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11話

「ねえ、全然違うんだけど……ッ」


 全身ずぶ濡れになりながらリスみたいに頬を膨らませた少女が、目を三角にさせてベンチに座るエージを睨む。

 何が違うのか、聞くまでも無い。胸も尻もぺったんこで色気もクソも無い少女がこうして気分を害している原因は明らかだった。

 答えは分かり切っていても、あえてエージは知らないフリをする事を選択した。正直面倒臭かった。


「そうか」

「想像してたのと全然違うっ!」

「残念だったな」


 何となく彼女が想像していた『浴場』について心当たりはあった。

 足元に敷かれるのはつるんとした水色のタイル。必要以上の水流を誇るシャワー、プラスチックの椅子に腰を落とせば、水垢と劣化でぼんやりくすんだ鏡と、やたら黄色いケロリン桶。

 出汁が出そうなほど熱い湯が張られた浴槽の中で、老いた番人がこれぞ我が使命とばかりに水の蛇口を死守している。

 

 脱衣室では忙しなく首を振る扇風機が呻き声のような異音を放ち、頑なに瓶である事に拘る各種飲料が壊れかけた自販機を占領すれば、半裸のままキュポンと瓶栓を開け、左手をどっしりと腰に構えつつ豪快に牛乳を飲み干す者がいる。そんな懐かしさに涙が零れそうになる絵面が頭に浮かぶ。

 

 しかしながらここは異世界だ。地球の中でも特殊だった日本の銭湯文化が根付いていると期待する方が可笑しい。鏡も無いしシャワーも無い。ボディーソープなんてハイカラなものもなければもちろん、壁を彩る雄大な富士の壁画だって無い。それ以前に湯船が無いのだ。


 エージがやれやれといった風に肩を竦めると、少女はたっぷりと水の張られた浴槽を指さし、捨てられた子犬みたいにプルプルと体を震わせた。


「あれ、お水じゃない! 死ぬかと思ったわ!」


 ついさっき。男女に分かれた脱衣室からおそるおそる出てきた少女は、浴槽に張られた水を見るなり猪のように突進し、制止の声をかける間もなく、文字通り飛び込んだ。 

 そして次の瞬間、首を絞められた鶏みたいな悲鳴を上げ、水切り石のように水面を跳ねて水風呂から脱出に成功すると、目ざとくエージを見つけて抗議の声を上げたのだ。そして冒頭に戻るわけである。


「公衆浴場ってのはこれが普通だ。イモが蒸かせるくらいの蒸気の中で垢と毛をこそげ落とす。タマが縮み上がるくらい冷たい井戸水で体を流す。ここでは鼻が曲がるほど臭う浮浪者もお人形さんみたいなお姫様もやる事は同じ。必要なのは慣れだ」


 エージはそう言って、周りを見てみろとばかりに顎をしゃくった。

 だだっ広い石作りの部屋を照らすのは、申し訳程度に設置された質の悪い魔導灯だけ。計った事がないのでわからないが、室温はおそらく60度前後だろう。サウナにしては低めの温度設定だがこれには理由がある。


 薄暗く四角い浴室には、ところどころにベンチが置いてあり、入浴客たちが思い思いに座って談笑している。と、その中の一人がにこやかに立ち上がり、さきほど少女が飛び込んだ水風呂から水を汲むと壁に向かってぶちまけた。激しい音と共に蒸気が吹き上がる。

 もうもうと立ち込めた蒸気に満足した客は、何度か頷いて元の場所に腰を下ろした。 


「ねえ、暑っついんだけど……」

「暑いな」

「すんごく暑っついのよ……ッ」

「すんごく暑いな」



 たいていの場合、公衆浴場は地域の自治体が運営しており、そこら辺の浮浪者に小銭を握らせては不要なゴミを集めさせる。そして集めたゴミを浴室の壁に直結された炉で燃やし、中の客が熱せられた壁に好き勝手に水をぶっ掛けると原始的なサウナの出来上がりだ。

 

