佐々木美伶
「ちょっと待って、」
後ろから声が聞こえた。すみれだった。
「どこに行くの、掃除は終わってないよ?」
「悪い、ちょっと用事があって。」
「具体的には?」
「まぁ……女子とちょっと……ね。」
「あきれた、明日はちゃんとやるんだよ!」
僕の肩の辺りを強く押して教室に戻ってしまった。やけにジンジンと痛かった。
学校を出ると二宮金次郎の代わりに湖が見える。もう少し日が暮れると太陽が湖に映って幻想的な雰囲気になるのだが、今は黒い雲ばかり映っている。時計を見ると4時をしめしてた。
「まずいな、ちょっと急ぐか。」
僕は待ち合わせ場所を目指して急いだ。
待ち合わせ場所に指定されたのは小さなカフェだった。吊るされた古風な看板に「しゃす」と書かれている。扉を開けるとコーヒーの香りが傷を癒し、錆びた金の音が切れ味の悪いカッターのように傷を抉った。
店内にはカウンター席が4っつ、テーブル席が6つあってそのうちの入り口から一番離れたテーブル席に彼女はいた。
「ごめん、待った?」
僕は後ろから声をかけた。すると美伶は首が隠れる長い髪を翻しながら立ち上がった。
「急に呼び出してごめんね、全然待ってないよ。」
今日の朝ことだった。スマホを見ると美伶からメッセージが届いていた。
「しゃすに放課後来て欲しい。」
用事もないのでとりあえず行くことにしたのだ。
僕は美伶の向かいに座った。
何故か机を隔てて座っているはずの美伶が手を伸ばしても届かないほど遠くにいるような気がした。
ウェイター呼んでコーヒーを2つ頼んだ。
「ごめんなさい 」
美伶は悲しそうな表情をした頭を下げて言った。
「本当は自分の口からいうべきだったよね。芽衣にも悪いことしたな。」
「いや、もう過ぎたことはいいよ。」
出来る限り穏やかな口調でそういった。
「こっちはお礼を言いたいくらいだよ7ヶ月なんて最長記録なんだからさ。なんでかわかんないけど付き合ってけっこう早く別れちゃうんだ俺って、最短記録は5日間でちょっとショックでね、でも美伶のおかげで俺にもまだ魅力があるんだなって救われたよ。」
緊張したせいか2回ほど噛んでしまった。でも本題はここからだ。
「お待たせしました。」
頭上から声が落ちてきた。
びくっとして見上げると若いウェイターが注文したコーヒーを持ってきていた。
僕と美伶の前にコーヒーを置くと消えるようにカウンターに戻っていった。
目の前のコーヒーは驚くほど黒かった。ずっと見ていると魔物が出てきそうだった。
僕は一口飲むと息を吐いて美伶の方を見た。
「どうして別れたかったの?」
美伶は眉をひそめた。
「いや、未練があってとかそうゆうのじゃないから、ただ俺に悪いところがあるなら直したいな…とかそんな感じだから。」
顔を伺いながら言うと美伶は下を向いた。しばらくしてコーヒーを一口飲んだ後やっと口を開けた。
「麗也は悪くないよ、優しかったし。わたしのことが好きだってことがすごい伝わってきた。だから、悪いのは私なの。」
一瞬僕の顔を見た気がした。
「でもね1つだけ麗也に聞きたいことがある。私と一緒にいて楽しかった?」
「楽しかったよ。もちろん辛いこともあったけどやっぱり楽しかった。」
「そう、でもね、麗也、いつも何かが足りないの。一緒にいても心ここにあらずみたいな、仮面をかぶっているような錯覚をするの。そんな時にねテニス部の先輩が相談に乗ってくれたの。そしたら優しく相談に乗ってくれて、ただ嬉しかったの。でもだんだん違う気持ちが芽生えてきたの。私、先輩のこと好きなんだって。それで……」
それ以降は話を聞いてられる状態じゃなかった。てきとうに相槌を打っていると、
「今日もね先輩に誘われているんだ。」
と満面の笑みで言った。時計を見るとここに来てからまだ20分も経ってない。あきれた。
「それじゃ行くね、遅れたら悪いし。」
そう言って美伶は軽やかな足取りで店を出て行った。錆びた金の音はやけに大きかった。
美伶が出て行った後、僕は酸っぱいコーヒーを飲み干してチョコケーキとコーヒーをもう一杯注文した。一人になった僕は緊張感が抜けてほっとしていた。こんなにつかれたのは久しぶりだった。不意にチリリンと音がなって長袖を着た女性客が入ってきた。寒そうに手に息をかけていた。すると急に寒くなってきた。そして体の中心の何かがジェンガのように押し出されてのしかかる。そして初めて僕は失ったものの重さを知った。