第12話 パリの一夜 ―君がくれた空の色―
タクシーから降り立ち、ル・シャンリのエレベーターで上階へ向かった。静かにドアが開くと、優雅な空間が広がっている。品のいい間接照明が落ち着くし、さすが五つ星だ。
窓の外にはエッフェル塔のライトアップが輝いていて、テーブルにはシャンパンとグラスが用意されていた。悠真さんがクスッと笑う。
「友人の結婚式の招待客用の特典らしい。特別な夜にぴったりだね」
窓際のソファに並んで座り、グラスを合わせる。ピンクの泡がシュワシュワと立ち上り、弾けていく。ガラスの器に綺麗に並べられたカットフルーツといただく。美味しくて、止まらない。
「本当に美味しいです」
いつもはこんなに飲まないのに、緊張しすぎて飲み過ぎたかも……。でも、とっても良い気分だ。
「顔真っ赤になってるよ。飲みすぎた?」
「大丈夫です。ヘヘッ」
「五年前、あの桜の下で言えなかった言葉、今夜、言ってもいい?」
コクンと頷き、先生の話を聞く。
「君が夢を追いかける姿をずっと見ていたかった。それが俺の願いだった」
穏やかな声なのに、その奥に長い時間が詰まっているのがわかった。
私の夢をこんなに応援してくれてたなんて、嬉しすぎる! 私だけが先生の言葉を大切にしてると思ってたから。
「緊張してる?」
フルフルと首を横に振る。
「ただ、信じられないだけ。夢みたいだなぁ……と思って」
先生の手が、そっと頬に触れる。その指の温もりに、目を閉じた。
「もう二度と会えないかもしれないと思っていたからね」
先生の手を取って、自分の胸に当てた。
「感じますか? この鼓動」
先生が静かになった。私の心臓の速さが、手のひらを通して伝わっているはずだ。
「先生のせいですよ?」
「名前で呼んで。悠真って。イロハ」
緊張しながら口にした。
「悠真さん……」
その呼びかけに、彼の目が少しだけ揺れた。この瞬間から、先生は”湊先生”ではなく、“悠真さん”になった。
◇
夜が深くなるにつれて、言葉は少なくなっていった。
先にシャワーを済ませて、悠真さんがシャワーから出てくるのを待つ。
ドキドキする。全部が初めてだから。でも、もう心の準備は出来ている。これから、何が起こるかも、23歳だから分かっているつもりだ。あっ、戻って来た……。
悠真さんが、身体ごとそっと引き寄せてくれた。髪を撫でられて、指が頬を撫でる。
唇に触れられると、瞼を下した。そして――すぐに唇が重なる。
すごく優しくて、さっきよりも、長くて、どこまでも続いて行きそうだった。
「本当にいいの?」と聞かれて、首を縦に振り、悠真さんの首に腕を回して、深く息を吸い込んだ。
悠真さんの手が背中を滑って、肩のストラップに触れる。小さく頷くと、悠真さんの腕の中でドレスが滑り落ちた。
エッフェル塔が消灯したから、月光だけが窓から差し込んで、部屋を銀色に染めていく。明るすぎなくて、ちょうどいい。悠真さんが言葉を失ったのがわかった。
「綺麗だ」
それだけが、口から漏れた言葉だった。
悠真さんのシャツのボタンに手をかけて、一つずつゆっくりと外していく。肌が露わになるたびに、指先が震えた。肩から胸のラインの筋肉が綺麗で指でなぞってみる。想像してたより、ムキムキだ……。
「怖くない?」
目を見つめながら尋ねてくれたけど、首を振る。
「ずっと待っていたから」
悠真さんの指が私の頬に触れ、その輪郭をゆっくりとなぞっていく。
「君が卒業した後、何度も会いに行こうと思った。でも……」
声が消え入りそうになった。会いたいって思っていてくれたことが、本当に嬉しい。
「でも、私の将来を考えてくれたんですね」
静かに頷いてくれた。
「君には自分の翼で飛んでほしかった。俺の想いで、その翼を折りたくなかった」
悠真さんの身体にぎゅっと抱きつく。
「でも今は、もういいですか……?」
「うん。君も生徒じゃないし、大人になったし……俺も、待ったし、自分の気持ちも認めた……もう我慢しなくて、いいよね?」
悠真さんがひょいっと私を抱き上げる。
「ヒャッ」と声が出てしまう。お姫様抱っこなんて、してもらえると思わなかったから。
そして、ベッドに運ばれてそっと寝かされる。髪が枕の上に広がって、その一筋を指でそっと持ち上げてくれた。
「美しい……もう、君から目を離したくない」
この悠真さんの顔、今まで一番情熱的だと思った。教壇に立っていた頃の冷静さは、もうどこにもなかった。
