ズルい男
ヘレナはキョロキョロと辺りを見渡し、ホッと息を吐く。
(良かった……今日こそバレずに済みそうだわ)
玄関の扉に手を掛け、ヘレナはふふ、と笑う。
今日のヘレナは、普段着ているドレスとは少し趣の異なったワンピースを身に纏い、髪は邪魔にならないよう、高く一つに束ねてある。この格好ならば街に出ても浮くことは無い。立派な町娘の装いだった。
(これでわたしもまた少し……お嬢様から抜け出せるかしら)
そんなことを考えながら意気揚々と扉を開いたその瞬間、ヘレナは思わず言葉を失った。
「お待ちしておりました、お嬢様」
目の前に、普段よりもラフなシャツとズボンに身を包んだレイが居る。彼は満面の笑みを浮かべ、馬の手綱を握っていた。
「――――――レイ、あなた一体いつからそこに居たの?」
「街に出掛けるのでしょう? 私もお供いたします」
レイは質問を質問で返し、そっとヘレナの手を握る。ヘレナは思わず赤面し、ほんのりと唇を尖らせた。
「~~~~レイが付いてこなくても大丈夫よ。だって、すぐそこの教会に行くだけだもの。子どもじゃあるまいし、一人で平気なのに」
「ダメです。お嬢様をお一人にするわけにはいきません」
眉をキリっと吊り上げ、レイはそう口にする。ヘレナは眉間に皺を寄せつつ、小さく首を横に振った。
「レイも知ってるでしょう? わたしは結界を張ることが出来るし、怪我をしても自分で治せるもの。護衛が無くても大丈夫よ。
それに、わたしの外出に一々付き合わせていたら、レイの大切な時間を奪っちゃうじゃない?
ただでさえ家のことは全部レイに任せっぱなしで心苦しいし、わたしが居ない間にそっちを片付けてもらった方が嬉しいなぁって……」
そう言ってヘレナは、真剣な表情でレイを見上げる。昨夜からずっと温めておいた、レイの説得方法だ。
初めて街に出掛けて以降、二人はもう何日間も似たようなやり取りを繰り返しているが、ヘレナはレイに一度も勝てたことがない。いつも何だかんだと言いくるめられ、結局は一緒に街へ出掛ける羽目に陥っているのだ。
「――――怪我をなさらないよう心配しているのは確かですが、お嬢様の力を侮っているわけではございません。寧ろ尊敬し、頼もしく思っております。
それに、家のこと、時間については、ご心配には及びません。お嬢様とのお出掛けは極短時間ですし、全て、私が好きでやっていることです」
「うぅ……」
ヘレナが時間をかけて組み立てた言い分を、レイはものの一瞬で崩していく。口では勝てない――――そう分かっていたからこそ、ヘレナはレイに見つからずに、屋敷を抜け出そうと思っていた。結果、彼の方が一枚も二枚も上手だったわけだけれども。
「でっ……でも…………」
「――――――何より私は、お嬢様と片時も離れたくないのです」
そう言ってヘレナをふわりと抱き上げながら、レイは微笑みを浮かべる。その瞬間、ヘレナの心臓が恐ろしい程に早鐘を打った。
(そっ……そんな顔をするなんて、反則だわ!)
レイの瞳は穏やかに細められ、唇は優しく弧を描いている。まるで幼子や仔猫を見るかのような慈愛に満ちた表情に、ヘレナの胸が騒めいた。
(変なの……今に始まったことじゃないのに)
出会った頃から、レイはヘレナのことを大切にしてくれた。彼の特別であることは当たり前だった。
ヘレナが雇用主の娘――――彼にとってのお嬢様だったから。
けれど今、レイを縛るものは何もない。彼は未だに『お嬢様』と呼ぶけれど、ヘレナにはもう、レイにそう呼ばれる資格は無い。
(本当なら、優しくされる理由も、特別扱いされる理由も、もう存在しない筈なのに――――)
そうと分かっているからこそ、ヘレナは酷く動揺してしまうのだ。
「――――お嬢様は私と出掛けるのが嫌なのですか?」
レイはそう言ってヘレナのことを見上げる。ヘレナの方が高い位置にいるせいか、ひどく不安気な表情に見えた。ヘレナの胸がドキドキと鳴り響く。
「……そうやって感情論で攻めてくるのはズルいと思うの」
答えながらヘレナはそっと俯いた。
『嫌か?』と尋ねられて、ヘレナが嫌と言える筈がない。レイと一緒に居るのは楽しいし心地良い。促されるままに、ついつい甘えたくなってしまう。
「そうですね……お嬢様のおっしゃる通り、私はとてもズルい男です」
そう言ってレイはヘレナの手を優しく握ると、悪戯っぽく目を細めた。ヘレナは唇を引き結びつつ、プイと顔を背ける。クスリと笑うレイの声を相図に、ヘレナを乗せた馬がゆっくりと街に向けて歩き始めた。