少し考えたら分かる筈なのに
(どうしよう……どうしよう、どうしよう)
レイに手を引かれつつ、ヘレナは半ばパニックに陥っていた。彼の足は、教会とは別の方角へ向かっている。どこへ向かっているのかは分からないが、ヘレナは黙ってレイの後に付いて行くことしかできない。
(あんなこと、言うつもりじゃなかったのに)
考えながら、胸がバクバクと鳴り響く。
レイはヘレナのものじゃない――――今までずっと、自分にそう言い聞かせてきた。どんなに特別扱いされても、思い上がってはいけない。独り占めしたいだなんて思って良い筈がない。
けれど、レイに甘やかされる度、大切にされていると実感する度に、それらの想いは沸々と浮かび上がってくる。『望んでも良い』のだと勘違いしたくなる。ストラスベストに追放されて以降、その傾向が極端に強くなったため、ヘレナは必死に自分を律してきたのだ。
(カルロス様のおっしゃる通り、やっぱりわたしは聖女なんかじゃ無かったんだわ)
涙をポロポロ流しつつ、ヘレナはぐっと下を向く。こんな利己的な想いを抱く人間が、聖女である筈がない。そう思うと、情けなくて堪らなかった。
「どうして泣いていらっしゃるんですか?」
歩みを止めないまま、レイが尋ねる。心臓を直接撫でられたかのように、ヘレナの胸が騒めく。
「わたしが……どうしようもない人間だから」
やっとの思いでそう口にし、ヘレナは眉間に皺を寄せる。
「ごめんね、レイ。折角良い縁談が舞い込むかもしれなかったのに」
言いながら、喉のあたりが焼けるように痛んだ。レイは目を丸くして、その場にゆっくりと立ち止まる。躊躇いつつ、ヘレナはそっとレイのことを見上げた。
「わたしがあんなこと言ったら、レイはああ答えるしかないもの。少し考えたら分かる話なのに……本当にごめんなさい。もしもレイの結婚が遠のいちゃったら、わたしのせいね」
言葉とは裏腹に、何処かホッとした気持ちの自分がいることにヘレナは気がつく。
どんなに否定してみたところで、ヘレナはレイが結婚することが嫌だった。自分とは別に、特別な人ができることが嫌だった。そのことを改めて思い知る。
(もしもわたしが、国を追われていなかったら――――侯爵家の娘のままだったら――――――)
もっと素直に『側に居て欲しい』とレイに伝えられただろうか。主従関係という二人を繋ぐ糸が存在していたのだから、今よりずっと簡単なように思える。
けれど、もしもヘレナが国を追われていなかったら、レイと共に生きることは出来なかっただろう。ヘレナは聖女であり、王太子カルロスの婚約者だった。侍女と違って、執事のレイを城に連れていくことは難しい。
「…………そうですね」
レイが一言、そう口にする。途端にヘレナの胸がズキンと痛んだ。
「本当にごめんなさ――――」
「少し考えたら、あれが紛れもない私の本心だと分かる筈なのに」
そう言ってレイは、ヘレナのことを抱き寄せた。
「ヘレナ様……」
熱っぽく名前を呼ばれた上、ギュッと強く抱き締められて、ヘレナは目を丸くする。全身が熱を帯び、ドクンドクンと大きく脈打つ。喉に何かがせり上がって、息すらまともにできない。
「レイ?」
尋ねつつ、ヘレナには、レイがまるで知らない男の人のように思えた。
彼がいつも付けているコロンの香りが、レイ自身の香りと溶け合って、全くの別物に感じる。スラリとした細腕は、とても逞しく力強い。広く厚い胸板から、ヘレナに負けず劣らず速い鼓動の音が聞こえてくる。
(こんなレイ、わたしは知らない)
どれもこれも、こんな風に近づかなければ知らなかったことだ。戸惑いつつ、ヘレナはゴクリと唾を呑む。レイはヘレナの肩口に顔を埋め、熱い吐息を吐き出した。
「ヘレナ様は、私が他の女性と結婚しても良いのですか?」
レイの問い掛けにヘレナの心臓がドクン、ドクンと鳴り響く。
(言えないわ)
