第三話
来た道を戻ったネロは、あの夜と同じ場所に立っていた。
最後にアレンの姿を見た、街道を少し外れた場所にある木々の中。
あの日に残したままだったアレンの身体も、焚き火の痕跡も、血の跡まで、どれも見付からない。
当然のことだ。
あれからもう何ヶ月も過ぎて、季節も変わっている。
見上げれば今にも降り出しそうな分厚い雲が夜空を覆っていた。
あの夜を真似て、小さな焚き火を起こした。
そして、あの日座っていた場所に腰を下ろし、最後にアレンが身を預けていた木の幹へと視線を向ける。
「結局、売れなかったよ」
手の中で赤い宝石を転がしながら呟く。
返事はない。
「これを売ったら、色々買おうと思ってた物があったのにさ。
新しい靴も欲しいし、北の街で飲んだ酒だってもう一度飲みたかったし——」
アレンと旅をした一年の間に、靴はすっかり傷んでしまっていた。
共に卓を囲んで飲んだ酒の味は、今でも忘れていない。
どちらも今ある金で買えた。
それでもネロは、赤い宝石を売った金で手に入れようと決めていた。
「でもさ、靴を替えたところで、もうお前と旅をすることもないし。一人で酒を飲んでも……」
何となく分かっていた。
一人で飲む酒の味は、アレンと並んで飲んだあの日の味には勝らないだろうと。
だが、言葉にして認めてしまう気にはなれず、ネロは黙り込んだ。
『俺を売った金で買うものが、靴と酒かよ』
そんな笑い声が静かな空間に響いた。
ネロの背後の土を、傷んだ靴が音もなく踏む。
あの日と同じ服に身を包んだアレンの姿がそこにあった。
だが、その姿は闇に溶けそうなほどに透け、声もネロには届かない。
「アレン」
ネロが小さく呟いた。
『何だよ?』
アレンが答える。
焚き火を挟んだ反対側。あの日と同じ場所に、アレンも腰を下ろした。
「お前がいないとつまらないよ」
子供が拗ねたような、そんな声だった。
ネロは手の内にある宝石を握り込む。
「仕方ないだろ。知らなかったんだ。今まで通りにすぐに忘れて、これを売った金で遊べると思ってた」
誰に向けるでもなく、言い訳がましい言葉が次々と口から零れる。
「でも、どこに行ってもお前がいる。いつもヘラヘラ笑って、何食っても美味いしか言わないし、空を見上げるとすぐ動かなくなるし」
もう何度アレンの幻を目で追ったか分からない。
ある時は過去の記憶の面影を見た。
ある時は、アレンならきっとこう言う。そんな妄想が生み出した声に耳を傾けた。
「俺、おかしくなったのかな」
目を伏せて、答えを待つ。
記憶も、妄想の中のアレンも、何も答えない。
焚き火の向こうに腰を下ろすアレンもまた、黙ってネロを眺めていた。
「……戻ってきてよ」
炎が弾ける音に掻き消されるほど、小さな声が漏れた。
『無理だ』
アレンは自分の手を焚き火に翳す。
その透けた肌の向こうに揺れる炎が見えた。
「売った物も全部買い戻すから」
『大した物持ってなかったろ』
「この宝石だって売らない」
『心臓だけあってもな』
アレンは肩を揺らして笑う。
向かい側で、ネロの頬に涙が伝った。
「俺が、間違えた」
無くしてはいけなかったものに、今更気が付いた。
けれど、残ったものは自分の手で取り出した赤い宝石一つだけだった。
アレンのように笑わないし、物も言わない。
「本当に、知らなかったんだ」
誰かを大切だと思ったこともなかった。
失っても次の日には笑えていた。そして、すぐに思い出さなくなった。
自分はそういう人間だと思っていたから。
「……戻ってきて」
アレンは静かに立ち上がり、ネロの隣に腰を下ろす。
肩に触れようと手を伸ばしても、透き通った指先は何に触れることもなくすり抜けた。
「金なら集めるよ。金貨を六百枚でも、千枚でも。だから——」
膝に顔を埋めて、ネロは縋るように言った。
アレンは僅かに目を細める。
『……もう、殺しはするな。向いてねえよ、お前には』
届かないと知りつつ、アレンは呟く。
少しの間を置いて、ネロは涙に汚れた顔を上げた。
「もう、殺しはしないよ。お前ならそう言うだろうから」
言葉は届いていないはずだった。
けれど、ネロはアレンの言葉を少しも違わずに受け取っていた。
アレンは驚いたように目を丸め、そして笑う。
『俺のこと、よく分かってるな』
子供を褒めるようにネロの髪に手を伸ばすが、アレンの指はまたネロの身体をすり抜けるだけだった。
「アレン」
『何だよ』
「会いたい」
『実は、隣にいるけどな』
そう笑った声は誰にも届かなかった。
夜が明けるまで、泣き疲れたネロが眠った後も、アレンはそこにいた。
朝日の眩しさに目を覚ましたネロは、真っ先に握ったままだった宝石を確認し、安堵の息を零した。
焚き火の炎はいつの間にか消えていた。
「……俺は旅を続けるよ。お前に、まだ見せたい景色があるから」
そう言ってネロは立ち上がった。
色んな景色を見たいと、そう言ったアレンの声をまだ覚えている。
宝石を布に包んで大事そうに鞄の底にしまう。
アレンもまた、いつもそうしていたようにその隣に立った。
「行こう、アレン」
鞄を一度撫でてネロは歩き出す。
アレンもその隣で、歩幅を合わせて足を踏み出した。
だが、すぐに見えない壁に阻まれたように足を止めた。
心臓を失ったあの日から、アレンは一度もこの木々の外へ出られなかった。
咄嗟に伸ばした手がネロの服の裾に触れ、すり抜ける。
『待て』
アレンの口から無意識に言葉が零れ出たと同時に、ネロが立ち止まった。
振り返り、アレンの立つ場所へと目を向ける。
『俺も、一緒に』
掠れた言葉は誰にも届かなかった。
ネロは何か確かめるように焚き火の跡を眺めた後、背を向けて再び歩き出す。
その場に残された透けた影は、遠ざかる背中を見つめ続けた。
ネロの姿が完全に見えなくなってから、アレンはゆっくりと踵を返す。
そしてまた一人、消えた焚き火の前に腰を下ろした。
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