神社の狛犬
田圃の稲も刈り取りが始まり、季節は夏から秋になろうとしていました。
播州屋の商いも繁盛といかないまでも、よく来てくださるお客さんもつきはじめまして、やってこれております。
「弥七。そろそろ閉めようかね」
算盤を弾く手を止め、帳場の小上がりに腰掛けて足をブラブラさせていた小僧の弥七に声をかけると、弥七は返事をして土間に飛び降りた。
入り口まで行ったところで、こちらを振り返る。
「旦那さん。お客さんだよ」
暮れの六つ。
誰かと約束があっただろうかと考えるてみるが、思い浮かぶ顔はありませんでした。
「閉めるところ、済まないな」
そう断って店に入ってくる二人。
一人は髷を結い月代も剃り上げて、袴を着けてはいるが刀は腰に差してはいない。
もう一人は女人で、長い黒髪を後ろで束ねるだけの頭をして、こちらも袴を着けていた。
「へぇ、どちら様でしょう」
顔に見覚えはない。
なぜかと言えば、二人ともに見目麗しいという言葉がピタリとハマる、切れ長の目元は涼やかで、鼻筋は通り、唇は厚すぎず薄すぎずと、通りを歩けば多くが振り返ることでしょう。
生憎とそのような知り合いは、尼寺の住職くらいなものだ。
「……。」
押し黙る。
何か周りに聞かれると、上手くないことなのでしょうか?
「弥七。鎧戸を閉めてしまいなさい。お二方、店先では何ですから、奥へどうぞ」
二人を奥の間に通すのだが、途中でお初とすれ違う。
「あれ?そこの神社の狛犬じゃないかい」
二人はギョッとしてお初に振り返る。
「奥の間にお茶をお持ちしますね」
驚きで固まっている私たちをよそに、お初は炊事場へと消えていった。
◆
あの後、気を取り直して奥の間へ二人をお連れした。
「それで、手前に何か相談事でしょうか?」
「最近、我らが守る神域に、不浄のものが持ち込まれており、困っている。」
狛犬は神社の神域に入り込もうとする、不浄なる者を止めることはできるものの、人の手で持ち込まれる不浄の物を止める術はないのだそうだ。
それが、活発にならぬようにと、抑え込むことが精一杯になってしまっており、外への目が疎かになりつつある。
なので、不浄の物を始末して欲しいとのことでした。
しかし、なぜ私だったのでしょう?
「使いに寄越している小僧は、化け猫であろう?」
そう言えば、神社近くに住む、猟師の家への使いを頼んだことがありました。
その時に、神社に寄り道でもしたのでしょう。
「分かりました。任されましょう……しかし、持ち込む者を調べなくてよいのですかい?」
持ち込まれたモノを処分したとしても、持ち込む者を何とかしなければ、再び、同じようなことになるのではと思いました。
「同心でもないのであろう?商人にそこまで頼むわけには、な」
本心では、そこまでしてもらいたいのだが、商人の私には荷が勝ちすぎるとお思いのようだ。
「安心するとよいぞ。私も手を貸すのでな」
障子を開け放ち、茶の乗った盆を持つお初が、仁王にも見紛わんとする立ち姿て、立っておりました。
「御内儀様?!」
これにはお二人の客人だけではなく、私も腰を抜かしそうになりまして、動じていないのは、いつの間にやら膝の上に乗っていた弥七だけ。
「大船に乗ったつもりで、任せておきな」
変化が解けて、鬼の姿を見せるお初は、自信に満ちた笑顔で自身の胸をドンと叩いてみせました。
◆
二人が帰った後の夕餉の席で、お初に聞いてみた。
あれだけ自信に満ちていたのだから、何かしらの考えどころか、解決の糸口を握っているのではないかと思ったからでございます。
「いやですよ旦那さん。中にあるものの場所を探すのと、その始末は今夜にでもできてしまいます」
瞬くくらいの間でございましたが、お初は目を虚空に泳がせます。
「持ち込む者までは……でも、物を持っていれば、私も弥七もわかると思います」
突然に名前を出されて、目をパチクリとさせる弥七。
「おいらが分かるのかい?姐さん」
お初は自身の指先を弥七の鼻先に近付けていくと、弥七の方は指が随分と遠くにあるにも関わらず、何とも言えない苦い顔になりました。
