第三章 伸ばされた指はもう何も触れられずに彷徨う
一.
――まだおわらないのかな。
朱雀帝は心の中でそう呟き、もう何回目か分からないため息をついた。
此処は清涼殿。当時の天皇が生活をする屋敷である。朱雀帝が即位をしてからは、昼でも屋敷中の御簾が下ろされ、部屋は常に薄暗かった。
彼を遮る几帳の向こうでは、伯父の忠平が二人の客人と面会していた。
几帳の前から向かって右側には、忠平が控えていた。その正面には客人達が座っている。
それを几帳越しに眺めている女房達がたまに几帳を少しずらしては、きゃあきゃあと小さく歓声を上げていた。
――どうしたのだろう。
帝は暇つぶしに、女房達の話に聞き耳を立てた。
「それにしても、賀茂保憲殿は美しいですわね。さすが忠行殿の息子。良く似ていらっしゃる」
そううっとりした声で言う女房は中年であった。だが、声はなぜか若々しさを取り戻しつつある。
恋の力は、年齢をも超越するのだ。
「あら、私は隣にいる黒髪の童子のほうが良いわ。あのように麗しい人は見たことがないもの」
「私、あの童子になら娶られても良いわ」
……中には、この様なことを言い出す者までいた。
「でもあの子はまだ元服もしていない童子じゃない。歳が離れすぎですわよ」
そう咎めるように口を出したのは、先程賀茂保憲を美しいと言っていた中年の女房である。
「それをいうなら保憲殿だって同じよ。元服したとはいえ、まだ十六歳ですし」
ふと、一人の女房が、ほう……と、悩ましげに息を吐いた。
「まあ、あのように美しい方々なら、こうして顔を見るだけでも幸せですわね」
その言葉に、女房達はそうだそうだと賛成した。
皆、年甲斐もなく頬を染めている。
――みんなはきれいといっているけど、ほんとうなのかな。
帝はどうしても客人達の姿が見たくなってきた。
帝は隣にいる母・穏子の目を盗んで、外を覗き見た。
彼の視線の先には、十二歳くらいの女童がいた。漆黒の髪。切れ長の瞳。涼しげな目元。薄い唇。その所作や雰囲気は妖艶で、美しく感じた。
「…………」
帝は我を忘れて女童を見つめ続けていた。
帝は、魅せられていた。
刹那、女童の目がこちらへと向けられた。帝は慌てて目を逸らそうとしたが、身体が固まったように動けない。自然と顔に熱が集まるのを感じた。
女童はそんな彼が可笑しかったのか、くすりと小さく笑みを浮かべた。
「……っ!」
心臓が高鳴る。耐え切れなくなった帝は、逃げるように視線を逸らし、俯いた。
「主上、じっとしておかねばなりませぬ」
穏子が咎める声が聴こえたが、帝は聞こえぬ振りをして、訊ねた。
「それよりもおかあさま。あのきれいなくろかみをしたひとはだれ?」
「主上。人の話はちゃんと聞きなさい」
穏子は帝を咎めつつも、答えた。
「あれは安倍童子という者ですよ」
「ふうん」
帝は突然立ち上がり、几帳の外へ出た。
「あべどうじ!」
名を呼ぶ。
ひれ伏していた女童が、顔を上げた。
「――そなたに『晴明』の名を与えよう」
忠平の朗々《ろうろう》とした声が、耳に響く。隣にいる童子の息を呑む音が聞こえた。
……晴明。
陰暦・四月四日の別称である。ちょうど今日がその晴明に当たる。
「は、有難うございます」
晴明は深々と頭を下げた。
「あべどうじ!」
ふと、童子の名前を呼ぶ声が聞こえ、保憲は顔を上げた。
銀の長髪に赤い瞳。
人間離れした色彩を持った男童が、其処にいた。
朱雀帝であった。
彼の顔は緊張で僅かに強張っている。
「何か?」
童子が訊ねると、少年はうっすらと頬を染め、口を開いた。
「いつかおれがおおきくなったら、そくしつになってくれないか」
数秒の間、誰も言葉を発さなかった。だが、その沈黙は忠平の笑い声によって破られた。
「ははは、それは良い。美男同士でとてもお似合いだ。おまけに童子は傍から見たら女にしか見えぬからな」
忠平の言葉に、保憲は小さく息を呑んだ。冗談だとは分かっていても、帝の告白を認めてもらいたくなかったのだ。ふつりと、腹の底から苛立ちがせり上がる。
「なぜおわらいになるの、おじさま」
一方の帝は何故笑われたのか分からず、首を傾げていた。
「・・・・・・朱雀帝」
保憲の声で、笑い声が途絶えた。その声には微かに殺気が込められている。忠平もそれを敏感に感じ取ったのだろう。部屋には再び静寂が訪れた。
「保憲?」
童子が不安げな目で保憲を見つめた。
それに対し保憲は、大丈夫だ、とでもいうように微かに頷いた。そして、帝を真っ直ぐ見据えた。相変わらず、殺気は垂れ流しである。
「恐れながら、この童子はこう見えても男でございます。」
保憲が言った。
晴明が女ということは賀茂家の人間以外に知られてはいけない秘密事項だった。そうしなければ童子は陰陽師の職につくことはできないだろうし、その身分故に、参内することも許されなかっただろう。
この秘密は、安倍童子という才能の損失を惜しんだ忠行の苦渋の決断であった。
故に、保憲は帝に童子は男だと嘘をついているのだ。
「お気持ちはありがたいのですが、童子を娶るのは無謀ではないかと」
「うぬぬ」
帝と保憲はしばらく睨み合っていた。が、やがて帝が視線を逸らし「もうよい、され」と言い放ち、几帳の中へと戻ってしまった。
それを見届けてから、保憲は「はっ」と頭を下げ、部屋を出た。
二.