熱すぎる視線は、私だけを見て、私の心を焦がしていく。好きな人が自分に夢中なのって、こんなに幸福感でいっぱいになるんだな……。
そして、そっと私に覆いかぶさってくる。
「見つめていて。君の目が好きだから」と囁かれて、彼の瞳を見つめると、その中に映る自分の姿が見えた。
二人の距離が溶け合い、境界線が曖昧になっていく。
何度も「悠真……」と呼ぶと、「もう一度呼んで。俺の名前を」と耳元で囁かれた。
悠真さんに「イロハ」と呼ばれるたびに、とろけそうになる。
私は何度も「悠真」と呼んだ。
「俺のものになって」
「うん……夢じゃないよね……?」
腕に抱き締めてもらった。パリの夜の静けさの中、二人の息遣いだけが聞こえていた。絡み合う二人のシルエットの影が白い壁に浮かび上がる。
「うん。現実だよ」
顔を両手でやわらかく包み込まれた。呼吸が乱れていく。お互いの名前を切なげに呼ぶ声が、部屋中に響いた。
二人の身体が一つになる瞬間、目を閉じた。
「あの時から、ずっと好きだったよ」
「私もずっと好き」
囁き合いながら、長い旅がようやく終わっていく気がした。
そして同時に、新しい旅が始まっていく気もした。
◇
柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込んで、眠る二人をやわらかく包み込んでいた。悠真さんの指が、私の背中をそっとなでている。朝のパリはすでに目覚めていた。
「君とこんな朝を迎えられて幸せだ」
囁かれて、悠真さんの身体に寄り添いながら微笑んだ。
「私も……こんな景色、夢みたい」
ゆっくりと目を開けると、昨夜と同じ優しい眼差しがそこにあった。
「おはよう」
「おはよう。夢じゃなかったんだね」
「うん。本当に君がここにいる」
手を取られて、指先にキスをしてもらった。胸の奥がじんわりと温かくなる。
「君がいなくなるのが怖いよ」
悠真さんの胸に顔を寄せた。鼓動が耳に響く。夢を追い続けた日々と、悠真さんを想い続けた五年が今ここで交差している。ここが私の居場所だ、と感じながら、その音に耳を傾けた。
シーツを体に纏いながら、窓辺に立った。昨夜の温もりがまだ肌に残っている。
窓の向こうで、エッフェル塔の先から朝日が昇り始めていた。朝露に濡れたパリの屋根が、オレンジ色の光を反射して輝く。この瞬間の空気さえも、記憶に留めておきたかった。
「悠真さん」
ベッドに片肘をついたままの悠真さんが、ゆっくりと顔を上げた。
「ん?」
「悠真さんが教室で話してくれた空の話、覚えてますか?」
「忘れるわけがない」
「私、あの頃ずっと憧れてたんです。いつか、この目で世界の空を見たいって」
悠真さんが静かに微笑んだ。
「で、見えたか?」
「……はい」
「それなら良かった」
でも、思っていたよりも、ずっと――あなたと一緒に見る空は、違って見えたんです。この空の色、想像できなかった……口に出したら、泣いちゃいそうです。そんなことを
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
すると悠真さんがゆっくりと身を起こし、私の横に立った。窓の外、朝霧のヴェールに包まれた空を見つめながら、ぽつりと呟く。
「君がくれた空の色は、忘れられそうにない」
驚いて彼を見上げた。
「それって……」
「空を見れば、どこにいても、君のこと思い出すってこと」
淡々とした口調なのに、その言葉の奥には確かな熱があった。
「……ずるいです」
恥ずかしがっていると、わずかに彼の口角が上がった。
「そうか?」
窓の外の光が少しずつ強くなり、教室から見た飛行機雲みたいに、細く長い線を描いていた。
◇
ソファに並んで座り、ルームサービスの朝食を摂っている時だった。
「フライトまであと何時間?」
「あと八時間」
顔を上げて悠真さんを見つめた。
「でも……私たちの関係って……これからも続きますか?」
言葉を遮るように、強く抱きしめてくれた。持っていたパンを落としそうになりながら。
「もう離さない。君を手放すつもりはない。これからずっと一緒だよ」
「良かった。あっ、もう、パン落ちそうだよ」
彼の力がさらに強くなっていく。
「彼女になってくれる?」
「はい。もちろんです。フフッ、CAになったら、本当に彼女にしてもらえました」
「うん。待ってたから」
笑顔でもう一度キスをしてくれた。はぁ~、可愛がってもらえてる。離れたくないよ……。
「次は、どこで会えますか?」
「どこでもいい、君がいる場所なら。どこでも会いに行くよ。もう、一瞬たりとも君を忘れたくないから」