「これがそいつの匂いさ。覚えたかい?」
お初は私に向き直ると、これからの説明を始めた。
探し人の方は地道にやるしかないようですが、それでも商いをしながら無理のないよう考えられており、舌を巻く思いでございます。
世が世ならとは申しますが、大変な才覚を持ったモノを嫁にしたものだと、それに見合うモノにならなければと背筋が伸びました。
「始末の方は、さっそくやってしまおう」
大変なことを受けてしまったと思う気持ちと、現し世の理とは違うモノたちとの縁に昂る気持ちもありました。
なんともおかしな毎日になりそうだ。
「古馴染みにも伝えておきますね」
お初が虚空を右手で揉むような仕草をすると、白くて薄ぼんやりと光るものが、その指先から飛んでいきました。
その光景を見て、いよいよ。現し世とは違うところに、足を踏み入れてしまったのだと、強く感じた次第です。
◆
暮れの五つともなりましたら、宿場の方はどうか知りませんが、播州屋の周りとなりますと、人気はなくなってしまいます。
件の神社へ続く階段を、鋤を片手に登って行けば、鳥居の先に狛犬が見えてきました。
私たちの姿が見えたのか、二匹の狛犬は店で出会った姿に化けて、石の台座から降りますと、私たちの方へと近寄ってきます。
「真にかたじけない」
男の姿の阿行と名乗った青年が頭を下げます。
しかし、鬼のお初は不浄のモノとは違うのですかね。
人の世では、忌み嫌われるものとして伝えられていて、そう思っている人の方が多いはずです。
後で聞いてみますかね。
「弥七。分かるかい」
私の懐に収まっていた猫の弥七が、お初の声で飛び出すと、鼻をひくひくとさせて、何かしらの匂いを探していた。
「この猫で大丈夫なのかい?」
女の姿をした吽行が、弥七の姿に不安を口にした。
「狛犬のあんたたちの方が、鼻は利くだろうさ。でもね、猫だって負けてないんだ。それに、匂いも覚えさせたから大丈夫!」
お初は狛犬を前にすると、少し、いえ、どちらかといえば不遜な自信家のようになりますね。
妖の世界にも、何かあるのでしょう。
「姐さん。こっちから匂う」
お初に向けてそう言った弥七。
言ったが早いか、身軽な身体を跳ねさせて、匂いのもとへと駆けていきます。
「追うよ」
お初も狛犬たちも駆け出しますが、やはり人とは違う者たちてすから、私が追いつけるわけもなく、息せき切ってたどり着く頃には、一通りの見聞が終わったところでした。
弥七が待っていたのは、神社の裏手にあった杉の木の根元で、杉の幹には、なんとも不格好な紙垂が巻かれており、何らかの儀式めいたことをしたあとが見られたのです。
「できたら、こいつも持っていってくれたら、助かったんですがね」
先にいた阿行に鋤を差し出す。
「いやはや……面目ない」
阿行がそれを受け取って、明らかに一度掘られて埋め戻された跡に杉を差し込んだ。
思った通り、力なくともスッと鋤の先が土に入っていく。
「人がいたんだね。忘れてたわ」
阿行のやることを見守りながら、私がいたことを思い出してくれた吽行。
駆け出す前ですと、なおよかったのですがね。
しかし、この二人。
丁寧な阿行に尊大な吽行。
その対比も面白いですね。
阿行が地面を掘り進めますと、何の力も持たない私でも、分かってしまうような、異様で気味の悪い空気が広がっていきます。
「旦那さんっ!私の後に」
お初が私の前に立ちますと、不思議なことに嫌な空気を感じなくなり、代わりにお初の良い匂いを感じるようになりました。
「吽行。こいつで、包んでしまうんだよ」
ちょっと尊大な娘の吽行へ、風呂敷のような布を手渡す。
「なんでアタシが?」
「だったら代わるかい?」
お初に言われた吽行は、ブツブツと不平を言いながらも、掘り出した幾つかのモノを風呂敷で包んだ。
するとお初が大きく一つ息を吐き、張り詰めていた空気とともにお初の表情も緩んでいく。
「結局、何だったんだい?」
