第56話 好きな人(レイナ視点)
レイナ視点です。
食堂の入口で、エマが足を止めた。
「またやってる」
奥の卓ではコータとテオが向かい合っていた。間に広げた紙の盤へ二人とも顔を寄せ、朝食を運ぶ人が通っても気づかない。
コータが駒をつまみかける。テオの口元を見て手を止め、盤へ目を戻す。
「そこじゃなかったか」
「いや。好きに置けよ」
「そんな顔で言われてもな」
私は空いている椅子を引いた。エマも隣へ座る。
「おはよう。ご飯、頼んだ?」
「おはよう。まだ。今、終わるから」
返事をする間もコータは盤を見ている。
昔からこうなんだよな。
もう終わると言うから待っていたのに、次の勝負が始まる。私も隣で遊んでいる日はよかったけれど、出かける前に始められると困った。今日は急ぐ用事もないので、先に宿の人へ朝食を頼んでおく。
パンと器が並ぶと、テオが紙を卓の端へずらした。駒が一つ倒れて、コータが指を差す。
「今の、そこじゃないぞ」
「分かってる。ここだろ」
「違う。もう一個向こう」
「ええ?」
私たちにも聞かれたが、倒れる前の駒の位置までは見ていない。エマはパンを半分に割って、片方を口へ運んだ。
「食べてから、もう一回やったら?」
「そうするか」
コータが紙を畳み始める。決着がつかなくても次は始められるらしい。
昨日写した図を見ながら、コータとおじさんは宿へ戻ってからも話していた。細かく離し、それを押し流す。私にも試せそうなところはある。
朝の洗い物が終わったら庭を借りて試し、道と馬車を聞きに行く。それが済めば、明日は一日休みだ。帳面の細かい字は、しばらく見なくていい。
*
裏庭の桶へ、靴を拭いた布を広げる。
土を落とすだけならすぐ済む。けれど今度は、離した土を横へ送ろうとしていた。手元から向こうへ揃えて流せれば、桶の縁や自分の服へ散らさずに済む。
布の折り目から土が浮いて右へずれた。そこへ気を取られると、まだ離れていない土が残ってしまう。
「あれ。こっちを動かすと、こっちが止まる」
「俺もそれになった」
隣でコータが自分の布を見せる。汚れの真ん中に一本、きれいなところができていた。
「風を先に出しておいたら?」
エマに言われて試す。剥がれたものは動くけれど、風を強くすると布まで持ち上がる。縁を押さえてもらって、弱めながらやり直した。
今度は土が向こう側へ寄っていく。
「できた。……でも、二回に分けた方が楽だね」
「普通に落とすだけならな」
コータは頷きかけて、何かを聞くように黙った。
「おじさん、何て?」
「離す方と流す方を、始める前に決めておいたらどうだって。途中で片方ずつ直そうとするから、もう片方が止まるんじゃないかって」
「最初に両方?」
「うん。俺もやってみる」
コータが布へ手を近づける。すぐには始めないで、しばらくしてからゆっくり動かした。土が剥がれながら、同じ向きへ滑っていく。
「お、できてる」
テオが屈んだところで、土がその下へ落ちる。
「あ、止まった」
「言うからだろ」
「俺のせいかよ」
私も始める前に二つを思い浮かべると、手を止めずに進められた。けれど幅を広げた途端に流れが乱れ、残った土は普通に落とすことにした。その方が拍子抜けするほど楽だ。
「私、ここまでにする」
「うん。俺も。これ、頭が疲れるな」
テオが靴を片方脱いで差し出してくる。
「俺のもやる?」
「終わりって言っただろ。自分でやれよ」
「練習の続き、いるかと思って」
そう言いながら、もう自分で靴底へ手を向けている。落ちた土を桶へまとめ、私たちは借りた場所を洗い流した。
桶を戻しに行くと、コータが私の横へ来た。
「明日、二人で出かけない?」
「うん。どこ行く?」
「川の向こう。橋から見えた店とか、寄ってみようかなって」