言えばレイに、自分がどれだけ自分勝手な人間か知られてしまう。ヘレナは彼に幻滅されたくは無い。この質問に答えるわけにはいかなかった。
「――――――質問を変えます。ヘレナ様はカルロス殿下から婚約を破棄された時、どう思いましたか? ご自分の代わりにキャロライン様と結婚すると言われて、悲しいと思いましたか?」
レイはヘレナを真っ直ぐに見つめ、そう尋ねる。ほんの少しだけ考えた後、ヘレナは首を横に振った。
「いいえ。正直、婚約破棄については何とも思わなかったわ」
口にしながら、ヘレナは小さく息を吐く。
カルロスとの婚約は、ヘレナがまだレイと出会う前――――十年以上前に結ばれた。生まれながらの聖女だった上、侯爵令嬢であったヘレナは、妃に最適だった。互いの気持ちが伴わない政略結婚。おまけに、短気で冷たいカルロスとのんびり屋のヘレナの相性は、お世辞にも良いとは言えなかったからだ。
「では、私が他の女性と一緒に居るのを見るのは? 結婚するのを想像したら、どう思いますか?」
「そ……れは………………」
その質問の答えを、ヘレナは既に持っている。つい先程、経験したばかりだからだ。けれど、口にするのはどうにも憚られる。レイは小さく息を吐き、ヘレナの瞳を覗き込んだ。
「私は――――あなたと殿下が婚約していることを思うと、いつだって胸が張り裂けそうな心地がしました」
そう言ってレイは、ヘレナの頬を手のひらで包み込む。切なげに歪められた眉根に、熱い眼差し。見ているだけでこちらが火傷を負ってしまいそうな表情に、ヘレナはそっと目を逸らす。
「ヘレナ様」
レイは再び、ヘレナの名前を呼んだ。さっきから彼は、ヘレナのことを一度も『お嬢様』と呼んでいない。
(レイの本心――――)
ヘレナはゆっくりと、これまでのやり取りを反芻する。やがて躊躇いながら、口を開いた。
「レイは本当に『自分はわたしのもの』だって思っているの? ……それで本当に良いの?」
「もちろん。あなたに出会ったあの日から、私の心も身体も全て、ヘレナ様だけのものです」
レイの唇がヘレナの額に優しく触れる。ヘレナの心に灯った炎が、チリチリと胸を焦がした。
「先程、ヘレナ様に『レイはわたしのもの』と言っていただけて、私は嬉しかった。あなたに私を想う気持ちが――――独り占めしたいという想いがあると知ったからです。それは否定されてしまうような想いなのですか? 私の自惚れ――――勘違いなのでしょうか?
もう一度お聞きします。ヘレナ様は、私が他の女性と結婚して平気ですか?」
レイの言葉に、ヘレナは唇を固く引き結ぶ。けれど先程までとは異なり、ヘレナはゆっくりと大きく首を横に振った。
「いや、なんですね?」
確かめるようにそう口にして、レイは穏やかに目を細める。
「嫌だけど――――」
「……だけど?」
「レイはそんな風に思われて嫌じゃない? こんな醜い――――聖女にあるまじき考えを持っているわたしを、嫌いにならない?」
瞳に涙をいっぱい溜めて、ヘレナは尋ねる。
「――――では逆にお聞きしますが、ヘレナ様は私があなたの元婚約者に強い嫉妬心を覚えていたと知って、幻滅しましたか?」
ヘレナはすぐに首を横に振る。嫉妬心という言葉に、心が敏感に反応をしてしまう。
(寧ろ嬉しい……)
決して口には出せないけれど、そんなことを考えてしまう。
「私も同じです。ヘレナ様が私を想ってくださることが嬉しい。あなたにとって掛け替えのない人になりたい――――そんな私の願いを叶えて下さったのですから、ヘレナ様が負い目を感じる必要は全くないんです」
レイの言葉に、ヘレナの胸が甘く疼く。
(そっか……わたし、素直になっても良いんだ)
ずっとずっと、自分の想いに蓋をしていた。許されないと諦めていた。
(それでも対等とは言い難いのかもしれないけど)
レイとの間に壁を作っていたのは、他ならぬヘレナ自身なのかもしれない。そう気付いて、ストンと身体が軽くなった心地がする。
「レイ……もう一つだけ、質問をさせて?
