第8章 思惑
ベルミンとハスパーが顔を合わせたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「ハスパー、久しぶりだな」
「ベルミンこそ。相変わらず忙しそうだな」
二人は向かい合って座り、しばらく商売の話をするでもなく、穏やかに言葉を交わしていた。
「最近はどうだ? 商売の方は」
「まあまあだな。昔ほど楽じゃないが、それでも商人を続けていられるだけありがたい」
ベルミンが笑う。
「お前がそんなことを言うとはな。ヴァルデン家ほどの商いをしている男が」
「ハスパー、商売っていうのは、外から見るほど簡単じゃないぞ」
「それは私も同じだ」
ハスパーも笑った。
二人は昔から商人として互いのことを知っていた。
扱う品も、商売のやり方も違う。
それでも、長い年月を商人として生きてきた者同士にしか分からない苦労があった。
「そういえば、最近は若い商人が増えたな」
「増えたな。昔よりも商売を始めやすくなったのかもしれん」
「その分、競争も激しくなったがな」
「それも商売だ」
ベルミンはそう言って、静かに笑った。
二人は最近の市場の様子や商品の値段、仕入れのことなど、取り留めのない話を続けた。
昔から変わらない、商人同士の何気ない時間だった。
だが――。
ベルミンには、今日ハスパーに会いに来た理由があった。
そしてハスパーもまた、それを感じ取っていた。
しばらくして、ベルミンがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、昨日、ドレッドが来ただろう?」
「ああ」
ハスパーが頷く。
「どうだった?」
「どうだった、と言われてもな」
ハスパーは少し考えるように顎に手を添えた。
「ずいぶんと大きくなったな、というのが最初の印象だった」
「昔から生意気なところはあったがな」
ベルミンは苦笑する。
「昨日もそうだったか?」
「そうだな。自信があるのは悪いことではない。むしろ商人なら、それくらいの気概は必要だろう」
「まあ、それはそうだな」
「ただ……」
ハスパーはそこで一度言葉を止めた。
「昔のお前に、少し似ている気もした」
「私に?」
ベルミンが意外そうな顔をする。
「ああ。自分の考えを曲げないところがな」
「それは困ったな」
ベルミンは笑った。
「私に似ているなら、相当扱いにくいだろう」
「そこまで言うなら、自覚はあるようだな」
「昔の話だ」
「昔?」
「……まあ、昔だ」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
「ベルミン」
ハスパーが少しだけ真面目な顔になる。
「昨日のことだが……」
「……やっぱり気になるか?」
ベルミンが先に言った。
「ああ」
「もちろんだ」
ベルミンは少し間を置いてから、ハスパーを見る。
「なぜ、作り方を教えた?」
ハスパーは黙ってベルミンを見る。
「別に、秘密にしておくべきだと言っているわけじゃない。いつか誰かに教えることだってあるだろう」
「そうだな」
「だが、お前が教える義理もないだろう?」
「……まあな」
「しかも、今の状況はお前も分かっているはずだ」
ベルミンの声には責めるような響きはなかった。
ただ、本当に不思議だった。
長年付き合ってきた友だからこそ、ハスパーが何を考えているのか知りたかった。
「だから聞いているんだ。なぜ、ドレッドに教えた?」
ハスパーは椅子に深く腰をかけ、しばらく考えた。
「どうしてだろうな」
そして、少し困ったように笑う。
「俺にもわからない」
「お前にも?」
「ああ」
ハスパーは窓の外へ目を向けた。
「昨日、あいつと話していてな。妙な感じがしたんだ」
「妙な感じ?」
「上手く言えないが……あいつは、ただ作り方を知りたかっただけじゃない気がした」
ベルミンは黙って聞いていた。
「商売のためなのは間違いないだろう。あの目を見れば、それくらいは分かる」