返事をしてからエマを見ると、こちらを見て笑っていた。
今度は何も頼んでいない。
出かける前にモリスを始められても、明日は待たないでおこう。
*
翌朝、上着の袖を直していると、エマが寝台からこちらを見た。
「今日はそれなんだ」
「うん。そんなに暑くなさそうだし」
エマは畳んでいた服を膝へ置く。
「楽しみ?」
「うん!」
「どんなとこがあったか帰ってきたら教えてね」
「エマたちは?」
「テオが道具屋に行くって。私もついていこうかな」
エマへ手を振って部屋を出る。廊下にはもうコータがいて、私を見ると扉から背中を離した。
「おはよう」
「おはよう。待ってた?」
「今来た。下、もう飯出てるよ」
そう言ってから、コータが笑った。
「何?」
「おっさんが、恋愛指南書でも読んだのかって。普通に答えただけなのに」
私に言い訳しなくてもいいのに。ちょっとかわいい。
私の上着へ目を落とし、それから笑う。
「それ、久しぶりに見た気がする」
「仕事の日は着ないからね」
「うん。やっぱり似合う」
何でもないことのように言って、先に階段へ向かってしまう。
隣へ追いつき、私からも今日の服がいいねと言った。コータが、ほんとか、と自分の袖を見る。今さら確かめなくてもいいのに、その顔までずっと見つめていたくなってしまう。
*
朝食を終えて外へ出ると、橋へ向かう人が増えていた。
川沿いには籠を重ねた店や、焼き物を並べた店がある。前を通るたびにコータが足を緩めるから、私も同じものを覗いた。
木の匙の横に、小さな船が並んでいる。一本の棒に布を張り、底は丸く削ってある。
「これ、浮くんですか」
コータが店の人へ尋ねる。
「浮くよ。流れのあるところへ入れるなら、紐をつけなよ」
「そのままだと行っちゃうか」
手に取って裏まで見ている。私は隣のもっと小さい船へ目を移した。こちらは布がなくて、真ん中が浅くくぼんでいる。
「お風呂に浮かべるやつみたい」
「それ、いいな。フォルネであったら買ってたかも」
「温泉に持っていくの?」
「テオなら競争するだろ」
想像できてしまって、二人で笑った。
今は浮かべるところがないから船を戻すと、コータは店の人へ礼を言った。歩き出してからも、どうやったら速く進むか考えているらしい。
「魔法は駄目だろ。それだと船の速さじゃないし」
私に言ったのかと思って顔を見ると、コータもこちらを見た。
「おっさんが、後ろから押せばいいって」
「コータも同じことしそうだけど」
「俺は、まず普通にやるよ」
まず、なのか。
また何か言われたようで、コータが笑いながら言い返す。どんな声で言っているのかは分からない。
その横で私は手を伸ばし、袖を引いた。
「コータ、こっち」
橋を渡る方へ指を向ける。彼が向き直ったので、そのまま袖から手首へ指を滑らせた。コータの手が開き、私の手を握る。
「何かあった?」
「ううん。つなぎたかっただけ」
「……そうか」
少し照れた顔をして、握り直してくれる。
おじさんとの話も聞きたい。でも、今日は私だけを見てほしい。そんなこと言えるわけないけど。
*
橋の向こうで、料理へ入れる草を嗅がせてもらった。
「これ、どっかで食べたよね」
「肉についてたやつじゃないか。あの、甘かった方」
「甘いのはたくさんあったんだけど」
町の名前を挙げる私たちに、店の人が笑った。魚へ挟んで焼いてもおいしいという。
結局、昼は魚になった。さっきの話で食べたくなったのかと思ったら、昨日からこの店が気になっていたらしい。
入口の脇では魚を焼いていた。川に向けて窓が開いてて、空いている卓から水面が見える。
「ここ、座っていいですか」
私が頼むと、店の女性がどうぞと器を寄せてくれた。
コータが向かいへ座り、窓越しに焼き場を見ている。
「いい匂いするな」