――何をやっているのだ、私は。
保憲は簀子縁を歩きながら、ため息を吐いた。
幾ら帝と言えど、相手は十にもならぬ子供だ。だが、我慢ならなかったのだ。童子が他の男のものにされるのが、許せなかった。
きゅっ、と手を握り締める。
初めは疎ましくてならなかったのに、いつの間にかこんなにも大きな存在になっていたとは。
保憲は自嘲的な笑みを浮かべた。
「私は、どうしてしまったのだろうな」
「――本当にな」
突如聞こえた声に、振り向く。
「童子」
名を呼ぶと、童子はくすくすと笑った。
「童子ではなく、晴明だ」
「そうであったな」
「……貴様、本当にどうしたのだ」
童子もとい晴明は、ふと笑うのをやめて訊ねた。
「幾ら帝とはいえど、相手は子供だぞ。あんなに怒ることはないだろう」
「……怒ってなぞ、おらぬ」
「怒っていただろう」
「黙れ」
保憲が語気を強めて言うと、晴明の肩が僅かに跳ねた。
はっ、と我に返り、顔を上げる。晴明の目が大きく見開かれていた。
「やす、のり」
震えた声で、名を呼ばれる。
――そんな表情をするな。
童子へ怒りをぶつけてしまった罪悪感と、矛盾した苛立ちが胸に込み上げた。
「……帰るぞ」
晴明から目を背け、踵を返した。だが、晴明は歩き出そうとしない。俯き、立ち尽くしているだけである。
「ちっ」
保憲は小さく舌打ちをし、晴明の手を掴んだ。保憲を見上げた晴明の顔が、驚愕で固まる。
「帰るぞ」
もう一度同じ言葉を繰り返し、足を進めた。
「あ、ああ」
頷いた晴明の指先が、ゆっくりと保憲のそれに絡まった。体温が急激に高まるのを感じたが、あえて無視をする。
……数日前にも、同じように手を繋いだ。しかし、何かが違う。
伝わらない想い。声に出せない言葉。解せぬ感情。
いつにも増して近くにいるはず筈なのに、その存在を遠く感じてしまう。
「……ふむ」
少し寂しさを感じた自分に気づき、保憲は低く唸った。
――寂しがっているというのか、この私が。
そんな筈はないと苦笑しつつ、晴明を見遣る。
晴明は相変わらず俯いていた。桃色の頬はより赤く上気している。伏せられた目は、何処か悲しげであった。
絡めた指をと解き、彼女の頭に手を伸ばした。
刹那、蜜色の瞳が保憲を射抜いた。
ずくり、と胸が疼く。
伸ばされた指先は虚しく空を切り、再び晴明の指先を捕らえた。
「保憲?」
「否、どうもせぬ」
怪訝な顔で見上げてくる晴明から慌てて視線を逸らす。同時に、心臓を握られているかのような胸の痛みを堪え、双眸を閉じた。
……近くて、遠い。
その意味が、漸く解った気がした。
三.
