事だ。ただ、石の温もりを掌で確かめ、火加減を少しずつ上げていくだけ。だが、この退屈こそが、いちばん大事な仕事でもある。急いては、必ず、どこかが割れる。俺は夜ごと、誰もいない浴場で、じわじわと温まっていく石に手を当てて過ごした。掌に伝わる熱が、朝より夜、夜より翌朝と、少しずつ確かに増していく。誰が見ていなくても、石の温もりは、嘘をつかない。水と、同じだ。手をかけただけ、正直に応えてくれる。この静かな手応えを、俺は好いている。


 四日目、ようやく、湯が張られた。


 白い湯気が、もうもうと立ち昇って、高い天井の暗がりへ吸い込まれていく。温めた石と、香油(こうゆ)の匂い。真っ先に湯へ飛び込んでいったのは、素っ裸の子供の一団である。次いで、腰の曲がった年寄りが、湯守に手を引かれて、そろそろと肩まで沈む。それから、昼間から仕事を抜けてきたらしい男たち。湯の中では、金持ちも、貧乏人も、同じ一枚の裸だ。誰もが間の抜けた顔で、湯に浸かって、ほう、と長い息を吐いていた。天井から落ちる雫の音が、その吐息に、ぽつ、ぽつと拍子をつける。


 俺は濡れた柱にもたれて、その湯気を、ぼんやりと眺めていた。


 水と、湯。たったそれだけのもので、強張っていた街の顔が、ゆっくりとほどけていく。四十年、俺が守り続けてきたのは、蛇口の、ずっと向こうにある、こういう顔だったのだ。前の世では、その顔を見る機会が、ついぞなかった。ここでは、違う。湯気の向こうの、ほどけていく顔が、俺の仕事の行き着く先をはっきりと見せてくれる。


 湯縁に腰かけた古老が、俺を手招きした。この街に六十年住んでいるが、水の止まった三日ほど、生きた心地のしない日はなかった、という。それが、今日はこうして、湯に肩まで浸かれる。ありがたや、水道屋さま、と皺だらけの手を合わせてくる。俺は、きまりが悪くなって、湯口のほうへ目を逃がした。拝まれるほどの、大それた仕事ではない。ただ、水を止めなかっただけだ。それでも、止めなかったことが、こうして、人の背中を湯で緩めている。


 湯守が、湯口の詰まりを気にして俺を呼びに来た。俺は袖をまくり、湯口へ手を差し入れて、指先で細い管の通りを確かめる。詰まりは、ない。ただの気泡だ。手を引き抜くと、掌が、心地よく火照っていた。四十年、冷たい水にばかり触れてきた手だ。温い湯の感触は、なんだか、面映(おもは)ゆい。


「水道屋さん、いい湯だよう!」


 湯の中から、誰かが、濡れた手を大きく振った。俺は、片手を上げて応える。喉の奥が、また、じんと熱くなる。声を掛けられ、顔を覚えられる。それが、こんなにも体を内側から温めるものだとは、前の世の俺は、とうとう知らずに終わってしまった。遅い。だが、遅くとも、知れてよかったと思う。


 帰りぎわ、脱衣所の外の路地で、ふいに袖を掴まれた。振り向くと、パン屋のサルウィアが立っている。湯上がりらしく、頬がほんのり上気していた。


「あんたに、頼みがあってさ」彼女は、いつもの威勢を、少しだけ引っ込めて言う。「うちの竈、見ちゃくれないかい? 地震で割れて以来、火の回りが、どうにも悪いんだ。……銭は、ないよ。焼けたパンで、払うから」


 俺は、湯気の匂いの残る髪を、掻いた。


「パンで、けっこうです」


 彼女の頬が、ふ、と緩む。その緩み方が、さっき湯の中で見た、街の顔に、少しだけ似ていた。強張りが、内側からほどけていく、あの顔だ。

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― 新着の感想 ―
二~三十年前でしょうか。法事で料亭?に行きましたらなんだか金属製らしい物がグネグネと。店の玄関先に飾ってありました。 家族に聞いたら昔の水道管だと。鉛で出来ているから敷設(?)がし易かったとか。ですが…
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