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29. 水道屋の膝

 二万人の朝は、まず水である。


 ヌケリアの井戸は、町方に六本。平時は足りる。だが、人が倍になった街では、話が違う。俺は井戸端に台を置き、その上に立って、列の作法から始めた。桶は一人ひとつ。年寄りと身重と病人が先。汲み手は交替で、順の札を回す。……十七年前、地震の朝にポンペイの辻でやったことと、寸分違わぬ仕事である。あのときの婆さんが、今朝は列の先頭で、慣れた顔で桶を出している。


 列を仕切る頭には、当然のように、サルウィアが立った。


「そこ、割り込むんじゃないよ! 桶は一人ひとつ! ……ポンペイもヌケリアも、列の中じゃ同じ顔だ!」


 通る声である。十七年前と同じ声が、知らない街の井戸端で、同じ台詞を張り上げている。違うのは、隣で木札を配る娘がいることだ。割れかけた列は、台の上のひと声と、見慣れた札とで、渋々、列に戻る。人は、並び方を知っている列には並ぶものである。知らない列だから、割れる。ポンペイの組の札は、その朝のうちに、井戸端の柱へ掛け直された。


 水の次は、汚れである。


 二万人の落とすものは、二万人分だ。放っておけば、六六年の夏が、ここで繰り返される。俺は組頭を集め、汲み取りの場所を井戸から遠くへ定め、溝を掘り、怪しい水は煮る、の触れを女たちの口の端に載せた。湯の順番も決める。年寄りから。次に子。働き手は、最後。飲み水は井戸、洗いは川。ニゲルの荷担ぎ組が川の水を天秤で運び上げ、洗い場を広場の下手にこしらえた。飲む水と使う水を分けるだけで、井戸の列は、目に見えて短くなる。湯屋の常連どもは、いつの間にか、天秤棒に桶を提げて長屋の奥まで水を売り歩き始めている。銭を取るのが、かえっていい。施しは長続きしないが、商売は長続きする。触れは、貼り紙だけでは半分しか届かない。だから水汲みの女たちが、井戸は飲むほう、川は洗うほう、と節をつけて歌い出したのには、俺のほうが助けられた。作法は、歌になった日から、根を張る。


 それでも、井戸は音を上げ始める。


 朝夕の水位が、日に日に下がる。六本の井戸に二万の桶は、そもそも荷が重いのだ。俺はムナティウスと組頭たちに、絵図を広げた。掘る。新しい井戸を、広場の外れに二本。場所は、川筋と古い井戸の並びから読む。前の世の四十年と、この世の十七年が、そろって同じ場所を指した。


「祭りの市の二十倍だぞ、人が」と、粉組合の頭がぼやく。「井戸まで祭りの支度たあ、聞いてねえ」


「ぼやきながら、掘る手が止まってませんよ、親方」


「……粉屋は、水がねえと干上がるんでな」


 掘りは、板で囲い、縄で吊り、砂を汲み出しては底を深くしていく。地道で、埃っぽくて、腰にくる仕事である。掘り始めて三日目の昼、一本目の底に、湿りが来る。


 湿りが泥になり、泥が溜まりになり、夕方――底の砂を跳ね上げて、水が、噴いた。掘り手の若い衆が尻餅をつき、覗き込んだ組頭が歓声を上げ、桶が次々に降ろされていく。夕陽の色を吸って、新しい水が、金色に揺れていた。


 俺は縁に膝をつき、最初のひと桶を検める。澄むまでには、まだ幾日かかかる。匂いを確かめかけたところで、横から小さな鼻が割り込んできた。ユスタである。桶の上で、娘の鼻がひくりと動く。


「鉄っぽい。ちょっとだけ。……でも、腐れはない。いい水よ」


「……俺の見立ても、同じだ」


「でしょ」


 娘は得意げに胸を張り、周りで、拍手のような、ため息のような、声が湧く。新しい井戸の検めは、この日から、親子二人の仕事になる。列の頭から、サルウィアが聞こえよがしに言った。うちは亭主も娘も、水で飯を食う家系らしいよ、と。笑い声が、桶の音に混ざる。


 その晩、俺は久しぶりに湯を使った。順番は最後の、働き手の湯である。ぬるくて、混んでいて、灰くさくて――それが、悪くないのである。


 ……俺は「街を失った男」を、やっている暇がなかった。ありがたいことに、である。朝から晩まで、水道屋の仕事が途切れない。仕事が、膝を立たせ続けてくれた。夜、寝藁に倒れ込むとき、俺はようやく思い出す。失ったものの目方と、それでも隣で寝息を立てている家族の目方とを。


 夕暮れの広場に、船乗りがひとり駆け込んできたのは、その翌日である。


 スタビアエの浜から、山裾を回って逃れてきた男だという。灰をかぶった顔で、男は水を一杯飲み干し、それから、報せを吐き出した。


 ミセヌムの艦隊が、あの日、浜へ船を出したこと。老いた提督が自ら艦を率い、逃げ惑う人々を乗せようとしたこと。そして――提督は、スタビアエの浜で倒れ、戻らなかったこと。


 広場のざわめきが、そこだけ、すっと引いた。


 手にしていた椀を、俺は、静かに置く。


 続きも、いつか読ませてくれ。……そう言って、俺の写しを宝物のように抱えていった人が、浜で戻らなかった。


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