16 繋いだ手から伝わる
一応、いわゆるお付き合いというものを始めてから、学校がある日は毎日一緒に帰るようになった。自習室の離れた席で勉強をし、時間になったら二人で外に出る。ちなみに、彼は隣で勉強したいと主張していたのだが、集中できないと断った。しょんぼりしつつも嬉しそうだったのが謎だった。
十二月頭には彼の合格が決まったのだが、彼は私の勉強に付き合って一緒に帰ってくれた。
そんな感じで勉強を続けていれば、あっという間に受験が終わった。無事前期で第一志望に合格して、今日は卒業式である。
うちの学校は、卒業式は袴やドレスの着用が認められている。男子はスーツも。
私も朝早くから予約していたお店で袴の着付けとヘアメイクをしてもらい、遅刻ぎりぎりに教室へ着いた。体育館ではブーツや草履を履いていいが、校内では上履きだから変な感じだ。
今日で学校に来るのも最後か、と思うと少しだけ感慨深い。部活にも入っていなかったし、特に仲のいい友人も結局作らなかったから、あくまで少しだけなのだけど。
クラスメイトのがやがやとした声は、着ているものが様々なのもあって余計賑やかに感じる。あ、あの袴かわいい、なんて思いながら担任の先生を待ち、体育館に移動した。
卒業式は、特に面白くも感動的でもなかった。名前を呼ばれたら返事をして立ち上がり、うちのクラスの代表が卒業証書を受け取るのと同時に礼をし。その後はうつらうつらと先生方やそれぞれのクラスの代表の話を聞いて、校歌を歌って。それだけで泣ける人がちょっと羨ましい。
卒業式後は教室に戻ってアルバムや各自の卒業証書を受け取り、そこからは自由だ。アルバムの後ろにメッセージを書き合ったり、部活の後輩たちが用意してくれているらしいお別れ会のようなものに出たり。さっさと帰ってしまっていいものか悩んでいるうちに、私もクラスの何人かにメッセージを頼まれたので、私のアルバムも渡して書いてもらった。
返ってきたアルバムには、揃ったように「1年間ありがとう!」とか「もっと話してみたかったな~(ノ_<)」くらいしか書いてなくて、笑ってしまう。いや、私だって内容があることは書いてないからお互い様なんだけれど。
私がちゃんと書けるとしたら、彼だけだ。
高校で会えるのも今日が最後なわけだし、彼のクラスに行ってメッセージを書いたほうがいいだろうか。……違う大学に行ってしまえば、自然消滅ということもありえる。美幸と葵ちゃんはお互い好き合ってるから大丈夫だろうけど、私と彼はどうだろう。
私は彼のことが好きだし、色々あっても嫌いにはならなかった、どころかまた好きになってしまったくらいなんだから、きっとこれからも好きでいるだろう。絶対とは言い切れないが、その可能性が高い。
けれど、やっぱり。
これからも好きでいてもらえる自信は、ないのだ。
彼の今の気持ちは疑っていない。私と一緒にいるときの彼は……というか付き合うようになってから、かなり私にでれでれしてくる。素で恥ずかしい言葉を言ってくるからタチが悪い。
今は好きでいてくれる。それは確かだ。だけど人の気持ちは変わりやすいものだし、私が魅力的な人間とも思えない。一緒にいるだけで楽しいと言ってくれたが、私はほとんど彼の話に相槌を打っているだけだし。葵ちゃんの話を思う存分できるなら、相手は私じゃなくてもいいのかもしれない、とか、そんなことを考えてしまうのだ。
ふう、と一旦息を吐いて頭を冷やす。少なくとも今はまだ、彼は私のことが好きだ。
時計にちらりと目をやる。確か彼は、二時から部活のほうで何かあるはずだ。あと四十分程度だし、行くなら早めに行っておいたほうがいいだろう。
男子はほとんどがスーツだったが、卒業証書授与のときに見た彼は袴姿だった。似合っていたし、近くで見てみたいな、とも思う。向こうから来てくれそうな気もするけど、やっぱり自分から行こう。
アルバムとペンを持って教室を出れば、ちょうど遠くから彼が歩いてくるのが見えた。私が一組で彼が七組なので、互いのクラスの間には結構な距離がある。
私に気づいた彼が駆け足になった。
「っおはよう!」
「うん、おはよう」
もうお昼だが、まあ挨拶なんて形だけだ。数秒、彼は緩みきった顔で私を見ていた。
「かわいい」
「袴がね」
「袴もな」
これ以上言っても無駄だと察して、言い返す代わりに「晃君も似合ってる」と褒めると、彼はへへ、と笑った。あ、目がちょっと赤い。
「泣いたの?」
