第五十六話 逃走特急
ゆっくり瞼を開くと、生い茂る緑の隙間から光が漏れていた。
夕暮れ時ということもあって、思わず目を逸らしたくなる程の眩しさはない。
寧ろ影が濃くて暗かった。
仰向けになった身体を起き上がらせようとしたが動かない。
上に何かが乗っかっているからだ。
身体の前面を覆う温かく柔らかい物体。
鼻孔を刺激する甘い香り。
手を回せば余裕で抱くことができる。
そして何より・・・・・・。
「重い!」
俺は華奢な少女の両肩を掴み、密着している身体を剥がした。
「はっ、ちょ、重いって何よ!重いって」
四つん這いになったユイが文句を言う。
「重いから重いって言ってんだよ!いいから退け!」
「信じらんない!?女の子に重いとか絶対言っちゃいけないのに・・・・」
幻滅しながら、俺の脇に移動する。
「お前体重とか気にしてんのか?いつもビュッフェ梯子しているからてっきり・・・・」
「いつもじゃないし、梯子してもないし!」
「ところでここどこだよ?」
大声で反論するユイを他所に、俺は周囲を見回しながら惚ける。
右左、上を見ても下を見ても、草木が生えているだけの空間。
いや、その向こうに人の姿が見える。
それも多くの人が行き交っている。
俺は立ち上がり、その人だかりの方へ近づいてみることにした。
ユイも後に付いてくる。
木々の群れから抜けると、すぐにここがどこなのか把握することができた。
駅だ。
目の前にある建物から多くの人が出入りをしごった返している。
制服を着た中高生やスーツ姿の中年男性にOL。
通勤ラッシュならぬ退勤ラッシュといったところか。
建物からはコンクリートの支柱で支えられた橋が延びており、そこからモノレールが走っていた。
何より『さきよみ駅』と堂々と壁面に掲げられている。
「ユイ、ここは・・・・」
何か言いたかった訳ではないが、ユイは怒られると思ったのか過敏に反応してしまったようだ。
「いや、そのね・・・・遠くの場所を思い浮かべようとしてたら電車で行けば早いよねって考えちゃって、その・・・・・・」
申し訳なさそうな態度をとるユイ。
それが少し可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「別に責めてる訳じゃねぇよ」
取り敢えず慰めておくことにした。
「寧ろ、ここに転移したことはそれなりに好都合だ」
俺は人だかり見ながらそう答える。
それでも、ほんの僅かな時間稼ぎしかできないが。
「行くぞ」
俺は止めていた足を動かした。
「どこに?」
ユイは首を傾げて怪訝そうに訊いてきた。
「どこか・・・・、まあマキナから逃げ切れるような場所かな」
あるかないかと言われれば、結構あやふやな場所である。
目的地はあるかもしれないし、ないかもしれない。
それでも今はそこに行くしかなかった。
「取り敢えず、電車に乗るぞ。しばらくはこの人だかりが俺たちを守ってくれると思う」
そう言って、俺は駅の方へと足を運んだ。
仰々しい数の人々が雪崩のように前後から押し寄せてくる。
俺たちはお互いが逸れないように注意しながら、中の方へ進んでいく。
本当ならスマホで電車の発車時刻を調べたかったのだが、生憎転移した場所に全て置いて来てしまった。
鞄も、スーパーで買った食品も_____。
不意に晩御飯をどうするか考えてしまう。
幸い財布はポケットの中に入っていたため、問題なく切符を買うことはできた。
諭吉も何枚か挟まっていたので、今晩の宿は大丈夫そうだ。
改札を通過し、乗り場の方へ進む。
駅のホームも多くの人で列を作っており、電車が来るのを待っていた。
柱にある時計は五時半を回ろうとしている。
最後尾に付くと、アナウンスが鳴り響く。
しばらくすると、ガタンガタンと音を立てながら電車が迫り、近付くとゆっくり停車した。
自動ドアが開き、人が次々と中に入っていく。
俺たちもつられていく。
中に入った時、席は全て埋まっており、座れる場所はなかった。
体力も相当消耗していたので、出来れば座って休憩したかったのだが、少し残念だ。
仕方がないので、奥の方にある扉近くに移動することにした。
それから数分後に電車は発車した。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
あれから数分程時間が経ち、会話は未だゼロのままだ。
無理もない。
現在、ユイは命を狙われている。
とてもじゃないが、いつもみたいに和やかな会話ができるはずがなかった。
車窓から外の景色を見て、ドローンか何か飛んでいるか警戒している。
人混みに隠れていれば、襲ってくる心配はないと思いたいが、それでも心配だった。
マキナはこの都市の情報網を管理している統制係。
最悪の場合、今俺たちがいる場所も特定されているかもしれない。
そう考えると、気を抜くことはできなかった。
背後の方も確認しておきたいのだが、生憎人が邪魔でよく見えない。
人が少なくなったら、逐一確認しておこう。
「ねぇミツキ」
真横にいるユイが小声で話し掛けてきた。
「どうした?」
顔を向けず、声だけで反応する。
「今わたしたちが向かっている場所って・・・・」
「切符に書いてある通りだ。結構ド田舎だけど、あいつの視野から外れることはできる、はず・・・・」
自身が持てず、言葉が途切れてしまう。
「本当に逃げ切れるの?」
「・・・・・・」
何も答えられなかった。
今襲われたら、満足に戦うことができない。
もう魔装できるほどの魔力は残っていないからだ。
一つ一つ駅を通り過ぎる度に、景色が変化していく。
高層ビルが立ち並ぶ都心部から住宅街を経て、河川敷が見えるようになる。
空に昇っていた夕日も今まさに沈もうとしており、眩しく照らしていた。
そこから住宅街を通過するようになる。
先程までとは違って、建物の数も少なく、逆に草木が増えたように見える。
山も確認できるようになった。
ここまでで怪しいものは見当たらなかった。
もしかして、このまま逃げ切れるのか?
