1-1 ロムダーオ
第一話 秘密の砂浜
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『僕の身長、ダーオと同じになったよ。…ずっと、決めてた。ダーオの身長に追い付いたら想いを伝えようって。…ダーオ、僕…ダーオの事がずっと好きだった…‼︎』
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夕方の海は穏やかだった。
寄せては返す波の色は透き通り、その波紋が水底を揺らめかせる。遠くに目をやると、エメラルドグリーンの大海原の水面に夕陽が橋を伸ばす。
波打ち際に打ち上げられた貝殻の残骸は白い砂浜によく似合う。波に揉まれて、或いは風に吹かれて原形を留めぬ貝殻達は、乳白色の中に淡いピンクやマーブルモカの色彩を湛えていた。
揺らめく波のヴェールがゆらゆらと揺蕩う波打ち際の、貝殻の残骸達がさらさらと波に踊る。
「…おい」
夕陽を眺めて煙草を吸うダーオの背中にふと声が掛けられる。
後ろにはいつもの見知った顔の青年が立っていた。長身で、日に焼けた素肌に筋肉質な体躯。右手の平から前腕内側の肘手前まで、刃物で負った古傷がある。切長の瞳は冷たさを感じさせる印象だが、その奥にある優しさをダーオは既に知っている。
「…おお、ロム。おつかれ。煙草吸う?」
「あぁ、貰う」
ダーオに差し出された煙草の箱を受け取ったロムは、その内の一本を拝借すると口に咥えた。ダーオがライターの火を寄越すので、ロムはダーオの隣に座ってその火に肖る。
「ははっ…今日も相変わらずのオンショアだ」
ダーオが笑いながら言う。
この島の海風は隣島のプーケット同様、岸から海に向かって吹き抜く事が多い。オンショアは向かい風に波が荒れ、サーファーにとっては嬉しくないコンディションだ。まして頭上にパンガー湾が蓋をするこの島の立地は到底サーフィンには向いていない。
遠い目をするダーオの、真っ黒に艶めくウェーブがかった髪の毛がオンショアの風に揺れた。
ロムは煙草を一吸いすると、向こう側が見通せる短い岩トンネルの手前に刺さったサーフボードに目を向けた。
トンネル先には岩場が広がり、引き波でもどれぬ鮮やかな色の魚達が岩礁に閉じ込められていた。まるで天然の水族館だ。
「…内海でオンショアも何も無いだろう。サーフィンをやりたいならせめて本島に行けよ」
内海のこの島では望むべくも無いが、アンダマン海に浮かぶプーケットの左側には遮るものが何もない。
プーケット西海岸はこれからの時期、モンスーン気候による波の高さに世界中から物好きなサーファー達が集まる。
「確かに」と笑いながら適当な返事をしたダーオは、煙草を砂浜に押し付けて消した。
二人が佇むこの整備されていない小さな入り江は、ダーオとロムのプライベートビーチだった。
島民からはヘブン島の愛称で親しまれるこの小さな島には観光客もそう来ない。島を一周するのに車で30分もかからない。よしんば観光客が来たとて、それは島の西南に位置する桟橋から北上した先にある高級リゾートに宿泊する客くらいのものだった。
プーケットやバンコクから島内周遊半日ツアーも組まれているが、これと言って名物の無いヘブン島に敢えて来る客は超暇人か、もしくは何もしない時間を金で買う超金持ち、或いはインスタ映えを狙った物見遊山な若い女子達だ。
余所者がこんなローカルのプライベートビーチを見つける事は難しい。ダーオの家から歩いて程近いその場所は、つまりそう言う理由からロムとダーオだけの秘密の入り江なのだ。
「おい、ダーオ。お前、そろそろ仕事だろ。…行くぞ」
ロムが言う。
ダーオはその場から立ち上がって身体を伸ばすと、首を左右に振って身体を解した。
暮れなずむ夕陽が二人を包んで寂寥感を誘う。マジックアワーの空は徐々に夜の色を滲ませる。夕陽は人間が持つ切ない感情に直接語り掛けてくるからいけない。
「…行っても行かなくても、大して問題無いんだけどね」
ダーオは人懐っこい人たらしの笑顔をロムに向けた。
ふと空に浮かんだ一番星が頭上に煌めいたのをダーオはしばし見つめた後に、渋々職場に行く準備を始める。
二人が佇む砂浜と陸の境界には背の高い椰子の木が並木となって植わっていた。その下では真っ赤なハイビスカスが咲き乱れている。しかしその花々も日没に迫る命の輝きを失おうとしていた。ハイビスカスは一晩でその花を散らしてしまう、儚い花だ。
椰子の並木の脇にある雨水貯水タンクは年季が入っている。ダーオがその中の水を手桶で汲むと、ビーチサンダルを履く足に無造作に水を打つ。
細かい砂が流れ、ダーオの褐色の肌が顕になる。ダーオはそのまま手も濯ぎ、履いていたハーフパンツで水滴を拭くと、椰子の並木のすぐ下に停めてあるロムの錆びた原付バイクを目指して歩いてゆく。
踏み締める砂がキュッキュと小さく鳴った。
ダーオを後ろから追い掛けるロムは原付バイクの鍵を投げ、それをキャッチしたダーオがエンジンを掛ける。
特にヘルメットもせぬまま、二人は当たり前の様に二人乗りをする。
ロムの運転で発進した原付バイクは恨めしそうにエンジン音をならしながら、男子二人を乗せて傾斜の道を登り、すぐ脇に控える道路に出た。
引き締まった体格の二人を運ぶのに、このくたびれたバイクでは少々荷が重い。
ロムの腹部辺りで手を組んだダーオの褐色の肌が、先程拭いきれなかった真水を弾いて艶めいた。
さほど身長差の無い二人が、夜に溺れる夕陽を背に、島唯一の舗装された環状道路を桟橋に向かってひた走る。
「なぁ、ロム!お前、今日も寄ってくだろ?」
ダーオは運転中のロムに話し掛けた。バイクのエンジン音に負けないように声を張り上げる。信号の無い島内はノンストップで目的地まで辿り着ける。警察署は分署があるものの、常駐の警察官はいない。つまり二人のノーヘルを咎める者はこの島にはいない。
「あぁ!」
古い原付バイクのエンジン音がロムの声をかき消す。ロムの声はダーオには届かなかったが、仕草でわかった。
ダーオはにんまりと笑みを浮かべる。
「よし、行こうぜ!島の社交場!」
ダーオは時に自分の職場をそう呼んだ。桟橋周辺に広がる島唯一の繁華街は数える程しか店が無い。その内の一つがダーオの職場「カオムー」だった。
ダーオのご機嫌なテンションに、ロムは鼻で笑いながらも憎からず思う。
「落ちるなよ!」
ロムはそう言うと、自身の腹部で組まれたダーオの両手を軽く叩いた。
夜の帳が降りる頃、島の頭上には数多の星が瞬き、流れ星を見つけることなど造作もなかった。
都会では考えられぬ風景。けれど何も珍しくはない、それがこの島の日常の光景だ。
ダーオは頭上に瞬く星達を眺めながら、幼い頃、悪戯に名前を付けて遊んだ星達が変わらず空に浮かんでいる事に安堵する。
一番星はどれだったろう。数多に煌めく星たちの中には、もうそれを見つけ出すことは困難だ。
ダーオの瞳に宿るのは遠い過去の悲しみの光である。
物語に出て来る「ヘブン島」は作者の作った架空の島です。
一度しかタイに渡った事の無い作者が書いております。