スミレ
叔母の家は、和歌山県の海沿いにあった。
嫌々ながらも越して来た私は、「受験勉強に集中したい」とかあからさまな嘘をついて、新しい中学校には一度も行かず、部屋に篭っていた。
十分も歩かないところに白浜のビーチがあるらしいが、そこに行く気さえ起きなかった。
叔母が作る食事は美味しいし、ベッドはふかふかだし、新品の生地のしっかりした洋服だって着させてもらえる。
しかし、それは私が求めていることではなかった。
母と食べたカップラーメンの味が懐かしくなった。
そんな中、母の死後事務をお願いするために叔母が雇っていた東京の司法書士から、私宛に電話があった。
母の遺産についての報告だった。
当然覚悟していたことだが、母には遺産はなかった。
不動産はもちろんなく、預金口座も全て空っぽ同然であった。
その代わり、母の死をきっかけに、私が今まで知らなかった、私名義の通帳が見つかったとのことだった。
電話口の私は耳を疑う。
預金残高は約五百万円もあるらしい。
私が「心当たりがない」と司法書士に告げると、司法書士は、通帳の取引履歴をPDFデータで送ってくれた。
それを見た私は、その預金の意味に気が付き、涙する。
私がジュニアアイドルをやって稼いだお金が、そっくりそのまま通帳に入っていたのである。
母は、私が渡していたお金を費消せずに、私に内緒で、私名義の通帳にこっそり貯金していたのだ。
「やっぱりあの人は何も分かってなかった……」
預金の使い道はすぐに決まった。
その使い道が、母の意思にもかなうだろう、と確信していた。
母が私にジュニアアイドルをやらせていたのは、決してお金だけのためではないのである。
コネクション作りだ。
私は、ジュニアアイドルの仕事を通じて、東京のいくつかの芸能プロダクションと繋がりを持っていた。
そのうちの一番信頼できそうな事務所に電話をし、自分の身上と、現状について全て正直に話した。
「凛奈ちゃんが困ってるんだったら、いくらでも力になるよ」
私の狙いどおり、その芸能プロダクションは、私を所属させ、東京に住居も用意してくれるとのことだった。
社長が、私の過去の仕事ぶりを評価してくれていたのである。
「芸は身を助ける」というのが、母の口癖だった。
それは、売春婦としてしか生きることができなかった母の反省にほかならない。
母は、私に同じ生き方をさせないために、私をジュニアアイドルにさせ、芸能人の端くれにしてくれたのだ。
叔母は、売春婦もジュニアアイドルも、ともに性を売り物にするはしたない行為だと蔑むのだろう。
しかし、少なくとも母にとっては、売春婦とジュニアアイドルとは、天と地ほどの違いがあった。
それは、もしかすると、実際に売春婦をしたことのある者しか分からない違いなのかもしれない。
「ママ、本当にありがとう」
私は、母に心から感謝する。
母が残してくれたお金と、母が授けてくれた芸のおかげで、私は、叔母のいる和歌山から抜け出すことができたのである。
高校は、事務所の社長に勧められるまま、通信制の高校にした。
そして、私は本格的にグラビアアイドルとしての活動を始めた。
とはいっても、駅やコンビニで見かけるような雑誌の表紙を飾れるような者は一握りである。
私の主な活動は、個人撮影会のモデルだった。
同業者に比べれば人気はあった方だと思う。とはいえ、それだけで食べていけるほどではなかった。
平日は、昼間はコンビニ、夜は居酒屋でバイトをしていた。
これでも苦労はしないで済んだ方だろう。
私の周りには、パパ活や水商売で稼いでいる子がたくさんいた。
母親が残してくれた貯金と事務所の庇護がなければ、私も同じことをしていたと思う。
「歌とか踊りには興味ない? 凛奈は器用だからなんでもできると思うよ」
社長に勧められるまま、グラビアと両立する形でライブアイドルとしてデビューしたのは、十八歳の頃だった。
歌って踊ることが自分に向いているかどうかは分からなかった。
ただ、楽しかった。
同じユニットの仲間ができたのもありがたかった。
自覚はなかったが、ファンの扱いは上手い方らしい。
グラビア活動においても、他のタレントよりもNGが少なく、重宝された。
いずれも、辛い思いをしつつも長年芸能活動をしていた成果に違いない。全て母のおかげである。
二十歳になる頃には、私は事務所で一番の売り上げを誇る看板タレントになっていた。
「凛奈、話があるんだ」
突然呼び出された私は、社長から次のステップを提案された。
「このオーディションを受けてみないか?」
社長が紹介してくれたのは、この国に住む者なら誰でも知っている有名アイドルユニット「虹橋cutie fate」の新メンバーオーディションだった。
