第12話 一枚のハンカチの価値
アルヴァレト王宮が近衛兵の軍帯騒動の事後処理で大混乱に陥っているという噂は、王都のグランツ帝国大使館にまで届いていた。
紋章院からは、送った注意書きの扱いを調べると返答があった。私は大使館の照会控えを追加で届け、今日の検分へ戻った。
私は王宮の喧騒から意識を切り離し、大使館の仕分け室で日々の実務に集中していた。今日は、グランツ帝国の各地方から特命大使であるカシアン殿下宛てに届けられた、様々な品物の意匠検分を行っている。
「アーレン顧問。次は、帝国北西部・エルム地方の『七村共同体』からの献上品です」
担当の書記官が、簡素な白木の箱をテーブルの上に置いた。
蓋を開けると、中に入っていたのは一枚の麻布だった。縁に素朴な青い糸で「交差する麦の穂」の刺繍が施されているだけの、実用的なハンカチのような布だ。金糸も銀糸も使われておらず、宝石の装飾もない。
「ぷっ……」
ふいに、背後から堪えきれないような吹き出し笑いが聞こえた。
振り返ると、王宮との連絡業務を兼ねる大使館の若い書記官が立っていた。外出用の上着を腕に掛け、箱の中の麻布を見ている。
「失礼。皇弟殿下への贈り物というので、宝飾のついた品かと。王太子宮で見る献上品とは、随分違いますね」
私は木箱から麻布を取り出した。持ち上げると、縁の糸が指先に引っ掛かった。
確かに、王都の洗練された職人が作ったものに比べれば、不揃いで無骨な仕上がりだ。だが、私はその布を裏返し、刺繍の『構成』を細部まで観察した。
「箱はまだ、片付けないでください。制作記録が入っています」
「制作記録、ですか?」
「よく見てください。この裏側の結び目を」
私は布の裏側を若い書記官へ向けた。
そこには、刺繍の縫い終わりを示す極小の糸の結び目が、無数に、びっしりと並んでいた。熟練の職人であれば、結び目を布地の中に隠して平らに仕上げる。ただ、ここまで規則正しく並んでいるなら、拙さ以外の理由も考えられる。
「エルム地方における、この不揃いな結び目の連続。これは『全戸参加』を示す意匠構成です。この一枚の麻布を仕上げるために、七つの村のすべての家々から代表者が一人ずつ集まり、一針ずつ糸を通したことを表します。実際の参加数も、記録と照合しましょう」
若い書記官が怪訝な顔をした。私はさらに、箱の底に同封されていた制作記録の羊皮紙を取り出して読み上げた。
「それに、この『交差する麦の穂』の図柄。古典の意匠事典を引けば、これは百年前まで近隣地域間の水利権を巡る紛争で使われていた『敵対』の印です」
「て、敵対!? では、皇弟殿下への反逆ということですか!」
「今の意味は、この紙の次の行にあります」
私は指を一行下へ動かした。
「制作記録には、このように記されています。五十年前の和解の儀式の際、両陣営がこの麦の穂の旗を交換し、以来、この意匠は『共に実りを得る』という祝いと共存の印へと『再定義』された、と」
私は麻布を丁寧に木箱へ戻し、若い書記官を真っ直ぐに見据えた。
「返書に、どの家の針も受け取ったと書いていただけますか。金額だけでお礼を決めたら、この品には返せないものがあると思います」
若い職員は、布と制作記録を交互に見た。
「……箱に、村ごとの署名もあります」
「はい。そこも写してください」
彼はさっきと違う手つきで箱を持ち直した。謝罪を急かすより、まず布が正しく扱われる方がよかった。
「返書には、私も一行加えたい」
ふいに、入り口から声がした。
入り口の扉に寄りかかっていたのは、いつの間にか視察に訪れていたカシアン殿下だった。彼は真っ直ぐに私の元へ歩み寄り、木箱の中の麻布を見下ろした。
彼は布を裏返し、無数の結び目へ指を近づけた。触れる前に、制作記録へ目を移す。
「この小さな結び目にも、一軒分の名があるのだな」
「はい。結び目の並びと、記録の順が対応しています」
殿下は布を表へ戻した。
「返礼については、まず先方の希望を聞いてくれ。こちらが必要だと思い込んだものを送る前に」
箱を運んできた書記官が頷き、返書の下書きを用意しに行った。若い書記官は、村ごとの署名を写している。
カシアン殿下は、読みにくい一つの名を私に尋ねた。確かめて答えると、その名を小さな声でもう一度繰り返す。
私は制作記録を、彼が読みやすい方へ向け直した。
その日の夜。
自室に戻った私は、いつものように今日確認した意匠の事例をノートに記録していた。
『交差する麦の穂。エルム地方においては、五十年前より敵対の印から、共存と祝いの印へ意味が更新されている』
ペンを走らせながら、私はある事実に思い至り、ふと手を止めた。
エルム地方の七村共同体は、自分たちの手で意匠の意味を「和解の印」へと再定義し、それを制作記録としてしっかり残し、大使館へ伝えてきた。
王宮の事故に使われた品にも、大使館に来た品にも、リンデル工房の古い図案があった。古いこと自体が悪いわけではない。今、その場所でどう受け取られるかを確かめずに使えば、同じことがまた起きる。
私は制作記録の写しに、七村共同体の連絡先を書き添えた。
この布の意味を変えた人たちは、変更の日と理由を一枚の紙に残していた。
その一枚が、本棚の厚い辞書より早く届く方法はないだろうか。
窓の外で大使館の灯が一つ消えた。返書を書いていたカシアン殿下の部屋だった。
いつか、どんな一行を添えたのか聞いてみたいと思った。