数日後。忠行の提案により、晴明は元服を行うこととなり、陰陽寮の「陰陽生」という職を受け賜った。陰陽頭である忠行自らが日を占じて決め、準備を行わせたとあって、宮中でも噂になっていた。
……その日の夜。
賀茂家では宴が催されていた。
「ふう」
大広間から外へ出た晴明は大きく息を吐き出した。
「どうも宴は酒臭くてかなわぬ」
ぼそりとそう呟き、渡殿へと足を踏み出した。
ひらり。
視界を、一片の花弁が過ぎる。
周囲を見渡すと、渡殿を囲むようにして数本の桜の木が立っていた。
「ふむ」
その情景を楽しみつつ歩いていると、桜吹雪が舞う中に人影が見えた。
……其処には、保憲がいた。渡殿の手摺りに腰掛け、桜の木を見上げている。
晴明は、ぴたりと足を止めた。
参内した時以来、保憲とはまともに会話をしていない。と、いうよりも向こうが一方的に晴明を避けているのだ。
――さて、どうしたものか。
声を掛けようか掛けまいか決めかねて立ちつくしていると、保憲が口を開いた。
「晴明か」
「ああ」
晴明は小さく返事を返した。
「――貴様は今宵の宴の主役だろう。何故、此処に来たのだ」
「宴では酒を飲む輩が多過ぎる故、広間中が酒臭くてかなわなかったのだ」
「……そうか」
保憲は視線を逸らし、前方を見つめた。その顔は、いつも通り無表情であった。参内の時に見せた、怒りと悲しみが入り混じったものではない。
――良かった。
晴明は酷く安心し、保憲の隣に腰を下ろした。
突然、肩に重みを感じた。
不思議に思った保憲は隣に目を向け、「寝てしまったか」と、ため息をついた。その顔はうっすらと赤く染まっている。
晴明はぐっすりと眠っていた。薄い唇からは、小さな寝息がも漏れている。その無防備な姿は、彼女をいつもより幾らか幼く見せた。
手をそろりと伸ばし、晴明の髪を撫でた。それは絹のように柔らかい。
「ん……」
すると、晴明が小さく唸り、身を捩った。よろめき、手摺りから落ちそうになる。保憲はすかさず手で晴明の背中を支えた。
ほう、と安堵の息をつ吐き、晴明を見下ろした。
髪が乱れ、項が露になっている。薄い唇が微かに動き、「保憲……」と呟いた。
保憲は目を見開いて晴明を見つめた。胸の中に、ある衝動が渦巻いてゆく。それは保憲には押さえ難いもので、駄目だと拒絶する彼の理性はもはや何の意味も持たなかった。
「晴明……!」
保憲は晴明の肩を掴み、顔を近づけた。
出会った時は、只、綺麗な童だとしか思わなかった。否、その頃から私は既に、奴に惹かれていたのかもしれない。
歳を数えるごとに、晴明は綺麗になっていった。晴明の仕草のひとつひとつに、胸の鼓動が早くなることが増えた。気がつけば、晴明のことを目で追っていて、いつの間にか奴がどうしようもないほど好きになってしまっていた。
だが臆病者だった私は気づかぬふりをして、でもその分晴明のことが気になった。他の男に渡したくない。そう思うほどに。
それ以上、「女」にならないでほしかった。大人にならないでほしかった。いつまでも子供のままで、ずっと私の隣で笑っていてほしかった。今までの関係を崩したくなかった。しかし……。
最早、今の私にはこの激しい恋慕を抑える術が、見つからないのだ……。
「許せ、晴明……!」
唇が触れ合わんとした時、晴明の瞳がゆっくりと開かれた。
思考が、停止する。
「保憲……?」
晴明の唇が言葉を紡いだ瞬間、保憲は慌てて肩から手を離し、立ち上がった。
「私は、宴に戻る」
「え?」
「もしかしたら、父上が探しておるやもしれぬ」
戸惑う晴明をしりめ尻目に、保憲は広間に足を向けた。
「私は何故あのようなことを……」
指で、唇に触れる。その温もりが、先程自分がとろうとしていた行動を強く実感させた。振り向き、晴明を見遣る。
月下に佇む彼女は、とても綺麗だった。その綺麗さが、今の保憲にはとても辛かった。彼女に手を出そうとした自分が、酷く汚く思えた。
――もう、戻れない。
保憲は唇を噛み締めた。
――関係を崩したくなかったのは私のほうだったのに、今度は私が、一方的に晴明との壁を作ってしまった。この、私が……!
「――っ!」
保憲は口を手で覆い、咆哮を押し殺した。
丸く肥えた月が、静かに桜の木を照らしている。やがて雲が掛かり、小雨がぽつぽつと降り始めた。
第二部、漸く?完結しました。
さて、遂に晴明への恋心を自覚した保憲ですが、これからどうなるのでしょうか。
第三部では晴明のライバルとして有名なあの方が出てきます! 御楽しみに!




