後編
僕はひったくるように彼女の手から小瓶を奪った。蓋を開けると強いアルコールの匂いが鼻を刺激する。
何だろう、これ? 本当に大丈夫なのかな……。
一瞬自分の浅はかさを後悔したがもう遅い、覚悟を決めて鼻をつまみ一気にそれを飲み干した。
「フラニー……?」
気遣うようなアギーの声が聞こえた。どこから? 前から?
小瓶が手から離れて、ガラスの砕ける音が遠くに聞こえる。なんだ、随分安物の瓶だったんだな。下は草むらで柔らかい大地なのに。
足元がふらついてたたらを踏む。頭がガンガンと大音響で騒音を奏で、目眩がして、立ってるのがやっとだった。
僕はどうしたんだろう?
「あ、アギー、これ……」
「ねえ、大丈夫?」
伸ばした手を誰かがギュッと繋いでくれた。柔らかくて安心出来る温もり。
「フラニー、ねえったら大丈夫なの?」
僕を支えてくれてるのはアギーだった。
心配そうにこちらを覗き込んでくる彼女の顔。
嘘みたいだった。こんな心細げな彼女、見たことがない。僕を心底案じている彼女なんて見たことがない。
「あ、アギー……」
「フラニー」
アギーと見つめあった瞬間、血が勢いよく流れて行くのが分かった。心臓はどくんどくんと猛スピードで早鐘を打ち、身体中がカッと熱く燃え上がる。
何? これは……?
初めての感覚に思考が追いつかない。まるで熱病にかかったみたいだ。
だっておかしいだろう? アギーを見て胸がドキドキするなんて。顔が火を噴く程に熱いだなんて。
「ねえ、フラニー……どんな気分?」
「えっ……?」
「薬を飲んで……どんな気分……?」
アギーの言葉に全身が爆発した気がした。
そうだ、僕は彼女に言われるままに惚れ薬を飲んで……。
てことは、こ、これって本物だったのか? 僕の身体の変化は、もしかしてあの惚れ薬のせいなの……?
「アギー、あの……」
「フラニー?」
アギーの目が涙で潤んでいる。いつもの彼女とはまるで違う、悲しげな微笑に目が奪われる。青い瞳は、水をたたえた海の水面のようにゆらゆらと揺れていて、それがとても綺麗で、僕は知らず見惚れていた。
いや、僕は知っていた。彼女は少々意地悪で横暴だけど、だけど本当は素直じゃないだけの寂しがり屋で、甘えん坊で、おまけにちょっと見ないくらいに可愛い女の子だってこと……。
僕は、心配しないで、大丈夫だからって言おうとして、柔らかい感触に阻まれる。は、話せない、何で?
「フラニー、ごめんね」
アギーの温かくて柔らかい唇が僕の口を塞いでいた。口と口がくっついている。これの意味することは、いくら九つの子供でも知っている。
は? え? アギーってば何をしているの?
パニック状態の僕は声も出せなくてされるがままだ。声どころか指一本動かせない、全くもって普通の身体じゃなかった。
アギーは唇を離すと悲しげに目を伏せ、ブランコの側に僕の体をゆっくりと横たわらせたあと、背中を向けて走り出した。
待って……という声は彼女には届かない。小さくなる彼女の姿を見つめたまま、僕は深い闇の中に意識を落としていったんだ。
ことの顛末を話そう。
結局、僕が口にしたのは惚れ薬でもなんでもなかった。それは強い蒸留酒で子供の僕にはきつすぎて、それで身体があんな反応を起こしただけだった。
あのあと、僕はアギーが連れてきた大人達によって、屋敷へと運ばれた。情けないことにそのまま高熱を出して寝込んでしまい、心配した両親と共に早々に彼女の屋敷を引き揚げることとなった。
以来、夏に彼女のいるオルコット邸へ僕が行くことはなかった。
仕方ないだろう。こちらは思春期に足を突っ込んだばかりの子供だったんだ。
そんな子供があの時の記憶が残る場所へ赴くなど、気恥ずかしくて出来るわけがない。ましてや彼女の前へ出ることなど考えられるわけもない。
僕は初等学校から中等学校へと順当に進学していき、卒業の日を迎えた。新たな道へと向かう岐路に辿り着き、長い時間の経過を感じた。僕とアギーは結局、あれから再会することはなかった。
いや、本当は一度だけチャンスがあった。
彼女が社交界へデビューを迎える年に、両親を通してパートナーになって欲しいとの打診を受けた事がある。
