第1話 憧れの空
春の陽射しが教室をやわらかく照らしている、ある朝のこと。
私、和泉彩葉は三年C組の窓際の席で、ペールブルーのノートを広げ、英単語を丁寧に書き込んでいた。ペン先を走らせながらも、窓の外が気になってしかたない。飛行機からの一筋の白い雲のラインが空を横切るたびに、視線がそちらへ吸い寄せられて、追いかけることをやめられない。
「イロハ、また朝から勉強? すごいね、私なんて起きるのがやっとだよ。その情熱、分けてほしい」
隣の席で莉緒が眠そうな顔をして呟く。「エへへ」と照れ笑いを浮かべつつノートを見てもらう。
「ねえ、昨日の『世界の空港特集』って番組見た? CAさんたちがめちゃくちゃかっこよかったよね。思わずメモしちゃった!」
このノートには、接客フレーズが英語と日本語でびっしりと連なっている。表紙には『CA合格への道』と、丁寧な文字で書いた。自分でも笑えるくらい真剣に書いたけれど、後悔はない。空を飛んで、世界中の人と出会うこと――客室乗務員という夢は、年月を重ねるたびに、ますます鮮やかになっていく。
はじめて飛行機に乗ったのは、五歳を迎えた頃だった。離陸しても、怖くてシェードをずっと閉めたままにしていた私に、CAさんが優しく微笑みかけてくれた。
「空は怖くないよ。見て、あの雲の海、素敵でしょう?」その声に背中を押されて、両手でゆっくりとシェードを開けた瞬間――世界が変わった。
見たことのない青が、目いっぱいに飛び込んできて、それまで知らなかった何かが、身体の奥で目を覚ましたような気がした。あの安心感と感動は、今も消えることはない。「私もあの人みたいになりたい」という強い気持ちが生まれ、夢への歩みは始まったのだ。
「見たよ! 特にファーストクラスのサービスのところは必見だったね。イロハがCAになるの私も楽しみにしているからね!」
「うん、ありがとう莉緒。今日も頑張るぞ!」
小さく自分に言い聞かせて、ロングヘアの黒髪を後ろにまとめて姿勢を正す。平均身長で平凡な容姿だけど、あのCAさんのような凛とした清楚な印象に少しでも近づけるように。空を見上げる目の奥に、揺るぎない決意を込めた。
そのとき、教室のドアが開いた。
担当科目でもないのに校長が来るなんて――クラスメイトたちも同じことを感じているのか、教室がじわじわとざわめき始める。
「皆さん、お知らせがあります」
眼鏡を直しながら、校長が重々しい声で話し始める。
「佐藤先生が昨日の夕方、交通事故に遭ってしまい、入院することになりました。命に別状はありませんが、しばらくの間休職されることになります」
どよめきが起こる。佐藤先生は担任で英語担当、厳しいけれど生徒思いで、ずっと信頼してきた先生だ。大丈夫だろうか、という心配が脳裏をよぎった。
「そこで急遽、代わりの先生を招聘することになりました。今日から皆さんの担任を務める湊先生です」
校長が手で示した先から、若い男性が入ってくる。
――思わず、息を呑んだ。
整った顔立ちに、背が高くて凛とした姿勢。知的でクールな表情の奥に、何か温かいものが透けて見えるような瞳だ。女子生徒の目が一瞬で釘付けになっていく気配を感じる。
「はじめまして。湊悠真と申します。英語を担当します。佐藤先生が戻られるまで、皆さんと一緒に過ごしたいと思います。英語教育の知識を活かして、頑張りますので、よろしくお願いします」
落ち着いた声のトーン、品のある立ち振る舞い。育ちの良さが、ただそこに立っているだけで伝わってくる。
二十五歳の湊先生は、去年から講師として勤務しながら、正式な教員免許を取得したばかりだそうだ。
真剣な眼差しと柔らかな表情、若いのにどこか頼りがいのある雰囲気があって、思わずじっと観察してしまった。本当に……減点する箇所が見当たらない。
教室の全体を見回しているから、こっち向いてと心の中で祈る。すると、バチっと目が合ってしまう――そして、ふいに口が動く。
「わっ、イケメン……」
声が漏れてしまっていた。隣の蒼がにやにやしながら肘でつついてくる。幼馴染の田中蒼は繊細な感性と鋭い観察眼を持ち、自分がゲイであることを誰にも打ち明けていない。だけど、親友の私だけにはその事実を教えてくれている。
「イロハ、顔赤いぞ? 初めて見る顔だな!」
「うるさいな……」
慌てて手のひらで頬を覆い、小声で返しながらも、どうしても気になってしまい、先生をチラ見してしまう。
「俺もめっちゃタイプだわ~ あの冷静そうで少し緊張している感じ、乱したくなる~」
「何言ってんの」
軽く肩をすくめた、ちょうどその瞬間――湊先生の視線に気づいて、息が止まった。
先生は私たちのやりとりを見て少し眉を上げ、目が合うとかすかに微笑む。
え……今のって、私に?
心臓が跳ねる。蒼と私はよく「付き合ってるんでしょ」と言われることがある。湊先生にも、きっと同じように見られているだろう。誤解を解きたくても、話しかける勇気なんてない――!
◇
放課後に少し自習をして、さあ帰ろうとノートを片付けていると、後ろから静かな足音が近づいてきた。
「和泉さん、CAを目指してるの?」
振り返ると、湊先生が立っている。私が持っていたノートを見ていたらしく、慌てて頷くと、穏やかな笑顔を向けてくれた。
「はい」
「やっぱり、空が好きなの?」
「はい。好きです!」
先生が少し遠い目をした。
「俺も昔、空に近い仕事がしたかったんだ。だから、君の気持ちはよくわかるよ」
「先生も……?」
「うん。でも、縁がなかった」
少し間があった。でも、暗い顔じゃなくて、どこか懐かしそうな表情だった。
「夜の飛行機から見る星座は格別なんだよ。地上より空気が薄いから、星がすごく近くに見える。まるで手が届きそうなくらい」
「わぁ……見てみたいな……」
「だから余計に、応援したくなるよ」
先生がまっすぐ私を見て、言った。
「夢に向かう姿、素敵だよ。努力は必ず実を結ぶから」
単純な励ましの言葉なのに――初めて知る熱で胸が満たされていく。焦がしキャラメルみたいに、とろとろになりそうだ。
窓から差し込む夕日が、二人の間に淡い光の橋を架けているように見えた。
そのとき、背中に嫌な気配を感じる。振り返ると、教室の後ろに麗華さんが立っていた。学年一の美人で帰国子女として有名な人だ。その彼女が私を見て、はっきりと不満げな表情をしている。
……何か、睨まれてる?
先生が「気をつけて帰ってね」と言って去った後、麗華さんがこちらへ歩いてきた。なんかやっぱり怒っているようだ。
「湊先生は、私が絶対に落とすんだから!」
「え……」
声が漏れた。でも麗華さんはもう背中を向けて、去っていった。
今のなんだったんだろ……。