お初の背で見えなかった私が、問いかけると、皆、一様に苦い顔になる。
弥七は毛が逆立ち、怒を露わにしていた。
風呂敷包みの大きさと形から、小さなもののようです。
「あまり面白くはないね」
吽行から包みを受け取ったお初の目に、悲しみの色が浮かんで見える。
「深くは聞かないけど、弔ってやるんだろ?」
お初から返事はなかったが、頷いているのは分かった。
「狛犬のお二方も、しばらくは大丈夫なのかい?」
阿行から鋤を受け取りながら、聞いてみます。
「不浄の気配はなくなりましたので、元のように戻れます」
入り込む方を防ぐお役目のことだろう。
しかし、私たちの方は、持ち込む者の探索が待っているのだ。
どのようなものであっても、どんな仕打ちからやったのであっても、キチンと償ってもらいませんとね。
◆
お初の後に続いて行きますと、播州屋を贔屓にしてくだすっている尼寺に入っていきました。
本来、昼間しか入ってはいけないことになってはおりますが、今夜だけは目をつぶっていただきましょう。
なんと言っても、私も弥七も男なものですからね。
お初は迷いなく、離れの方に向かう。
玄関で誰何することなく、庭の方へ抜れば、開けたままの縁側に、茶を飲んでいる尼僧の姿があった。
「来たね」
湯呑みを置いて、やってきた私たちを見ると、柔和に見える糸のように細く開いた目が、カッと見開かれ、視線も鋭くなりました。
「住職。夜分に失礼しております」
住職の鋭くなった視線に、肝が縮みあがってしまい、私はとっさに頭を下げ、非礼を詫びた。
「なに、先触れは受けておる。こちらでゆるりとされよ」
そう言われた住職の目には、普段の柔らかさが戻っています。
縁側に置かれた円座に腰掛け一息。
縁側から庭に降りて、お初から包みを受け取ると、また苦い顔になる。
「こりゃ、犬神の真似事かい……ヒドイことをする」
呪いの類のことでしょう。
「弔ってくれるかい?」
お初が住職に聞く。
「呪いの贄だからね。どうなるか分からんが、キレイにはしてあげようじゃないか」
そう言うと、住職は何やら呟くように、聞き慣れない言葉を発し、包みを地面に置いた。
すると包みがひとりでに解け、中身が露わになる。
ゴロリと転がりそうな小さな犬の頭が、数匹分。
住職の言葉が終わると、転がった頭から色が抜け、真っ白となり、砂が風にさらわれていくかのように、サラサラと崩れていきました。
清めの呪いのようなものだったのでしょうかね。
悪しき空気も和らいで、いつも通りの夜風が通り抜けていきました。
「これで大丈夫だろ。せっかくだ、一服してきなさいな。狐共、お茶の用意しな」
ばんぱんと住職が手を叩くと、どこから現れたのか、ほんのりと明かりを放つキツネたちが、お茶に茶菓子にと舞うように準備をしていきます。
「たまげ疲れたって顔してるね」
住職が私の顔をそっと撫でると、鬼の形相とはよく言ったもので、お初が住職の肩を掴んでおりました。
「ちょっと……本気じゃないからね!からかってみたく…痛いっ!」
余程の力で掴まれたのでしょう。
なんと言っても、お初は鬼ですからね。
お初と住職のそのやりとりで、どこかいらだちを隠せていなかった弥七も緩んでいく気配を感じられ、私の懐から縁側へと飛び降りていきました。
住職の言葉に甘え、縁側の円座に再び腰を下ろし、出された湯呑みに口をつける。
「まったく、加減てもんを覚えとくれよ」
掴まれていた肩をなでながら、縁側に座った住職。
「どうだい。人心地ついたろう」
一口、茶を飲み込んで、ふぅっと大きく息を吐いた私に、住職はそう尋ねられました。
住職から向けられる柔らかな笑みに、胸の内をふわっと触られたようなむず痒さを感じた。
「こういう、アンタたちの理から外れたことを経験して、それが当たり前になっちまうと、アンタ自身もそれから外れちまうのさ」
だから、こういうことを経験した後は、人としての根っこの方にあることをやるのが良いと言っていた。
食べる。
寝る。
抱く。
「そうやって、現し世に生きている実感を取り戻すのよ」