「あー、うん。奏海は泣いてない?」
「こういうのって泣けないんだよね」
「そっか、羨ましいかも。俺、小学校でも中学でも泣いちゃったんだよなぁ。高校こそ泣かないって決めてたのに」
羨ましいかも、という言葉が意外で、目を瞬く。むしろ私は、こういうときに泣くような人のほうが好ましいと思うのだが、男子的にはやっぱり恥ずかしいのだろうか。
「私からしたら晃君のほうが羨ましいかな。泣いてる人が多い中全然泣けないのって気まずいよ」
とりあえず話を続けながら、まじまじと彼の袴姿を眺める。シンプルな黒とグレーの袴は、やっぱり彼に似合っている。私ももっとシンプルなのにすればよかったかな。
お母さんに勧められるがままに、薄いピンクの着物と赤紫色の袴を選んだ。着物の袖には花が散っていて華やかだし、袴のほうは模様はないけれどグラデーションになっていて、私には少し派手だったかな、と思う。いや、お母さんが喜んでくれたからいいんだけど。普段は寒色系ばっかり着るんだから! とごり押しされて従った甲斐あった。お姉ちゃんにも写真を送ったら、「かわいい!!!」の後にハートを抱えたうさぎのスタンプを連打されたし。美幸も褒めてくれたし。
背が低い分、子供っぽく見えないようにメイクと髪型は落ち着いた感じにしてもらった。
「……かっこいい?」
私の視線に気づいたのか、彼が尋ねてくる。似合ってるとはさっき言ったはずだけど、とちょっと返事に迷ったが、あまりに期待した目で見てくるのでうなずいておくと、彼はにへっと幸せそうに笑った。……見てるとこっちが照れくさくなるんですけど。可愛いと思ってしまうからやめてほしい。
「そうだ。晃君、これ書いてくれる?」
「あ、おっけー、じゃあ奏海もよろしく」
アルバムを交換して、近い教室に入って誰かの机を借りる。かちりと色ボールペンの先を出して、すでにたくさんのメッセージが書かれたそこに視線を置く。
……ちゃんと書けるって思ってたのに、なかなか文面が思い浮かばない。書きたいことはたくさんあるが、文章として表すのはなんとなく気恥ずかしかった。
しかし彼はさらさらと書いているようだし、迷っている時間はあまりない。仕方ないか、思いつくままに書こう。
『あなたに出会えてよかったです。もしこの先違う道に進むことになったとしても、仲良くしてくれると嬉しいな。晃君が思うままに突き進んでね。応援してます。今まで本当にありがとう』
ペンを止める。……別れ話みたいになってしまった。けれどペンで書いてしまったから、消すこともできない。大学がそもそも分かれているし、違う道と表現したって別に変ではないと思うけど……。
もっと他に書きたいことがあったはずなのになぁ、と自分の書いた文を見つめる。どうにかここから方向転換できないだろうか。
「書き終わった?」
「あ、いや、まだ」
覗き込んできた彼に、手で文を隠す。どうせ読むのに、と彼はちょっと不服げだった。
この文章のどこが一番悪いって、たぶん最後の「今までありがとう」の部分だ。これに続けて、何が書けるだろうか。――これからもよろしく?
でも、『これから』なんて不明確な未来、きっと望んではいけない。この先別れることになったとき、彼が申し訳なく思うような要素はできるだけ減らしておくべきなんだから。
だとしたら、と難しい顔で考え込む私に耐えきれなくなったのか、彼は「えい」と私の手をどかした。数秒の沈黙の後、彼の目がこちらを向く。
「……奏海さん奏海さん、気のせいか別れ切り出されてる感じの文章なんだけど」
「……ごめん、自覚はあるけどそのつもりで書いたわけじゃないよ」
「どう続けるか迷ってたの?」
うなずいて、ペン先を揺らす。彼は「貸して」と私の手からするりとそのペンを抜いて、私の文に付け足した。
『これからもよろしく』
「……晃君の卒アルなのに、晃君が書いてどうするの」
「あ、ほんとだ。でもこれしかなくない?」
あっさりと言う彼に、「それは……私も、思ったけど」とつっかえながら返す。
思った。考えた。だけど言葉として書くなんて、彼に伝えるなんて、できなかった。怖かったから。いつかはきっと、彼も私にがっかりする。その日が来ることを恐れたから。
それなのに彼は、迷うことなく書いた。
……私も、言わなきゃいけないのかもしれない。
「大学分かれると、自然消滅する人たちも多いよね」
「あー、うん。だけど俺たちはどっちも都内だし、葵たちだっているし、平気じゃね?」