「うん。お腹すいた」
「さっきからおっさんも、そればっかり」
運ばれてきた魚は皮がこんがりと焼け、脇に酸っぱい葉物とパンが添えられていた。割ってみると、腹のところから草の香りが上がる。
「さっきの、これかな」
「どうだろ。食ってみよう」
コータが身を口へ入れる。噛む前に唇を離したので、熱かったのだと分かった。私も取りかけた身を皿へ戻して冷ます。
おいしそうなものを見ると、一口目だけ急ぐ。前に小籠包で同じことをしていたときも、先に言ってよと私を見た。食べていない私に分かるわけがないのに。
「熱い?」
「うん。けど、うまい」
困ったように笑ってから、もう次を取っている。
私はその顔を見ながら魚を崩した。コータが笑うと、こっちまで口元が緩む。楽しいことを思いついたとき、まず私に話そうとするところがかわいい。顔を寄せて声を落とされると、内容を聞く前に嬉しくなる。
「レイナ、食わないの?」
「食べるよ」
見すぎていた。慌てて口へ入れると、ちょうどよく冷めた身がほろっと崩れる。草の香りもするけれど、さっき嗅いだものと同じかは、結局よく分からなかった。
*
食後は川に沿って歩いた。水際へ下りる石段の上に腰掛けられるところがあり、二人でそこへ座る。
向こう岸に、さっき通った店の庇が見える。
「歩いたね」
「うん。休みなのに、結構歩いてるな」
「でも、こういうのは平気」
荷物も剣もない。足が疲れたら座って、もう少ししたら宿へ戻ればいい。
コータが隣で脚を伸ばした。私は肩を寄せる。腕が触れて、彼もこちらへ顔を向けた。
「機嫌いいね」
「いつもいいよ。でも今日は楽しいもん」
「俺も」
それだけの返事が嬉しい。
以前から二人で出かけるのは好きだった。映画を見て、食べたいものを決め、別れたあとで次は何をしようか考える。
前から一緒にいたかった。その気持ちを恋だと呼ぶようになっても、出かけた先で話すことはあまり変わらない。
ただ今は、自分から肩をくっつけて、もう少し近くにいてもいい。
胸元の紐がずれたので、指を入れて直した。服の中から出たハートが光る。コータもそれを見て、自分の襟元へ手を入れた。
「まだ、ちゃんとついてる」
「そっちもね」
掌の上に同じ形が載っている。
これを二つ買っていたときのコータを想像すると、今でも笑いそうになる。渡すまで隠していたことも、自分もつけるつもりだったことも、全部嬉しかった。
私はハートを服へ戻し、空いた彼の手を取った。
「誘ってくれて、ありがとう」
「うん。また来ような。……別の町でもいいけど」
「そっちの方が多そうだね」
まだ見ていない町がたくさんある。そこでまた食べすぎたり、変なものを買いそうになったりするのだろう。そのときにも隣にいたい。
*
宿へ戻る途中で、朝は閉まっていた菓子の店を見つけた。
薄く焼いた生地が筒の形になり、籠の中で重なっている。一本買って齧ると軽い音がして、口の中で甘くほどけた。
「これ、二人にも買っていこうよ」
私が言うと、コータは袋に入れてもらう数を考え始める。
「テオ、すぐ食いそうだな」
「私たちもすぐ食べるでしょ」
「まあ、そうだな」
多めに買うことになった。袋を受け取ったコータが、一本だけ私へ差し出す。
「もう食べるの?」
「おっさんが、せっかくなら歩きながらって」
そう言いながら、本人も欲しそうに袋を覗いている。
半分に折って渡すと、ありがとうと笑った。私は残りを食べ終え、空いた手を差し出す。
帰ったらエマに話そう。魚がおいしかったことも、コータから誘ってくれて嬉しかったことも。
隣から伸びてきた手を握る。
でも、もう少しだけ歩いてからにしようかな。
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