 客から幾ばくかの小銭で懐をを潤し、街のゴミ処理をしつつ、燃えカスの灰は周囲の村々の畑の肥料となる。街によっては蒸留所まで併設したところがあるという。

 一石で二鳥も三鳥も落とすこのシステムは、どこの町に行っても似たり寄ったりだ。

 

「クソ熱い室温のおかげでキンキンに冷えた地下水を浴びられる。あのジイさんを見ろ」

 

 エージが指さした先で、今にも往生しそうな老人が手桶で豪快に水を浴び、断末魔と紛うばかりの奇声を上げる。そしてそのまま数秒間固まり、死んだかな? と心配になったものの、何事も無く動き出した。


「体が冷えてそのまま冷たくなりそうなジイさんでもあれだ。だがほんの少しだけヒヤっとしたな。一瞬お悔みの言葉を考えた」



 寸胴な腰に手をかけた少女が真っ赤な顔でがなり立てる。

 


「私がいた世界ではあのくらいのお婆さんでも平気で水風呂に入ってたわ。たっぷりお湯が入った湯船で温まるから全然平気なの。文明レベルが低すぎだわ! 燃やす物があるならなんでお湯を沸かさないのよッ!」



 言いたいことはよくわかる。

 かつて日本人であったエージも全力で支持したい意見だが、日本とこの世界では何もかもが違い過ぎる。その事に気付くのは容易でも、受け入れる事は中々骨のいる作業だ。慣れて諦めるまでには修行僧のような不屈の精神が必要となる。

 年端も行かない目の前の少女がその境地に達するまで、果たしてどれほどの時間が必要になるだろうか。

 腰まで届く、その太くて長い髪を維持するだけでも大変な事を少女はまだ知らない。

 

 ベンチに座ったエージと少女の背丈はちょうど同じくらい。

 キンキン声が耳に来るし、自然と周囲の客の耳目も集まる。うんざりした気持ちを隠しもせずにエージは溜息を吐いた。


「水はタダじゃねえし毎日風呂に入ってるわけじゃねえからみんな髪も体も汚れ放題。そんなところに循環装置も無い湯船を置いてみろ。5分もしない内にインク売りが真っ青になるくらい真っ黒な汚水溜まりの出来上がりだ。そして一か月もすれば伝染病の展覧会が開催できるだろうな」


「でも私のいた世界では――――」


「でももクソもねえよ。大体、そんなもん着せられて混浴入ってる時点で色々気付け」


 その台詞に口を尖らせた少女が、自身の貧相な体に目を落とし、「うう……」と唸りながらペタリと無い胸元を押さえた。もじもじと太ももを擦り合わせて上目遣いでエージを見る。

 将来は立派な和風美人になりそうな気もするが、生きてるか知れない未来よりも今。そしてその今の話をするならば、胸も膨らんでいないガキなんぞクソボールもクソボールだ。 


「こ、これは…… ぶ、文化の違いで―――ッ」


 少女が身に纏っているのは湯着である。

 グァルコスという蟲型魔獣から採取する、伸縮性に富んだ繊維で編まれた肌着で、見た目は短パンとスポーツブラと言った表現がしっくりくる。そしてエージが履いているのもまた短パンのような肌着だ。


 周囲の入浴客も男女問わず湯着を着ていて、日本人が想像する「混浴」とは少し毛色が違う。

 考えてみれば当然である。街中で本当に素っ裸の混浴をやっていて問題が起こらないはず無いし、そもそも客だって集まらない。


 明確な番頭がいるわけでもないこの施設では、湯着は入浴料支払いの証拠としても利用されており、これを着なければ、時折見回りにやってくる老婆に再度料金を請求されても文句が言えないという寸法だ。

 単一施設の効率利用、管理コストの削減、風紀の維持。なかなかうまい事出来ている。


「そうだ。文化の違いだ。わかったらさっさと体でも洗ってこい。臭いが気になるんだろ?」


「き、気にならないわよ失礼ねッ!  女の子相手なんだからデリカシーってものを気にしなさいよッ!」


「わかった俺が悪かった。今後気を付けるよお嬢さん。だからさっさとそのまな板洗ってこい」

 