「知っての通り、私ってめんどくさい奴だから、晃君も愛想が尽きるかも」
「まあ、絶対ないとは言えないよな」
「……私だって、晃君のこと、嫌いになるかもしれない」
「ショックだけど仕方ないよなぁ。むしろあれで嫌われなかったことが奇跡だし?」
きっと私が言いたいことを察したのだろう、彼の顔から笑みが消えた。
「これから、晃君は可愛くて優しい女の子にいっぱい会うと思う。晃君には……そういう子のほうが似合ってる」
「だから別れようって?」
「っそうじゃ、なくて」
別れたいわけじゃない。別れたくなんか、ない。なのにこんなことを言うなんて、本当に私は面倒臭い。心底嫌いだ。――嫌いだから、怖い。
「……とりあえず場所移そっか。人いないとこ行こ」
アルバムを閉じて教室を出る彼の後を、早足で追いかける。どこもかしこも人がいて、人がいないところを探すのも一苦労だ。彼も困ったように視線を動かしていた。
人がいないところ……屋上、はまだちょっと寒いか。でも屋上に続く階段の踊り場なら、少しは人目につかないかもしれない。そう伝えると彼も賛成してくれたので、二人して階段へ向かう。
到着して、何を言おうか逡巡している間に彼が口を開いた。
「奏海は俺と別れたいの?」
「……そういうわけじゃないよ」
「だったら別れたくないってちゃんと言って」
ちょっとだけ、彼は苛立っているようだった。……当然だ。私は彼とのこれからを否定したんだから。
「別れたくないって言って、晃君は困らない?」
卑怯な言い方をした。
彼はぱちりと目を瞬いて、それからむっと仏頂面になる。
「困るどころか嬉しいんだけど。なんで困るとかって話になんの?」
「ご、ごめん」
「……いや、こっちこそきつく言ってごめん」
絶対なんてないもんな、と彼は続ける。
「別れるカップルなんていっぱいだし、離婚する人たちだっているし――急に死んじゃうことだって、あるし。これからも、なんて、ほんとは気楽に約束できないのかもしれない。
今は奏海のこと大好きだし、これからも好きでいられるとは思ってるけど、絶対かって訊かれたら自信ねぇもん。その逆なんて、もっと自信ない」
――同じ、だった?
信じられなくて、え、と声が漏れる。
まさか同じようなことを考えているなんてこと、あるはずがないと思っていた。だって彼は、私と違って素敵な人だ。
……私と違ってという考え自体が、間違っていたのか。いつも明るい彼も落ち込むことはあるし、不安になることもあるし、そういうところは変わらない。そして何より、彼も私も、大好きな人をなくしている。
「でもさ、今はそういうの関係ないと思うんだよね。俺は今奏海が好きだし、今、奏海とこれからもずっと一緒にいたいと思ってる。あー……上手く言えないけど、だから、今の気持ちを優先していいんじゃないかなって。
俺は奏海の自己評価の低いとこも、一人で色々考えて自己完結しちゃうとこも、機嫌悪いときにはわりと毒舌になるとこも、そういうめんどくさいのぜーんぶ含めて、今、奏海が好きなんだぜ?」
う、うう、うううう……! この人は、また!
顔が熱い、口が開かない。階下のざわめきが耳に入らなくなる。息さえしづらくて、この人は私を殺したいんだろうか、と結構本気で思った。
自分が何言ってるかよく考えてほしい! 後で照れるんだ、知ってる、こういう流れはもう何回か経験してる! これ自体心臓に悪いのに照れ顔も心臓に悪いからもう、ほんっとうに、タチが悪い。
「はい、ってことで奏海のアルバム」
何が『ってことで』なのかわからなかったが、手渡されたアルバムをそうっと開く。さっきまではなかった文章、彼が書いてくれたもの。
『奏海と一緒にいられてめっちゃ楽しかった! 好きになってくれてありがとう! 違う学校だけど、これからもよろしくな。週に一回は会いたいです。(あと、そろそろ手を繋ぎたいです)』
――完敗だった。
「晃君って、ほんと、ほんっとに……なんなんですか」
「えっ、怒った?」
「怒ってない! 怒りたいくらい照れてるの!」
「そういえばさっきから顔あか」
「ばか!」
アルバムを閉じて、でも彼の顔を真っ直ぐには見れなくて。視線をずらしたまま言い放てば、笑われた。
「奏海って、余裕なくなるとバカって言ってくるよな」
そこまでわかっていてなんで発言を改めようと思わないんだろう! どうせ自分だって後でダメージ食らうくせに。食らうくせに!