嬉しくて、そのまま悠真さんにもたれかかった。長い間探していた安らぎを、ようやく見つけた気がした。
「でも、現実のことを考えなければ……私の次の東京行きは……」
スマホを取り出してスケジュールを確認する。
「再来週の木曜日です。羽田着の夜便で……それまで会えないけど、待っててくれますか?」
悠真さんの表情に一瞬の寂しさが浮かんで、でもすぐに優しく微笑んでくれた。
「君の帰りを待つよ。今度は東京の空の下で」
「東京に沢山戻れるように、希望出してみますね」
離れることへの不安より、必ず再会できるという確信が心を満たしていた。
「CAになれて良かった。世界中どこにでも飛べるし、日本以外でも悠真さんに会える機会もあるかもしれないし」
「君の翼を折るつもりはないよ」
真剣な目だった。
「君のキャリアを応援したい。そして、君が飛んでいく先でも、いつか必ず会おう」
窓から差し込む朝日が、二人を包み込んでいく。
再び立ち上がり、窓辺へ向かう。
この、朝焼けに浮かび上がるエッフェル塔のシルエットを、一生忘れることはないだろう。
「俺たちの始まりの場所だね」
後ろからそっと抱きしめられて、幸せを嚙みしめる。誰かが待っててくれるって凄いことだな……。恋人がいるって、こんなふわふわしてるんだ……知らないことだらけだ。
「そろそろ行かないと」
そう言いかけた瞬間、手首を軽く掴まれた。
「まだいいでしょ? 時間、あるよね?」
息を呑んだ。先生だった頃には想像もできない、甘えた声だった。ちょっとかわいい、と思った。
「フフッ、あと、30分なら」
「うん。あと30分だけ一緒にいよう。でも、無理に止めるなんてできないから……。飛び続ければいい。でも、ちゃんと戻って来て」
その言葉は、パリの朝の光よりも優しく心に染み入った。
「空の上から見る景色、いつか共有したい。私の見る世界を、あなたにも見せたいな」
「また俺は、学会で訪れる世界中の都市で、君を待つよ。それと、君のフライトも予約する。君の制服姿もみたいし」
嬉しくて、悠真さんの胸に顔を埋めると、ぎゅっと抱きしめてくれる。
高校の教室で見ていた空より、今この瞬間の空の色が、何倍も鮮やかに見えた。
しばらくそのままでいたら、ふと言いたくなって口が滑った。
「I missed you so much……I couldn’t stop thinking about you……」
悠真さんの目がまん丸になり、驚いた顔で覗き込まれる。
「……英語だと、すごく積極的だよね」
耳まで熱くなった。
「だって……英語なら、恥ずかしくないから」
「まだ言い足りないって顔してるけど?」
少し躊躇してから、小さく囁いた。
「I’m crazy for you……」
悠真さんの動きが止まった。
「……今、なんて?」
「……言っちゃいました」
恥ずかしくて顔を覆った。
「英語だから言えるけど、日本語じゃ絶対言えない!」
少し黙ってから、低い声が返ってきた。
「……危ないこと言うよね。もうお別れの時間なのに……もう離れてあげられなくなりそう……」
「エへへ、ごめんなさい」
さらにぎゅっと強く抱きしめられて、別れの寂しさが増していく。しばらく沈黙が続いてから、悠真さんが口を開いた。
「……俺も同じだよ。この五年間……君にcrazyだった」
鼓動が高まるのが止まらない。こんな日が来るなんて。ずっと想っていてくれたなんて……でも、夢中なのは、私も負けてません。
別れの時間が近づいて、最後のキスをしたとき、手を繋いで言ってくれた。
「これは別れじゃない。新しい始まりだ」
「はい。この朝の光を胸に抱いて……次に会えるまで」
パリの朝の空が、窓いっぱいに広がる中、微笑み合った。
異なる空の下にいる私たちだけれど、同じ星を見上げている。
私が雲の上から見る夕焼けも、悠真さんが研究室の窓から眺める朝焼けも、同じ太陽が照らしている。
離れていても心は一つ、再会の約束が私たちを結びつけている。
教室の窓から見えた青空のように広く、深く。
二人が一緒に見る空の色は、これからもっと鮮やかに輝いていくのだから。
Fin.
【日本語訳】
「I missed you so much……I couldn’t stop thinking about you……」
(訳)(とても会いたかった……ずっと君のことを考えてたよ)
「I’m crazy for you……」
(訳)(君に夢中だよ……)