レイはわたしが『お嬢様』だから、わたしのもので居てくれるの? 甘やかして、大事にしてくれるの? レイの中でわたしが『お嬢様』じゃ無くなったら、側に居てくれなくなる? ずっと頑なにわたしのことを『お嬢様』って呼んでいた理由は……」
「……一つだけと仰いつつ、沢山質問がありますね」
「だって――――――」
ヘレナの言葉はそれ以上続かなかった。優しく唇を塞がれて、ヘレナの胸が甘く蕩ける。
レイはヘレナの頭を撫でながら、ゆっくりと唇を離した。かと思えば、もう一度短く、触れるだけのキスをする。ヘレナはムッと唇を尖らせた。
「不意打ちなんて……」
「言ったでしょう? 私はズルい男なんです」
クスクスと笑い声を上げながら、レイはヘレナの手を握る。それからいつかのように、跪き、真っ直ぐにヘレナを見上げながら、彼は穏やかに目を細めた。
「ヘレナ様は私の大事なお嬢様です。これから先何があろうと、それは絶対に変わりません。
けれどそれ以前に、ヘレナ様――――あなたは私にとって、世界で一番大切な女性です。どろどろに甘やかして、可愛がって、大切にしたい唯一の人です。
あなたが何と仰ろうと、レイはずっと側に居ます。私がヘレナ様を幸せにしますから」
そう言ってレイは幸せそうに笑う。ヘレナは瞳を震わせつつ、コクリと小さく頷いた。
「あっ……でも『お嬢様』って頑なに名前を呼んでくれなかった理由は?」
「それは当然、箍が外れないようにするためですよ」
レイはサラリとそう口にしつつ、ヘレナのことを抱き締める。彼の言う通り、二人を隔てていた何かが、綺麗さっぱり取り払われたかのようだった。ヘレナはドキドキと胸を高鳴らせつつ、レイのことをそっと見上げる。レイは盛大なため息を吐きつつ、ヘレナの肩に顔を埋めた。
「下手に名前を呼んだりしたら、気持ちを抑えられなくなるでしょう?
ヘレナ様はマイペースなタイプでいらっしゃいますし、いきなり私の気持ちを伝えても、困らせてしまうだけです。環境も状況も随分変わりましたしね。ですからヘレナ様には、私とヘレナ様ご自身の気持ちに、ゆっくり向き合っていただこうと思いまして――――」
「ゆっくり、でこれ?」
言いながらヘレナは笑い声を上げる。カルロスから婚約を破棄されて、まだたったの一ヶ月だ。元々気持ちはあったのだから、早すぎるとまでは言えないのかもしれないものの、ゆっくりとは言い難いのではないだろうか――――そう思っていると、レイは首を横に振った。
「私は十年以上叶わぬ恋をしていたのです。ヘレナ様に想いを告げられる状況になって一ヶ月……十分お待ちした方だと思います」
至極真面目な表情でレイがそう言う。何だかその様子が可笑しくて、ヘレナはまた声を上げて笑った。そんなヘレナの笑顔を、レイは眩しそうに見つめている。もう一度ヘレナの頬へと手を伸ばしたその時、
「レイモンド様?」
と、見知らぬ男性の声が聞こえた。振り返ると、そこにはフワフワした赤毛に女性のような大きな瞳が特徴的な、可愛らしい顔立ちの男性が立っている。身に纏っているのは白を基調とした騎士装束で、国の紋章が入っているため、国家直属の騎士なのだろう。男性は目を丸くし、レイのことを真っ直ぐに見つめている。
(レイモンド、様?)
ヘレナは首を傾げつつ、自身を抱き締めるレイのことをそっと見上げた。




