116話
中山。宰相サイコウの屋敷。
参合陂の戦いに敗れ、ボヨウスイが反撃の為に後燕全土から兵をかき集め出征した。サイコウが進言した事とはいえ、周辺諸国に気を配る必要があり長期の戦争は避けねばならなかった。
幸いにして東晋の目は後秦に向いている。後秦は西域を制圧したことで版図が広がっており、荊州や益州を領土とする東晋にとって脅威であった。今は襄陽を巡って小競り合いが続いている。
目下の懸念は南燕である。ボヨウスイの弟トクが太平道に取り込まられ独立した宗教国家である。同じ燕を名乗っているが、交流は無かった。南燕は着々と信者を兵とし訓練しているという。いつ北上してくるか分からない。
「サイコウ様ですな」
「何者か?」
部屋の外から男の声が聞こえてきた。サイコウは不審に思い剣を取る。
「わたしは魏の者です。あなたは命を狙われています」
「なんだと?どういうことだ」
「まもなくランカンが放った刺客が来ます。お父上のいる盛楽へお逃げください」
サイコウは剣を抜く。話が見えなかった。
「ランカンが何故わたしに刺客を向けるのか?それに後燕を捨てよというのか」
部屋の入口に黒装束の男が現れ床に剣を置く。悪意は無いということなのであろう。
サイコウは剣を男に向けたままでいた。
「ボヨウスイは病で長くありません。ランカンは軍を率いて中山を襲います。その前に邪魔者のサイコウ様を殺そうと企んでます」
にわかには信じられなかった。だが、ボヨウスイの体調が優れないことは事実である。ランカンは側でそれを見て見切りをつけ反乱を起こすというのか。
「わたしが逃げると、ボヨウリン様はどうなる?」
「それこそ見捨てなされ。ボヨウリンではランカンに勝てません」
「無礼者め!わたしが逃げたらそれこそランカンに勝つ手立てがないではないか!」
サイコウは男に剣を突きつける。男はじっと見つめてくる。その目に揺らぎはない。
「ご決断を。魏王はサイコウ様の才を非常に高く買っております」
その言葉にサイコウは心は揺れた。父があれほどのめり込む理由を知りたいと思っていた。ボヨウスイは英雄であるが、考えが古い。もし病で倒れたら後燕は長く続かないであろう。
突如、屋敷に火が放たれた。
「お急ぎください。ランカンの刺客が来ております」
「分かった。お主に付いていこう....」
サイコウは盛楽に行くことにした。このままランカンの刺客に打たれるわけにもいかない。
屋敷は囲まれていた。サイコウが出てくるのを今かと待ち構えている。
男は何やら丸い玉を投げる。
煙幕であった。火災も相まって辺りを煙で包み込み視界を遮った。男はサイコウの手を取り駆けた。
男の振った剣が闇を切る。血が舞った。ランカンの刺客たちは混乱しているようであった。何やら叫んでいる。
包囲を難なく抜けた。厩で馬に乗り駆けた。中山の民はサイコウの屋敷の火災に騒然としていた。それを掻き分けるように馬で通る。
中山へ出る。北へ北へ逃れるのであった。
ボヨウスイの軍を魏軍が囲む。ランカンの軍はもう見えなくなっていた。
後燕軍4万弱に対し、魏軍は倍近い数である。ジュンカンの軍も黄河を渡り終え接近してきている。
「ケイ!長年の因縁に終止符を打つ!」
ボヨウスイの声は病とは思えないほど張りがあった。だが、数日前と比べて明らかに痩せていた。
「まだそのような事を言ってるのか!もはや鮮卑族の因縁などと言う時代ではない!」
ケイは剣を抜く。それに応じてボヨウスイも剣を抜いた。
火の虎。
ーーーまだ大技を使う力が残っているのか...
水の壁。
ぶつかり合い、大量の水蒸気が立ち上がる。
ボヨウスイが先頭で突撃してきた。
ケイが再び水の壁を張る。
「ふざけるな!そんなもので止められるか!」
ボヨウスイの剣が炎を纏う。水の壁を切り裂いた。ボヨウスイが魏軍に襲いかかると思われたその時、後燕軍は背後から圧を受けた。
「エイゲツの仇だ!いくぞ!」
ジュンカン軍1万5千が突っ込んでくる。後燕軍の後方が大きく抉られた。
「後はよい!前に出よ!ケイの首だけを狙え!」
ケイを討てば後燕は生き延びることが出来る。ボヨウスイは消えかかる命の全てを燃やす覚悟であった。
ケイは下がらなかった。水流剣を構え馬腹を蹴る。
「モクラン......」
「うおおおおおおおー!」
ボヨウスイの咆哮。炎の剣を振り下ろす。
水流剣が伸びる。
ボヨウスイの首が宙を舞った。ケイは馬を止めゆっくりと目を閉じる。古い時代の英雄の最後。それを全身全霊で受け止めた。
戦場の喧騒が消える。誰もが動きが止まった。
ボヨウスイの首が地面に落ちたとき、割れんばかりの歓声と悲鳴が入り混じり大地を揺らした。
ケイは深く息をついた。ハクエンは穏やかな顔で見ている。サクは泣いていた。
「やったな!ケイ!エイゲツも喜んでるぞ!」
ジュンカンの笑顔を見て、ケイはようやく笑みを浮かべた。あのボヨウスイを討ったのだ。
王から皇帝へ道が開けた瞬間であった。