◆
神社の方には、あれから不浄が持ち込まれてはいないそうなのだが、人探しの方は一向に進まない。
お初は独りでも探し歩けるが、私は力がなく、弥七は猫の姿でしか、今は匂いを追えないこともあり、二人で行動することになりました。
「今日は、どちらの方を?」
小上がりで帳面をつけていたお初が、私と弥七に向けて訪ねてきました。
「弥七?」
小僧の習いで、屋号を覚えるのもその一つ。
「えっと……越後屋さん!」
旅籠が集まる保土ヶ谷町の越後屋さんへ小物を届け、その後は、そのまま川向うの町屋を歩き、匂いを見つけようという狙いがあります。
「そう。お気をつけて」
そう言って私と弥七に手を振ると、帳面に目を戻し、算盤を弾き始めた。
探し始めて十日。
私だけではなく、妖のお初と弥七にも疲れが見てとれる。
弥七などは、人目も気にせず欠伸をしたり、目をこすったりと、昼日中でも眠そうであった。
どうにか早く片付けて、思い切り寝かしてやりたいものですし、私も寝たい。
越後屋さんで頼まれものを渡した後で、予定の通り、川向うの長屋の集まる通りを歩きます。
竿に盥を下げて、魚を売り歩くものや、豆富売り。
それに、子供を相手に豆菓子を売り歩くものと、集まる子供たちや見守る女衆。
小さいながらも賑わい、活気が溢れています。
「旦那!」
弥七の鋭い声にハッとなり、考えていたことを途切れさせました。
弥七を見ますと、目が鋭く光り、一人の男を目で追っているようで、どうやら、あの匂いを見つけたようでした。
匂いの元は通りの反対側を歩く、こざっぱりとした男のようだ。
想像していた姿は、髪は結われずザンバラ髪を伸ばし放題に伸ばし、丈も短くあちこち擦り切れた単衣を身につける小汚いモノでした。
しかし、今、後をつけている男は、それとは違うどこかの奉公人かと思われるくらいにの身なりをしている。
いずこかで見たような気がしますが、どこの店だったかが思い出せませんね。
「旦那。あっちに入ってくよ」
長屋が途切れて細い路地が現れ、男はそこへと入っていく背中が見えるのだが、どうしたものかと思案に入ろうとしたところで弥七が猫に戻る。
「旦那。おいらが追ってみるから、誰か呼んできてよ」
身軽な猫だけに、するすると屋根に登ると、男の後をつけていった。
私もこうしてはいられません。
長屋町を駆け抜けて、商家のある帷子川の方へと向かう。
目指すはお初。
◆
「お初っ!」
播州屋に飛び込み、お初の名を呼んだ。
「旦那さん?どうしたね」
越後屋さんから先にあった男の話しを、お初にかいつまんで話すと、弥七と別れた場所に向けて駆け出して行った。
それを追っていこうとしたいところだったが、店を開けるわけにもいかず、店の入り口でタタラを踏むことになる。
「播州屋さん。どうしたね?」
助けに船とはこのことで、焦る私の前に、だいぶ前に後にしたはずの越後屋の主人が立っておりました。
「お初さんも駆けていったし、何かあったのかい?」
越後屋さんに説明している暇はありません。
「越後屋さん!説明は後で必ずしますんで、今は店を頼みます」
困惑顔の越後屋さんを後にして、私もお初の後を追いかけました。
◆
弥七と別れた辻まで来ると、当の弥七がちょこんと座って待っていた。
私を認めると、ついてこいと言わんばかりに、前を駆けていきます。
本音を言いますと、一息つきたいのですが、そうも言ってもいられない。
長屋の路地をしばらく駆けると、蹴破ったのであろう戸の残骸が転がる、一つの部屋へと弥七が入っていきました。
私も残骸に足を取られぬよう気をつけながら、部屋への土間に入りましたが、戸の残骸がその時の苛烈さを物語っているようです。
息を整え部屋の中をみますと、両の手を握りしめ、肩を怒らせ佇んでいるお初と、その足元に泡を吹い倒れており、気をやってしまっている男がおりました。
「お初」
私も構わす上がり込み、握りしめた拳の一つを両の手で包み込む。
怒に震えるその拳は、何を思い、何に向けられているのであろう。