だが、その頃僕は十五になったばかりの多感な年頃で、冗談じゃないって断ってしまったわけさ。そうさ、ガキだったんだ。今もそんなに変わってないけど。
だけど、そんないささか非礼とも言える返答だったのに、オルコット伯は何も言わずあっさりと引いてくれたから、きっとあちらの方でもお断りだったんだろう。有り得る話だ。
初夏の景色はあの頃と何も変わらない。
僕はジャケットを脱いで、ついでに首を締めるタイを外した。
丘を登って行くと息が上がる。十年の年月は僕を本当に成長させているのだろうか? 懐疑的になる程に、九つの時と同じく、荒い息を吐いてる自分がいる。
登り着ると、心地の良い風が背中を抜けていった。
そよそよと木の葉を揺らす風の音。木陰を作る葉の下には古いブランコが揺れている。当時のままに。
そのブランコを揺らす影に、近づきたくても近寄れなくて僕は足を止めた。本当に情けないったらありゃしない。
「いつ来たの?」
長い金髪が風に揺られて靡く。ふわふわと。ギィギィとブランコが動く度に広がる、髪の毛と漕ぎ手の着ているドレス。
その風の悪戯と反比例するがごとく、ほっそりとした後ろ姿だった。抜けるように白い手が袖口から覗く。まるでこのブランコと共にこのまま飛んでいくのではないかと、そんなおかしな錯覚に陥る光景だった。
「久しぶりね、フラニー坊や」
僕は騒ぐ胸を抑えながら声をかけた。
「まだ、僕をそう呼んでくれるの?」
ブランコに座る人物は、少しだけ考えて答えた。
「ええ、私にとってあなたは、幾つになっても生意気な弟、フラニー坊やだもの」
「アギー」
勇気を奮い起こして一歩近づくと、彼女のーー、アギーの金髪が微かに跳ねる。
「な、なあに?」
「君は知っていたんだね、僕達のこと」
僕はブランコの前に回り込んでアギーと向き合った。
驚愕に広がる青い瞳。うっすらと紅潮する白い頬。赤く色づく形のよい唇。声も出さず僕を見つめる女性は、記憶の中にいる少女から、大人へと成長したアギーだった。
「知ってたって、な、何を……?」
「僕らが、許婚同士だったってことをさ」
アギーは顔色を変え視線を逸らす。
「え、ええ……だけどそれは親同士が勝手に決めた事で……」
「あの頃君は僕にキツく当たってたよね。それは勝手に決められた将来に対する精一杯の反抗だったんだ。そんなこと何も知らないで僕は……。さぞかし憎らしかったろう?」
僕の問いかけにアギーは目をうろうろと泳がせる。そんなちょっとした仕草が、当時の少女を思い出させ僕に力を与えてくれた。
「そんな憎むだなんて……。確かに馬鹿な子だとは思ってたけど。そんなことより、あなた過去の私への文句を言いに来たの?」
「うん、僕は本当に馬鹿だった。あれで君より大人だと思ってたんだから始末に負えない」
「フラニー、聞いてる? あなたが何故今頃になって現れたのか聞いてるのよ。許婚の事なら心配いらないわ。あなたがパッタリと顔を見せなくなって、父もすっかり諦めたの」
「でも、君はまだ名目上は婚約者のままだ、僕のーー」
そう、僕達の婚約は解消されてなんかない。
アギーは気まずげに唇を噛んだ。
「そ、それは単なる隠れ蓑よ。婚約すらしてないと色々とうるさいのよ、田舎は。だけど見くびらないで。私はまだまだ諦めたんじゃないんですからね夢を」
「白馬の王子様だっけ? 君の前に跪いて一生の忠誠を誓うってやつ」
「忠誠じゃないわ、愛よ。いやだあなた、やっぱり馬鹿にしてるのね」
「馬鹿に? まさか」
「いいえ、馬鹿にしてる。もういいからそこをどいてよ! これ以上の日焼けはよくないから私は戻るわ」
「アギー!」
立ち上がりかけた彼女を制するため、僕は大声で呼び止めた。アギーは驚いたように僕を見上げたまま固まっている。
僕は彼女から目を逸らさないで、ゆっくりとその場に膝をついた。
「アギー、いや、アグネス・オルコット嬢。このままここにいて、僕の話を聞いてくれる? 僕は騎士物語に出てくるような、美しくて強い騎士じゃない」
「フラニー?」