今なら実際に地団駄を踏めそうだった。いや、恥ずかしいからしないけど。
顔の熱さに耐えられなくて、両手を頬に当てる。……手まで熱い。意味がなかった。
「晃君」
仕方なく手を下ろして、名前を呼ぶ。彼の顔は、まだ見ない。
「好きです。これからも、よろしくお願いします」
「――ん!? うん!? え、う、ま、も、もっかい! もう一回! もう一回言って!」
「ごめんちょっと近い」
詰め寄ってきた彼に手で抵抗するも、次の瞬間にはぎゅうっと抱きしめられていた。……こういう反応を予想していなかったわけではなかったけど、やめてほしい。異性と抱き合うなんて、いや、美幸とはたまにやってるけど、やっぱり美幸とは体格とかどきどき感とか、とにかく違う。やめてほしい。
しかし、これは確実に私が悪かった。
「あき、らくん、はなして」
ちょっと力が緩んだときにもごもごと言えば、「ごめん!」と慌てて解放された。ほっとして、胸いっぱいに息を吸う。あんまり強く抱きしめられると、身長差のせいで息苦しいのだ。
「でも初めてじゃん! 奏海が! 好きって!」
う、ばれてた。すっごく嬉しそうな彼にばつが悪くなる。
……いつか言おう言おうとは思っていたのだが、私は今まで、彼に好きだと言ったことがなかった。求められなかったから、というのは言い訳でしかない。単に、伝える勇気がなかっただけだった。
何も言われなかったから気にしていないのかな、とも思っていたが、この反応をみるに、相当待たせてしまっていたみたいだ。
解放されたものの彼の顔が間近にあって、視線のやり場に困る。もう一回、言ったほうがいいのかな。
「……好きです。今日は、その、手……繋いで、帰りますか」
「帰ります!!」
いつもよりは皆帰る時間がばらけて、駅までの道に人が少ないだろうから、そんなに恥ずかしくないだろう。たぶん。きっと。
「あ、でも俺、部活でお別れ会あるんだけど……」
「じゃあ、手繋ぐのはまた違う日にしようか」
「え、やだ、奏海と帰りたい!」
「……部活の人とは、もうなかなか会えないでしょ。私はこれからも週一回は会うんだから、今日は部活優先したほうがいいと思うな」
彼はちょっと固まって、それから何度もこくこくうなずいた。その反応に、なんだかかわいいな、と吹き出してしまう。
週一は多いような気もするけど、まあ、土日のどっちかくらいなら会おうと思えば会えるだろう。会おうと、というか、会いたいと、というか。
「もうそろそろ時間じゃない? 二時からだよね? 教室出てくるとき三十五分くらいだったけど」
「……行く前にちょっと手ぇ貸して」
首をかしげつつ、言われたとおり片手を差し出す。それを両手で握った彼は、はあーと息を吐いた。
「明日デートしませんか」
「晃君のクラスは明日明後日卒業旅行だったはずです」
「マジで!? マジだ!」
「あはは、デートはまた今度ね」
受験生だったものだから、デートは前期の発表の翌日にしかしていない。デートと言っても遠出はしないで、近くの映画館で映画を観て、お昼を食べて、二時間くらいカラオケ、という感じ。それでも十分楽しくて、ちょっと不思議だった。お姉ちゃんとはよく行っていたが、家族じゃない人とそういう場所に行くのは初めてだったのだ。
明日明後日は無理だとして、明々後日は……と自分の予定を脳内で確認していると、彼がぎゅう、と手に力を込めた。なんだろう、と思っても、嬉しそうに笑うだけで何も言ってくれない。無言で見つめられるのはすごく居心地が悪かった。
「……どうしたの?」
「んー、なんか、嬉しいなー、幸せだなぁって」
はにかむ彼に、また少しときめいてしまった。彼と付き合うようになってから、心臓にとても負担がかかっている気がする。早く慣れたい。
「……私も、幸せだな」
「え、ほんと? うわぁ、もっと幸せになった!」
あまりに嬉しそうなものだから、繋いだ手から、彼のこういう感情も伝わってきたらいい、のに、と――。
きょとんとする彼と目が合う。きっと私も今、間抜けな顔をしている。でもすぐに無性に嬉しくなって、堪えきれずに笑ってしまった。元から嬉しくて幸せな気持ちだったのに、なんてことだろう。まさかこんなこと! 想像もしてなかった!
ふふ、あはは、と勝手に口から笑いが漏れる。嬉しい。嬉しい。なんだかすごく、すっごく嬉しいのだ。今までに経験したことのない、奇妙な喜び。
――これは、晃君が感じていた嬉しさだ。
そう、そうだ――そうだったのか。私は今、生まれて初めて、本気で誰かの喜びを感じたいと思ったのだ。誰かが喜んでいるのを見て満足するだけじゃなくて。
嬉しくて、嬉しくて、なのになぜか、涙が出てきた。やっぱり私は、晃君の前だと余計に泣き虫になるみたいだ。
こういうときなんて言えばいいんだろう。ありがとう? ……は、違う気がする。だとしたら。
「か、奏海? 今、」
「大好き」
そう言った途端、またぶわりと晃君の嬉しさが伝わってきて、大声を上げて笑ってしまった。
ああ、そっか。
やっと、今更気づいた。
――魔法なんてなくても、こんな私でも。誰かを幸せに、できるのだ。