「それは私も分かる」
「だが、それだけじゃない。 何度も頭を下げたんだ。」
「そうか……あいつが何度も頭を下げたか」
ベルミンは静かに呟いた。
「使える駒があるなら、何をするにも全力だ。自分の恥も厭わないやつだからな」
「なぜ俺なのかは分からなかったが……どうせ、お前が教えなかっただけだろう」
「それもある」
ベルミンはそう言って、少し笑った。
ハスパーは黙ってベルミンを見る。
「先日の夜のことだ。弟のチャリスを使って俺のところへ来たばかりだったんだ」
ベルミンがそう話すと、ハスパーは黙って耳を傾けた。
「その時は、まさかハスパーの所に行くとは思ってなかった。商売敵だぞ? 普通は思わないだろ」
ベルミンは少し首を振った。
「ましてや、あの場所に連れて行ったなんて、思ってもなかった」
「あそこは、俺たち二人にとって大事な場所だ」
ハスパーはそう言って、少しだけ遠くを見るような目をした。
「どうだった? あいつの反応は」
「それは驚いてたぞ」
ハスパーが答える。
「そうか」
ベルミンは少し笑った。
「驚いてくれないと困る」
ハスパーも小さく笑った。
「、、、、。」
「それでも、あのことは話していない」
ベルミンの表情から笑みが消えた。
「……そうか」
短い返事だった。
二人の間に、しばらく沈黙が流れる。
「あのことだけは、まだ話す時じゃない」
ハスパーが静かに言った。
ベルミンも何も言わず、ただ頷いた。
ベルミンはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「それはそうと、ドレッドのことはどう思う?」
ハスパーはベルミンを見る。
「俺と意見が反対なのは、お前も分かると思うが……どうしてあそこまで独占にこだわる?」
「……」
ハスパーはすぐには答えなかった。
「いいものを作る。よりいいものを売る。そういう考えなら、俺も大いに賛成だ」
ベルミンは続ける。
「だが、独占となるとな……。一人で抱え込むより、多くの者が手をかけた方が、もっと良いものになると思うのだがなぁ」
ハスパーは静かに頷いた。
「そうだな」
少し間を置いて、ハスパーが口を開く。
「しかし、頭を下げるまでしてのことだ。あいつが、よほどのことがない限り、あそこまでして人に頼るとは思えん」
ベルミンは黙ってハスパーを見る。
「何か心当たりはないのか?」
「……」
ベルミンはしばらく考え込んだ。
「心当たりはないが……家に帰ってソフィアにでも聞いてみるか ドレッドとは仲がいいはずだ。何か知っているかもしれないな」
ソフィアはドレッドの5下の妹である
「妹のソフィアか、、」
「俺はソフィアのことが、なんだか苦手なんだ」
ハスパーは少し笑いながら言った。
「ソフィアはドレッドやチャリスとは違うだろ? ヴァルデン家の娘なのに、商売をしようとしないしな」
「ソフィアは妻に似たのだろうな」
ベルミンはそう言うと、少し嬉しそうに笑った。
「ソフィアと話すと、何か見透かされたような気になるんだ」
ハスパーは少し苦笑した。
「まあ、帰って聞いてみるといい」
「そうだな」
ベルミンは頷くと、少し表情を引き締めた。
「話を戻すが、ドレッドは多くの者に話をつけている」
「中には疑問を抱いている者もいるが、ドレッドも分かっているだろう」
「チョコレートの作り方ではなく、ハスパー、お前の所にも来るぞ?」
ベルミンはハスパーを真っ直ぐ見た。
「どうするかは止めやしない。だが、よく考えてくれ」
「もちろんだ」
ハスパーは静かに答えた。
「長年商いをしてきたんだ。しっかり考えるさ」
そして、少し笑った。
「心配するな」
ハスパーがそう言うと、ベルミンは静かに席を立った。
そして、ハスパーに一言だけ言葉を残すと、そのまま席をあとにした。
ハスパーは去っていくベルミンの背中を、黙って見つめていた。
ベルミンが帰ったあと、ハスパーはしばらく椅子に座ったまま、静かに考えていた。