そう思ったが、その考えはすぐに否定した。
寧ろ怪しいと考えることにした。
そうしなければ、不意打ちに遭った時に対応できなくなってしまう。
後ろの状況を確認しようと、横目を向ける。
圧がなくなっているためなんとなく分かっていたが、人の数は減っていた。
老人や疲弊しきったサラリーマンが数人、長椅子に腰を下ろしている。
女子中学生三人組もスマホを触りながら話している。
部活帰りなのか、大きなカバンを肩に下げている男子高校生が大きな欠伸をしている。
窓の外は広大な田んぼが広がっており、向こう側には巨大な山々が佇んでいた。
眩しい程の光を浴び、夕焼けの景色を色濃く映している。
ユイの方を見てみる。
案の定、表情はまだ暗いままだった。
本来なら緊張を解すために、何か話し掛けるべきなのだろう。
沈黙はかえって不安を膨れ上がらせるだけ。
それは十分理解している。
俺も精神的に大分疲弊しきっているから。
ただ、何を話せばいいのだろうか。
普段あまり人と話さないため、どんな話題を振るべきか、まったく見当がつかない。
少なくともあまり緊張感がない話は止めた方がいいだろう。
呆れられるのは目に見えているし、顰蹙を買うかもしれない。
因みに今浮かんでいる内容はこれだ。
『今日はいい天気だな?』
『明日からゴールデンウィークだな?』
『今日の晩飯どうする?』
絶対ダメだ。
逆の立場なら、間違いなく呆れているだろう。
「お前この状況でよくそんなつまんねぇ話できるよな?」って。
「・・・・・・」
やはり止めておいた方がいいな。
ただでさえコミュニケーション能力が絶望的な俺が、話で和ませようだなんて無謀にも程がある。
いつもみたいに遠慮なく話す分ならまだしも、絶対遠慮してしまう。
そして、気まずい空気が更に気まずくなる。
だからせめて、自分が今できる最大限のフォローをしよう。
俺は徐に手を動かした。
指先が手の甲に当たる。
そして、か細い手を優しく握った。
「・・・・え?」
小さく驚く声が横から聞こえる。
だが、すぐに向こうからも握り返してきた。
手の平を介して、優しい温もりを感じる。
小刻みに震えていた手は、次第に落ち着きを取り戻そうとしていた。
気恥ずかしさで顔を見ることができないが、これで少しは安心してほしいと願った。
そして俺も握り返す。
このまま何も起きなければいい。
ずっとそう願っていた。
違和感に気付くまでは_____。
後ろの方が妙に静かだ。
女子中学生たちの会話が聞こえてこない。
先程確認してから電車は駅に停まっていないので、まだ車両にいることは間違いないはず。
なのに、声すら聞こえない。
それどころか人の気配すら感じなかった。
嫌な予感がする。
そう思いながら、ゆっくりと後ろの方に首を捻らせる。
結論から言ってしまえば、女子中学生はそこにはいなかった。
それどころか、部活帰りの男子高校生も席に座る老人やサラリーマンの姿も見当たらない。
まるで最初からいなかったように、その痕跡すら残っていなかった。
代わりに外の方から何かがぶつかる物音がする。
「なあ、ユイ」
漸く話し掛けた時の一声は、自分でも分かってしまう程不安に満ちていた。
「うん・・・・」
ユイ自身も同じようで、声が少し震えていた。
「まだ戦える力は残っているか?」
「大丈夫・・・・・・・・多分」
大丈夫ではないことは理解した。
瞬間転移で逃げようと考えたが、今のユイは動揺しきっているため無理だろう。
しかし、仮に万全な態勢でも厳しいかもしれない。
「合図したら隣の車両に走れ」
そう言うと、ポケットから『黒いエンブレム』を取り出した。
俺はもう満足に戦える力は残っていない。
だが、『代わり』はいる。
「一か八か、こいつらに掛けるしかねぇみたいだ」
車両の向こう側から鉄が焼き切れるような音が聞こえる。
いや、まさに扉をバーナーで焼き切ろうとしている。
扉は完全に切り離され、四機のドローンが侵入してきた。
三つの車輪で並走しており、機関銃を携えている。
「走れ!」
合図とともに俺たちは一斉に駆け出した。
ユイは扉の方へ、俺はその反対方向へ。
エンブレムを構え、魔術を発動する。
魔方陣が出現し、三つ首の魔獣が召喚される。
冥王『ハデス』が支配する冥界の番犬、『ケルベロス』。