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19/31

19. 署名の日

 七七年の年の初め、年次の写しの日が来た。


 一年分の水帳を、綴りから写しへ、清書して納める。写す手は、去年までは俺、検める目も俺だった。今年から、写す手はケレルである。二十三になった弟子の字は、粒が揃って、癖がなく、俺の字より、正直に言えば読みやすい。


 書き終えた写しを三度検めて、俺は最後の欄を、とん、と指で叩いた。書き手の名を入れる欄である。


「おまえの名を、書け」


 ケレルの手が、一瞬、止まった。六年前、解放の署名で震えた手だ。その手が、今日は、震えなかった。一画ずつ、静かに、自分の名を書き入れる。書き終えて、弟子は顔を上げ、まっすぐに俺を見た。


「……約束の日、です」


「ああ。今夜、山の小屋へ来い」


 その夜、葡萄園の小屋で、炉を挟んで、俺は全部を話す。


 前の生のこと。遠い国で、水道を四十年守った男が、定年の朝に倒れて、この体で目を覚ましたこと。そして――この山が火の山であること。いつの日か火を噴いて、街が灰と軽石の下に埋まること。俺はその結末だけを知っていて、仕組みは何ひとつ知らないこと。逃げた者は助かり、遅れた者から死ぬこと。日付。


「……七九年の、八月二十四日。俺の覚えでは、そうだ」


 十五年、誰にも言えなかった日付が、声になる。声に出したら折れる、と思い続けてきたのに――折れない。炉の向こうの目が、逸らさずに、まっすぐこちらを見ていたからだ。


 ケレルは、最後まで、ひと言も挟まない。ただ、炉の薪が二度爆ぜるあいだに、その手が膝の上で拳になり、拳が白くなり、白いまま、ゆっくりと開いていった。話が終わると、黙って立ち、黙って頭を下げ、黙って夜道を下りていく。戸口の闇にその背中が溶けるまで、俺は炉の火を挟んで、動けずにいる。


 それから三日、弟子は口をきかなかった。


 見回りは休まない。字は乱れない。飯も食う。ただ、口をきかない。サルウィアが「あんた、あの子と喧嘩でもしたのかい?」と眉をひそめ、俺は「……大人になる途中です」とだけ答えた。半分は、俺自身に言い聞かせる言葉である。信じろとも、忘れろとも、俺からは言えない。あの夜の話は、そういう種類の荷物なのだ。担ぎ方は、本人が決めるしかない。


 四日目の朝である。


 見回りから戻ったケレルは、いつもどおり蝋板を差し出し、それから、蝋板を持ったままの手で、深く頭を下げる。


「逃げ道の掃除、俺の受け持ちにしてください」


「……掃除?」


「道駅の水甕、松明壺、里程標。あれの検分、俺に回してください。祭りの道具も、綱も、札も。……親方の言った日が来ても、来なくても、掃除しておいて悪いものは、ひとつもありません」


 俺は、しばらく声が出なかった。信じるとも、信じないとも、この弟子は言わない。ただ、受け持ちを寄こせと言う。それが、あの夜の荷物の、この男の担ぎ方なのだ。


「……頼む」


 それだけ言うのが、やっとである。


 その晩から、俺とケレルは、二人だけの決め事をこしらえた。水帳の見る目は七つ。井戸の水位、水の色、匂い、山の泉、揺れ、獣、管の傷。どの目でも、平年幅を外れたまま戻らないものが出たら、旗を一本立てる。三本立ったら、観測を全部、毎日にする。五本で、道駅の総点検。六本で――街を軽くする。上げ下ろしは、日付と数字を添えて書く。当てるためではない。来たときに、慌てないためだけの決め事である。


 秋になる。


 ユスタが十三になり、俺の見回りに、よく付いてくるようになった。この娘は、鼻がいい。雨の来る昼を、匂いで先に言う。パン種の塩梅を、竈の前を通っただけで言い当てて、母を悔しがらせる。そして井戸を覗けば、俺より先に、水の匂いを言い当てるのだ。その日、山手の三番の縁で、娘は小さな鼻をひくつかせ、こともなげに言う。


「山手の三番、鉄っぽい。あと……卵の腐ったのが、ちょっと」


 背筋を、冷たい指がひと撫でした。卵の腐った匂い。俺は桶を上げ、鼻を寄せる。……ある。かすかに、だが、確かに。


「……井戸の癖だ」


 口が、勝手にそう流していた。娘は、ぷっと頬を膨らませる。


「またそれ。あたしの鼻、いつも『癖』で片づける」


「癖は、大事なんだ。癖を知らなきゃ、癖じゃないものが、わからない」


「ふうん。……ま、いいけどさ」


 その夜、俺はひとりで山手の三番へ戻り、あらためて匂いを確かめ、水帳を十五年分、繰り直した。二月の濁りの記録は、十五回ある。だが、秋口の、この匂いの記録は――幅の外だ。幾日おいて確かめても、匂いは戻らない。半月おいても、戻らない。癖なら、必ず帰り道がある。帰り道のない外れは――癖では、ないのだ。


 俺はMONSの綴りを開き、見返しに、鉄筆で小さく、旗の形をひとつ刻んだ。日付と、観測と、措置――山手三本の見回りを、これからは週にひと巡り、欠かさない。


 ――旗、一本目。


 ……立てたのは、俺の物差しと、娘の鼻だ。

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