先ほどまで交わしていた言葉が、頭の中を何度も巡っている。
ドレッドのこと。
そして――あのこと。
ハスパーは小さく息を吐いた。
「……難しい話になってきたな」
そう呟いた時だった。
「父さん、ここにいたのか?」
声がして、扉が開く。
顔を上げると、そこには息子のブルーノが立っていた。
「ブルーノか」
「ああ。さっきベルミンさんが帰っていくのが見えたけど……何か話してたのか?」
ブルーノはそう言いながら、ハスパーの向かいに目をやった。
ハスパーは少し間を置いてから答えた。
「少しな。昔からの友人と、商売の話をしていただけだ」
「ベルミンさんと?」
「ああ」
ブルーノは少し考えるような顔をした。
「……ドレッドのこと?」
ハスパーは、わずかに目を細めた。
「なぜそう思う?」
「昨日、ドレッドが来たんだろ?」
「ああ」
「それなら、たぶんその話だと思ってな」
ハスパーは何も答えず、静かにブルーノを見つめた。
ブルーノは少し呆れたように笑った。
「そう思うのが普通だろ?」
ハスパーは黙ってブルーノを見る。
「ドレッドがうちに来るなんて、普通じゃない。気になるに決まってるだろ」
「……まあ、そうだな」
ハスパーは苦笑した。
「もちろん、独占のことは知ってるさ」
ブルーノはそう言うと、椅子に腰を下ろした。
「昨日の話を聞けば、何を考えているのかくらいは分かる。あいつは本気でチョコレートを独占するつもりなんだろ?」
「ああ」
「だったら、父さんのところに来た理由も、だいたい想像はつく」
ハスパーは少し考えてから、静かに口を開いた。
「ブルーノ、お前の想像とは少し違うぞ」
「違う?」
「ああ。ドレッドは、チョコレートの作り方を聞きに来ただけだった」
ブルーノは少し驚いたように、ハスパーを見る。
「作り方を?」
「ああ」
「……それで、父さんは教えたのか」
「少しな」
ブルーノは「そうか」とだけ答えた。
それ以上、何かを聞く様子はない。
ドレッドが何を考えているのか。
チョコレートをどうするつもりなのか。
そんなことを深く考える気もないようだった。
しばらくすると、ブルーノは椅子の背にもたれ、窓の外へ目を向ける。
「まあ、俺はチョコレートにも、ドレッドの独占にも興味がないけどな」
「……」
「ドレッドのことも、そんなに好きじゃないし」
あっさりと言って、ブルーノはそれ以上その話を続けようとはしなかった。
ハスパーはそんな息子を見て、小さくため息をつく。
「少しは気にしてみたらどうだ」
「俺はいいさ」
ブルーノは父を見ることもなく、淡々と答えた。
「父さんの好きなようにしなよ」
ハスパーは何も言わなかった。
息子が商売に興味を持っていないことは、昔から分かっていた。
だからこそ、無理に何かを押しつけるつもりもなかった。
ただ――。
「……お前にも、いつか分かる時が来るかもしれんな」
ハスパーがそう呟くと、ブルーノは少しだけ笑った。
「その時が来たら考えるよ」
そう言うと、ブルーノは立ち上がった。
「じゃあ、俺が出かけるよ」
「どこへ行く?」
「ソフィアが待ってるからさ」
ハスパーは少し呆れたように息を吐いた。
「お前は……またソフィアか」
「いいだろ?」
ブルーノはそう言って、笑った。
ハスパーは何も言わず、息子を見つめる。
ソフィア。
その名前を口にしただけで、なぜか少しだけ頭が重くなる。
だが、ブルーノにとっては、それがいつものことなのだろう。
「じゃあな、父さん」
「ああ。気をつけてな」
ブルーノはそのまま部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、ハスパーはまた一人、椅子に座ったまま考えていた。
そして――。
先ほどベルミンが言った言葉を思い出していた。
『ソフィアにでも聞いてみるか』
「……ソフィアか」
ハスパーは小さく呟いた。
ハスパーは一人、しばらく考えていた。
そして、静かに立ち上がると、自分の部屋へ戻っていった。




