兆候
落ち着いた照明のバーは、前回と同じく低い音楽に包まれていた。騒がしさはなく、酒の匂いだけがゆるやかに漂っている。
「由紀、今日も可愛いじゃん」
多岐が屈託なく笑う。
「侑仁さんこそ。お仕事帰りですか?」
「まぁな。最近ちょっと出入り多くてさ」
その言葉に、中峰のグラスがほんの僅かに止まる。
(確かに止まった)
「気のせいだ」
中峰は頑冥に淡々と答え、氷を回す。
羽島は柔らかく笑った。
「冬は金が動く季節だよ」
「そうなんですか?」と二条が首を傾げる。
「山の方が騒がしくなる前は、いつもこんなもんだ」
──山。
京都で“山”といえば、限られている。多岐は深く考えずに続ける。
「でもさ、なんか最近ちょっと変じゃね?出入りの額がさ」
「余計な詮索はするな」
中峰の声音は低い。だが怒気はない。あくまで管理する者の声だ。
羽島は肩を軽く動かす。
「金は流れてる方が健全だろ?止まってる方が怖い」
「帳簿は合ってるんですよね?」
二条が無邪気に訊く。
中峰は即答する。
「ああ。問題ない」
羽島が続ける。
「帳尻は合うように出来てる」
帳尻“は”。
二条はグラスを口に運びながら、その一言を記憶に刻む。
中峰は数字を語らない。羽島は抽象で語る。多岐だけが、何も知らない顔で笑っている。
空気は穏やかだ。誰も声を荒げない。疑念も、怒りもない。だが、金は動いている。
店を出た後、夜風が群青色のウィッグを揺らす。
(横領じゃない)
ホテルに戻り、録音機を再生する。
山。冬。騒がしくなる前。帳尻は合う。
線が繋がる。
(戦費か)
瀬良組の金で、山が動く。静かな準備。武闘派でありながら、頭も回る組のやり口。
(鞍馬)
声には出さない。そしてもう一つ。柏木組長。五分の盃を交わした兄弟。
だが、瀬良組長には知らせていない。裏を取る為か。均衡を崩す為か。
(俺の仕事は、多岐を調べる事だけだ)
それ以上は踏み込まない。詐欺師は、盤面を読む。だが駒にはならない。
窓の外、静かな京都の夜。山は暗く、動かない。
静かな山程、崩れた時は大きい。