「凛奈ならいけると思うんだ」
合格する自信はなかった。
しかし、社長の提案を無下にしたことはこれまでない。
それに、そもそも社長に勧められるままにはじめたライブアイドル活動である。コンパスは社長に委ねようと思った。
書類審査を通り、二度の面接審査を通った。
最終審査は、配信アプリを使ったファン投票だった。
これには、現役アイドルの私には一日の長がある。
私のファンが時間とお金を惜しまず使ってくれたおかげで、全候補中、二位の成績を収めることができた。
三位以内の成績の者は、自動的に虹色cutie fateメンバーになれるというルールだった。
ついにメジャーアイドルとしてデビューできる。母の墓前で最高の報告ができる……はずだった。
しかし、最終審査の翌日に、虹色cutie fateの掲示板に投下された一枚の画像が私の運命を変えた。
それは、紛れもなく私自身の写真である。
ただし、何年も前の。
それは、私が十一歳の頃に撮った水着写真だった。
「新メンバーの勅使河原凛奈の児ポル」とのスレッドに、匿名のコメントが続く。
「エロ。犯罪じゃん」
「このご時世に新メンバーが児ポルはヤバいww」
「え、凛奈ちゃん、オーデで応援してたのに、こんな破廉恥なことしてたとか聞いてない」
「変態じゃんww」
「この歳からこんなに股を広げてたら、今日までに経験人数余裕で三桁超えやな」
「この子の親、どういう神経してるんだよ……」
その掲示板には、ジュニアアイドル時代のほかの写真もたくさん貼られ、それぞれに、便所の落書きレベルの低劣な書き込みが付されていた。
そこから、SNS上で、勅使河原凛奈は虹橋cutie fateの新メンバーに相応しくない、という論調が巻き起こった。
「虹橋cutie fateって清純派ユニットだよね? ヤバない?」
「虹橋cutie fateの看板を穢さないで欲しい」
「勅使河原新メンになったら、児ポル推奨することにならん?」
「コンプライアンス上の問題」
「虹橋に露出狂は求めてない」
「今まで真面目に生きてきた他のメンバーが可哀想」
この人たちは一体、私の人生の何を知っているのだろうか?
私は、決して、好き好んで幼い頃から水着の仕事をしていたわけではない。
あんな仕事、誰が好き好んでやるものか。
笑顔を振り撒きながら恥辱を晒すことを望んでやる子どもなんて、どこにもいない。
そういうことをしなくても生きていける人生を選べたのだとすれば、私だってそっちを選んでいた。
しかし、そんな選択肢は、そんなゆとりは、私の人生にはなかったのである。
その中で私は、辛いことにも耐えながら、私なりにできることを精一杯生きてきたのだ。
SNS上で私の過去を批判する者の中には、テレビでコメンテーターをしているような知識人も多くいた。
「アイドルはイメージ商売ですから、過去も含めて精査されるのはやむを得ないでしょう。幼い子を性的な道具として扱うのは日本の悪しき文化であり、国際的な観点から見えても時代遅れだといえます」
元知事を務めた男性タレントのツイート。
女性を消費する側が一体何を偉そうに語っているのか。
「ロリコンは性的倒錯者であり、論外です。成熟した女性にモテないから、幼い女の子の未熟さに付け込んでいるのです。虹橋cutie fateには断固とした態度を示し、ロリコンとそれを相手とした性産業にNGを突きつけるべき」
フェミニストを自称する女性弁護士。
あなたの人生はきっと恵まれていたのだろう。身体を売らずとも食べていけて、大学にも進学できるような恵まれた人生だった。
あなたたちの人生を否定する気はないけれども、あなたたちとは全く違う生き方を否定しないで欲しい。
お願いしたいのは、ただ一つだけ。
お願いだから、黙っていて欲しい。
私がジュニアアイドルとして活動することで、私は誰かに迷惑を掛けたのだろうか。
私や、私の母のような生き方だと、どんなに頑張っても報われない。
いや、報われてはいけない、というのがこの社会の態度なのか。
虹橋cutie fateの運営から、「申し訳ないけども、新メンバーを辞退して欲しい」との連絡が来た。
反論する気も、そもそも、理由を訊く気すらも起きなかった。
私は「分かりました」と短く返事をする。
虹橋cutie fateのオーディションを通じ、この世には分かり合えない人がたくさんいるということが、私にはよく分かった。
社長の期待を裏切ってしまった戒めとして、事務所を辞めた。
とはいえ、私には、芸能しか芸がない。
そんな時に知ったのが、VRアイドルであるアイラッシュのオーディションだった。