「背の高さも普通だし顔立ちも取り立てて良いとは言えないだろう。頭の方は努力をしたけど、首席で卒業できるような優秀な成績を修めたわけじゃない。つまり、普通だ。どこにでもいる普通の男だ」
「何……を?」
「いいから聞いて! もう少しだけ僕の話を」
息を呑むアギーに僕は慌てて謝罪する。
「大声を出してごめん。もう少しだけだから」
唇はかさつき、口の中はカラカラだった。彼女の反応が怖くてまともに見返す勇気もない。だが、それでは先に進めない。僕は意を決して顔を上げた。
「僕は白馬の王子からは程遠いかもしれない。だけど約束する。君に今と変わらない生活を約束する。誰よりも君を大切にして、一生守ることを誓う」
アギーは戸惑って混乱していた。僕の言ってる事を半分も理解してないみたいに。
「フラニー……いえ、フランシス、これは何なの? 意味が分からないんだけど……」
「本当に分からない? プロポーズだよ、アグネス。すっかり遅くなってしまったけど……、君の理想には程遠いかもしれないけど。これが僕の、精一杯の求婚なんだ」
僕は視線を落として彼女に手を差し伸べた。深く息を吐き出し一気に言葉を続ける。
「アグネス・オルコット嬢。どうか僕と一生を共にしてください。君の人生を僕にくれませんか」
重苦しい沈黙のあと彼女の声が耳に届いた。
「残念ながら、及第点はあげられないわ、フランシス」
冷たい響きが僕から勇気を剥ぎ取る。僕は下を向いたまま、その場で石になって押し黙るしかなかった。
「まず、プレゼントがないのがどうしようもないわね。指輪は最悪あとからでもいいけど、花束もないんじゃ話にならないわ。それから肝心の言葉はどうしたの? 昔教えてあげたわよね? 一生誓うのは愛なのよ。愛の言葉がなくてどう……する……のよ……」
目を上げると唇を震わす彼女が見える。アギーは両手を目元に押し当て、懸命に何かを堪えていた。いや、何かじゃなくて涙だ。彼女は少女のように、溢れる涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
「あ、アギー」
まさか泣いているとは思わなかった僕は、おろおろするだけで彼女の更なる怒りを買ってしまう。
「ハンカチ、ちょうだい。持ってるん……でしょ!」
僕はジャケットの中から、ヨレヨレになったハンカチを差し出した。ひったくるようにそれを取り上げ、アギーは嗚咽を漏らす。
「な、なん……なのよっ……、なん……なっ……のよ……ほんっ……とに……」
「アギー、ごめん」
「ごめ……じゃ……ないわ……よ」
「あ、愛してる」
「い、今更何いっ……て! し、白々しい……パ、パートナー……にっ……なってもくれな……かったくせに……」
「それはまだ子供だったから、今は深く反省してる。心からあの時のことを悔いてるんだよ」
「し、信じ……られないわ、私……てっきり……フラ……ニーに……嫌われた……かと、思っ……て……」
「違う、気づくのが遅すぎたんだ。アギーと一緒で君との事を聞いた時、僕も反発を止められなかった。そんなくだらない意地で君を拒絶するような真似をして、僕は……本当に馬鹿だったよ……」
「あのね、わ、私だって……傷つく……のよ……。これでも女なん……だから……。もの凄く、もの凄……く、傷ついたんですからね」
「本当にごめん!」
震えるアギーの肩に僕はそっと手を置いた。そのまま、こわごわと肩を抱きしめる。彼女はビクリとしながらも、その手を払いのけることはなかった。
「ねえ、アギー。あの日僕が飲んだ惚れ薬を覚えてる?」
アギーは一瞬物思いにふけり、それからコクンと頷く。
「確か、惚れ薬じゃなくて……お酒だったのよね。あなたには悪いことをしたわ」
彼女は小さく笑った。腕の中にすっぽりと収まって、安心したように笑ってる君。
僕は眩しい笑みから、照れくさくなって視線を逸らす。輝くような美しい笑みを浮かべる、愛しい婚約者から。
「違う。あの薬は本物だったんだよ。だってあの薬で僕は魔法にかかったんだから。怒りっぽくて偉そうで、でも本当は心配性で寂しがり屋の女の子に」
そうさ、僕は君に恋をした。
永遠に解けない恋の魔法に落ちたんだ。