「きぃ~~~ッ ム・カ・つ・くぅ~~~ッ!!」


 

 歯を剥きだしにして睨んでくる少女に、シッシッ と手を払う。

 少女は鼻息も荒くドスドス足を踏み鳴らしながら洗い場の方へと向かって行った。

 宿営地では団員相手に愛想笑いを振りまき、捨てられまいとポジション固めに余念の無い少女だが、性質の悪い奴隷商から助け出して以降、エージに対してはずっとこの調子だ。

 特に発言権も無いただの操縦士(ストライカ)の立ち位置を見抜いているのだとしたら大した眼力だと、少女の後ろ姿に目を細める。


 室内が薄暗いと言っても遭難はしないだろう。まさか誘拐などは―――― されたらされたで別に問題ないか。義理もなければ情もない。そういったものが絡みついてくる前に、面倒事とはおさらばした方がいいに決まってる。


 エージはやれやれと木製のベンチに座りなおした。熱い蒸気に晒され、素肌に浮いた玉の汗は既にいくつもの川となり滴り落ちている。


 蒸気と熱気。最低限の魔導灯。


 それほど視界の良くないフィールドで、周囲に気を巡らせ耳をそばだててしまうのは、戦場を生きる人間特有の行動だ。

 平和な日本でそんなこと考えたことも無かったが、今では頭より先に体が反応する。嫌と言うほどオルガから叩き込まれた技術でもあった。


 老若男女、少なくない人の気配がする。

 子の手を引く母親の笑い声や、祖父の背中を流す孫の話声、睦事に近い男女の呻き声や情報交換をする商人の囁き。それぞれの人間模様がここにある。

 異世界転生ではしゃぎまわり、全能感に浮かされていたあの頃の自分はもういない。この人間模様を形成するその他大勢の中の一人でしかない事を、随分長い事思い知らされ続けていた。

 

 漫画やラノベで思い描くヒーローには成れなかったし、個人の限界が思いのほかちっぽけである事を知っている。

 何もかもが思い通りに行かないのは、世界を渡ったところで変わらぬ確かな真実だ。


 自問自答したところで何も変わらない。

 そろそろ体でも洗うかと腰を浮かせかけた時、ベンチの横に腰を落とす人の気配がした。微かな汗の香りと共に、熟れた果実のような香りがむわりと鼻腔をくすぐる。いちいち隣を確認しなくてもわかる。これは女の首回りから発せられる牝の香りだ。


「可愛いお連れさんにフラれちゃったのかしら?」


 成熟した匂いの割には若い声。エージはチラリと横を見て肩を竦めた。


「そうかも知れねえな。俺は酷く傷つき落ち込んでいる。傷心を癒すのは人間的な優しい言葉と、動物的で淫らなぬくもりだ。そこに愛があれば言うことは無い」

「あら、奇遇ね。私は男の人の傷心を癒す商売をしているの。愛は無理でもぬくもりを提供する事は出来るわ」


 そう言ってクスリと笑うのは、その声同様に若い女だった。

 歳は20代の後半だろうか、美人ではないが目が大きく唇が厚ぼったい男好きのする顔だ。

 化粧っ気の無い顔に笑顔が浮かぶと、妖艶さよりあどけなさが垣間見えるあたり、もしかしたら思ったより若いのかもしれない。オスの目を引くタイプの女だ。


 何よりむっちりと身の詰まった手足と、顔を埋めたくなるほどたわわに実った胸。浅い溝を刻む腹の脂が何とも言えない、そんな男の征服欲を刺激して止まない肉厚な体がエージの好みのど真ん中だった。


「公娼か?」

「ええ、そうよ。まあ一目瞭然だと思うけど。という事で時間があるならどうかしら? 隣の宿に部屋があるわ」


明日も投稿しますよ、と

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