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22. 八月の空振り

 八月の陽は、朝から白い。


 道駅の見回りを終えて、俺は一里塚の日陰で、水甕の蓋を検めた。水は八分目。松明壺の油は新しい。縄も、木札も、揃っている。五本で総点検――決め事の順で言えば、これは早い。旗は、まだ四本だ。分かっている。分かっていて、俺は前倒しを積んでいる。


 日付が、来るからだ。


 旗が主で、日付が従。決め事をこしらえた夜、そう定めたはずの並びが、八月を前に、するりと入れ替わっていた。当たり前だ、と俺の中の誰かが言う。十七年、この日のために道を敷いてきた男が、その日付を前に、帳面の旗の数なんぞ数えて座っていられるものか。


 二十一日の朝、俺はニゲルの艀に、書き付けを一枚託した。宛先はヌケリアの粉屋。文面は、一行きりである。


 ――パンを、三千人分。


 筆を置くまで、ずいぶん迷った量だった。二万とは、書けない。書けば、粉屋の窯では足りず、組合中の竈を借り、蔵の粉を空にする。外れたときに、返しきれない借りになる。三千。先に発たせたい年寄りと病人と、その付き添いのぶん。俺の弱気の目方が、そのまま数字になったような三千である。


 サルウィアは、その朝から、いつもより多くパンを焼き始めた。理由は言わない。俺も、訊かない。竈の前の背中が、いつもより少しだけ、まっすぐである。


 ユスタには、何も言っていない。娘の目に映る俺は、祭りの支度の気の早い親父のままだ。それで、いい。……それで、いいはずなのに、飯どきに娘の笑い声を聞くたび、喉の奥で、何かが軋む。


 二十三日の夕、俺は葡萄園の小屋へ登った。


 供はいらない、とケレルには言ってある。井戸はおまえの受け持ち、俺は山の泉と、山の顔を見る。……嘘ではない。嘘ではないが、本当でもない。俺はただ、あの日を、山のいちばんよく見える場所で迎えたかっただけだ。


 二十四日の朝焼けを、俺は小屋の戸口で迎えた。


 山は、いつもの形で、そこにある。葡萄の段々に露が降り、鳥が鳴き、荷車の軋みが、遠い街道から薄く届いてくる。俺は水を飲み、パンをかじり、嵩の減ったままの泉の桝を見て、それから日がな一日、山と街とを、かわるがわる眺めて過ごす。


 昼が、過ぎる。


 陽が、傾く。


 夕焼けが、稜線を静かに赤く塗って、消えた。


 星が出る。虫が鳴く。山は、静かなまま、夜に溶けていく。


 炉も焚かず、俺は戸口の石に座り続けた。膝の上の水帳が、夜露を吸って重くなっていく。祈りに、似ていた。神を持たない俺の、これが精一杯の、祈りの形である。


 ……二十五日も、俺は小屋にいた。二十六日も。晦日の夜、月のない闇の中で、俺はようやく、声に出して言う。


「……外れた」


 声にした途端、笑いがこぼれる。安堵の笑いなら、よかった。漏れたのは、もっと乾いた、自分でも聞き覚えのない笑いである。十七年。道を敷き、祭りを太らせ、水甕を据え、杯を交わし――その全部を、俺は、あの日付の上に積んできた。積んだものは崩れていない。それなのに、足の下だけが、砂に変わって、さらさらと崩れていく。


 そもそも、あの日付は、俺が測ったものですらない。前の世で、誰かの調べを受け売りに覚えただけの数字だ。名前ひとつ正しく覚えてもらえなかった男が、他人の覚えた日付だけを後生大事に、十七年――。


 小屋を下りると、ケレルが門口に立っていた。


 何も言わず、蝋板を差し出してくる。井戸八本、色、匂い、揺れ、獣。粒の揃った字が、みっしりと並んでいる。


「旗は、四本のままです。……一本も、下りていません」


「…………」


「親方。数字は、まだ幅の外です。全部です」


 慰めの言葉を、この弟子は持たない。持たないから、数字を差し出す。それがどれほどの慰めか、差し出した本人だけが知らない顔で、蝋板を抱えて帰っていく。


 家へ帰ると、サルウィアは何も訊かず、黙って飯を多めに盛った。それだけで人心地がつくのだから、俺も安い男である。


 九月の頭、ヌケリアへ、銭を払いに出向く。


 粉屋の裏の納屋に、パンは、まだ積まれていた。三千人分。焼かれて、待って、硬くなった山である。納屋いっぱいに、香ばしさの抜けた匂いが立ち込めて、胸に応えた。半分は豚の餌になった、と小僧が教えてくれる。豚は、さぞ肥えただろう。


「注文を出し、焼かせた。なら、払う。……それだけの話です」


 革袋ごと差し出した銭を、ムナティウスは数えなかった。銭箱の蓋を開け、袋のまま、どさりと落とす。


「理由は問わねえ約束だ。言い訳も、聞かねえ約束だぞ」


「……助かります」


「次も、三日で焼く」仏頂面は、まっすぐ俺を見て言った。「一度目を律儀に払いに来る男の、二度目の注文だ。断る理由が、ねえ」


 帰り道は、八里をひとりで歩く。


 夕暮れの一里塚で、足が止まった。据えてから十六年になる水甕の蓋を開け、柄杓を使う。ぬるい水の面が静まると、夕焼けを背にした男の顔が、水鏡に浮かんだ。四十七の、日に焼けた、目の窪んだ男である。知らない男のような気がして、しばらく見ていた。


 日付が違うのか。歴史が違うのか。


 ……それとも、俺が、違うのか。

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― 新着の感想 ―
外れた。でもパンの代金を支払う事で信用を得た。
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