隠された過去の話:3
「ある時、市内で誘拐事件が起きたのよ」
誘拐……それは特殊捜査班の扱う事案である。
「被害者は、とある良家のお嬢様。まだ4歳か5歳ぐらいのね。両親はすぐに通報したわ。それで、アタシ達が出動することになったの」
なぜかじっとりと、嫌な汗が背中を流れた。
聡介は黙って続きを待つ。
「もちろん、全体の指揮を取る司令官はAよ。けど……言い方は悪いけど、腕試しのつもりで現場の指揮を取れってAが彰ちゃんに言いだしたの。その当時、近く警察庁から視察が来るっていう話があってね……」
「そんな、いくら彰彦が優秀だからって、まわりが黙っていないでしょう?!」
「当たり前じゃない。だからアタシ、おかしいと思ったのよ。どうしてそんな、現場を混乱させるような真似をするのかと思って。他の隊員が大人しく従う訳がない。でもね、聡ちゃん。わかるでしょ? Aの発言は絶対。逆らうなら、下手をすれば離島か山間部の駐在所勤務が待ってるわ。奴にはそれだけの力があったのよ……」
見ていなくても、その場にあった混乱状態が手に取るようにわかる気がした。
隊長は何を考えている、なんであんな奴の指示に従わないといけない、そんな罵声とも悲鳴とも聞こえる、様々な声。
嫉妬と羨望、あらゆる負の感情が交じった視線が和泉に突き刺さる様子。
彼はどんな気分だっただろう?
尊敬する隊長の期待に応えたい。
いや、そうじゃない。
人質になった少女をいかにして無事に救出するか。
そのことを考えて、強いプレッシャーを感じたに違いない。
全体の救出作戦及び、実際の指示は隊長が出すとしても、咄嗟の判断が求められた時、果たして正しい行動が取れるのかどうか。
何よりも、他の隊員達がちゃんと動いてくれるのか。
「人命がかかっているというのに、そのAはいったい何を考えていたのですか?!」
北条は冷たい目でこちらを見つめ返してきた。
その視線に思わず、ゾクリと背中に悪寒が走った。
「……当時のアタシも、同じことを言ったわよ」
もっとも、と彼は前を向いて続ける。
「誘拐事件はもっとも検挙率が高いなんて話、聡ちゃんに言うまでもないわよね」
誘拐事件は身代金の受け渡し時が、逮捕の最大のチャンスである。それに。人質を連れているため、移動が困難になり、潜伏先が判明しやすい。
今時、一般人でも知っている常識だ。
「だから皆、少しの油断っていうか……甘く見ていたところもあるのかもしれないわ」
2人の間にしばらく沈黙が降りた。
「それで……その事件は、結局……どうなったんですか?」
知るのが怖い。
そんなふうに思ったのは初めてではない。
むしろ、立て続けだ。
「被害者は事件発生から3日後、遺体で見つかった」
暑くなってきたのか、北条はマフラーを外した。
「当然、大失態よ。査問委員会にかけられる羽目になったわ。その時、アタシ……信じられないものを見聞きしたの」
コートのボタンを外し、彼はハンドルの上に顎を乗せる。
「Aが言ったのよ。『すべては和泉彰彦巡査が、司令官である自分の命令に従わず、勝手な自己判断で現場を引っかき回し、混乱させたのだ』ってね」
「……!!」
そんなバカな、と言いかけて聡介は呑みこんだ。
まだ自分には何もコメントできないし、するべきではない。
「あの子のことを面白く思っていなかった部下達は全員、Aに追随したわ。当然、彰ちゃんだけが責任問題の矢面に立たされる。ああいう時って、多数意見が正しい、真実だってされるのよね……」
その時の様子が頭に浮かびあがる。
普段なら決して顔を合わせることのない幹部達に囲まれ、ただ一人立たされるあの緊張感。
どんなに自分は間違っていなかったと主張しても、白いものが黒いものだと判断される可能性のある状況。
「彰彦は、その時なんて……?」
北条は首を横に振る。
「あの子、黙っていた。何も言わなかった。自己弁護も、Aを責めるようなことも何一つね……」
それから、と彼は続ける。
「結局のところ彰ちゃんはハコ番からやり直し……となるところだったんだけど……ちょうどその時、県内でもヒマな方の所轄の刑事課に、一人足りないからって急遽異動になったって訳」
そういうことか。
妙な時期に異動してきたな、と聡介も怪訝に思ったものだ。
あの頃の和泉は、決して誰にも心を開くものか、と固く決意しているような眼をしていた。手負いの獣のようだな、と感じたことを今でも覚えている。
そしてふと気がついた。
「結局、その誘拐事件の犯人は……?」
北条は深く溜め息をつくと、真っ直ぐに前を向いたまま答えてくれた。
「存在しなかったのよ」
「どういう意味です?」
「……狂言だったの」
「狂言?」
「すべてはAが、彰ちゃんをはめる為に仕組んだ罠……」
どういうことだ?
聡介は頭の中で必死に、今得ている情報を元に推論を組みたてた。
「おかしいと思ったのよ。実体がないっていうの? 手ごたえ、みたいな……実感が少しもなかったのよ。どことなく誰かの掌の上で踊らされている……そんな気がしていた」
「それは……?」
「次々と身代金の受渡し指定場所を変更して、でも。犯人は影すら見せない。最後には帝釈峡のつり橋の上から、川にお金を投げ捨てろってね……運搬役に使われた人質の母親は、泣きながらカバンごとお金を投げたわ……」
もう、かなり古い話だろうが……ひどく胸が痛んだ。
「結局、犯人は姿を見せなかった」
「まさか……」
聡介の頭の中でぐるぐると、いろいろな仮説が浮かんだ。
「真犯人……いや、少女を誘拐して身代金を両親に要求し、挙げ句に殺害に及んだのはその……Aだったと?!」
北条は黙って頷く。
「少しづつだけどね、手がかりを手繰っていった結果……Aがすべて仕組んだことだってわかったのよ」
「……なぜ……?」
「当時のアタシも同じことを訊いたわ。答えは得られなかったけどね」
まさか。
嫌な予感がした。
「Aは、詳しい事情は知らないけど……彰ちゃんをひどく恨んでいた。アタシ達には計り知れない何かがあったのかもしれない。そうして悪感情ってどんどん膨らんでいって……最終的に手に負えないものになっていくのね。そして、Aはすべてが明るみに出た時……」
聡介は息を呑んだ。
「自分で、自分の頭を銃で撃ったのよ。アタシ達の眼の前で。そう。彰ちゃんに対して、呪いの台詞を吐きながらね……」
そういうことか。
和泉が容疑者の自殺に対し、過敏になるのは……トラウマだったのだ。
「その【A】の件は……結局……?」
「今じゃきっと、古い未解決事件として資料だけが残っているんじゃない? 正確ではない、改ざんされた内容でね……」
とにかく、と北条は真剣な顔でこちらを見つめてきた。
「あなただけはあの子のこと、絶対に……」
「約束します。俺は……今までも、これからもずっとあいつの父親でいます」
それを聞いて安心したわ、と現在の特殊捜査班隊長は微笑んだ。
聡介も微笑み返した。
ここまでお読みくださって、本当にありがとうございました!!