夫婦になったとはいえ、知らないことの方が多いことを実感し、今、かける言葉が見つからない自分に、無力感が津波のように押し寄せてくるのです。
しかし、私まで項垂れていてはことが進みません。
倒れている男の部屋を見れば、衣服を入れておく行李に万年床。それに、枕元に置かれた本が目に入りました。
お初の手を離し、本を手に取ります。
それをパラパラとめくって、流し読んでみましたが、内容はなんとも胡散臭い、呪いの手引きが書かれていた。
「こんなものに頼るなんて」
この男に、そこまでさせたいきさつは、なんだったのだろう。
しゃがみこみ男の頬を叩いてみる。
少し呻いたかと思うと、ゆっくりと目が開かれていくのだが、お初の顔を確かめると、ヒッとしゃくりあげ、再びに気をやってしまいそうになった。
慌てて、頬を叩いてこちらに戻す。
「お前さんには聞きたいことがあるんですよ」
にっこりと笑いかけると、再び男がしゃくりあげる。
何とも気の弱い男ですね。
◆
我が家までの帰り道。
「お初は胸はすいたのかい?」
男に報いを受けさせてから、どこが悲しいのかずっと俯いているお初。
何か近づけば、跳ね除けられてしまいそうな、そんな雰囲気まで感じてしまう。
そっとしておくのは帰ってからでもよかろう?
何も答えないお初。
その右手を握り、そのまま歩く。
何も言うまい。
播州屋の入り口を入ると、小上がりでキセルをふかしている越後屋さんがおりました。
私たちを目に留めると、何かを察したように立ち上がると、私に近寄り肩をポンポンと叩いて、何も言わずに出ていってくれた。
「弥七。入り口の鎧戸だけ、お願いしていいかね」
懐で猫となっていた弥七。
そこから飛び出すと人の姿になり、入り口を鎧戸で閉めるよう動いていた。
お初とは、手をつないだまま。
そのままで小上がりへ登り、囲炉裏の間まで連れ、座らせる。
表情は変わらず、厳しいものであった。
その心の内までは分からない。
「私は…あぁいうのが許せないんだ」
重い口を開いた。
やはり、贄や人身御供といったものが関わる呪いに、並々ならぬ憤りがあるのだろう。
「私も鬼になる前にね。邑の人柱にされたのさ」
鬼になる前?
元からの鬼ではなかったのですね。
「贄を出そうが、結局、神様は受け取りに来なくて、邑ごと流されちまったのさ」
言葉を挟むのは無粋でしょう。
寂しそうに笑うお初。
「だからさ。何かを犠牲にして、自分が得するようなことがね」
握ったままの手に、空いていた手も重ねる。
「なら、自分が犠牲になっていいなんて、考えないでくださいよ。お初にいなくなられたら、私ゃ……」
そこまで言って、手を離してお初の肩を抱く。
何故か私の方が泣きじゃくってしまい、お初を困らせることになりました。
◆
尼僧の住む離れの縁側で、住職と並んで茶をもらう。
使いのついでにお世話になった住職にも、ことの顛末を話しにきたのだ。
結局、あの男は役人に渡しても何の罪にも問えないこともあり、かねてよりの手はず通り、尼寺の住職から分けてもらった妖の薬を使い、しばらくの間の記憶を奪い、元の長屋の部屋に転がしておいた。
「しかし、なんとも情けない話しだったね」
ことのいきさつをせつめいすると、そう言って気の抜けたような、呆れたような顔になりました。
「女に袖にされた腹いせって……私にはわかりませんね」
それで、女にどうなって欲しかったのだろうか?
当の女の方を探してみれば、ピンピンとしており茶屋の仕事もテキパキとこなしておりました。
そんなことを思い出して、手土産に買ってきた饅頭を頬張り、茶で流す。
「あたしにだって分からないよ」
尼僧も同じ見解のようだ。
「怖い怖いと、恐れられてるあたしたち妖だけどさ」
両手で持った湯呑みを、膝の上に下ろして目もそれをみているようで見ていない。
どこか遠い目をしている。
「ほんとに怖いのはさ、人も妖も、胸に抱える闇なんだろうね」
住職の言葉が重く、胸の内に沈んでいった。




