十三話 月下の夜半
「あー……酷い目にあった……」
昼間よりは増えた腕、足の包帯を見やりつつ夜空に浮かぶ月を眺めた。
クソむかつく大喰らい龍とのみっともない大乱闘。
病み上がりで無茶しすぎたせいか、当然あの後、老師からこっぴどく叱られ更に一ヶ月の絶対安静を厳守するようにと言われた。
これを破れば問答無用で追い出すとまで明言されては、流石に大人しくせざるを得ない。
元はといえば俺のポーズを横取りしたあの龍が悪いのだが、なぜか老師は奴にはお咎め無しであり、これもまた納得がいかない話だった。
扱いの差はともかく、老師と龍は積もる話があるようで、今も庵の庭の篝火の前で語らっている最中。
一体、どんな内容の会話なのか? 気にならないと言えば嘘になる。が、さりとて俺がその内容を理解できるはずもなく、一人こうして庵の裏手で夜空を見上げていたのだった。
「……綺麗だな」
人里から遠く離れた山奥の満天の星空。
思い出すのは聖女の丘で満身創痍の中、シエラと見上げたあの日の星空。
あの頃は、こんな大きな陰謀に巻き込まれるなんて思いもしなかった。
連換術協会を異端と決めつける教会の理不尽に怒り、同時に無力感にさいなまれながらも現実から目を逸らすように仕事に没頭する日々。
あの子との出会いがきっかけで、教会……いや、帝国の闇に巣食う影の存在を知った。
そして、なんの因果か聖女伝承の足取りを辿るように皇都、聖地で奴らの企てに巻き込まれて、今は帝国から遠く離れた大陸の東側の国にまで来てしまった。
七色石を手にいれる為の東方巡礼。
くしくも、聖女と同じ旅の行程を今こうしてなぞっていることに、何か大いなる存在の思惑が働いている。冷静に振り返ると、その事実だけで身震いした。
「それは、まぁともかく。どうやって帰ればいいんだろうな……」
「まだ、ダメですよ。しっかり体を療養させてからでないと」
「そう言われても……って、いつの間に!?」
こうやって背後を取られるの何回目だろうか。
慌てて後ろを振り返ると、いたずらっ子が見つかっちゃったみたいな微笑みを浮かべている翠さんと目が合った。
「脅かさないでくださいよ……翠さん」
「フフッ、ごめんなさい。毎回、驚いてくれるグラナさんの反応が面白くて」
「いや、心臓に悪いので普通に声掛けてください。気配の消し方なんて誰に倣ったんです?」
「リャンさんから教えていただきました。護身術と一緒にいざって時に役立つだろうから、と」
隣に腰を下ろしながら翠さんはそう教えてくれた。
なんでも清栄に到着して早々、色々なことが起きたようで、その際に一時逃亡生活のようなものを送っていたのだと。
住処を転々とする傍ら、空いた時間でリャンさんから薫陶を受けていたらしい。
それは老師に預けられるまでの僅かな間、だったようだが。
「そういえばそのリャンさんは?」
「詳しくは知らないのですが、色々と奔走されているようです。しばらく便りが無いので不安ではあるんですけど」
心なしか翠さんは、不安気な表情を浮かべていた。
なんだかんだで面倒見のいいリャンさんは、翠さんから頼りにされていたことが窺える。それだけに、今どこにいるのかもわからないとなれば、不安も当然なのだろう。
せめて、リャンさんがいない間だけでも心の支えになれたらと思いつつ、なぜ翠さんを老師に預けたのか? ということだけが不可解だったが。
やはり、よっぽどのことが起きているらしい。それもやはり俺が預かりしらないところで。
「……なんだか、置いてかれてるような気がするな」
「? どういう意味です?」
「いえ、大陸の東に来てから世の中の流れについていけてないというか。これまで渦中に飲み込まれることが多すぎて、今の傍観者のような立ち位置が居心地悪い……といいますか」
目覚めてからどことなく感じていた違和感。いや、ある種の諦観というか寂しさのようなものの正体にことここに至って思い当たる。
今までの俺は次から次へと降りかかる困難と壁を乗り越えることだけに必死だった。それは当たり前だ。目の前で大切な人たちが傷つけられるのを、黙って眺めていることなんて出来やしないから。
だから、実力的に敵わない相手であっても果敢に挑み、そのたびに辛くも勝利をもぎ取ってきた。どれだけの人達に心配をかけてきたのかも顧みず——
そして、いつしかこの歪な状況が当たり前になってしまっていたことに、今更ながら気づいたから。
気づけばそんなことを独白していた。
翠さんはじっと黙って俺の言葉に耳を傾けている。そこに肯定も否定もなく、ただ夜風が草木を揺らす音だけが静寂の中にあって尚、痛い程に響く。
どれくらいそうしていただろうか。
沈黙にそろそろ耐えかねた頃、翠さんが徐に口を開いた。
「わかります、その気持ち。私も……そうでしたから」
「翠さんも?」
「はい。目覚めて何も覚えていないことを自覚した時。どれだけ、絶望したことでしょうか」
「あ……」
……浅はかにも程がある。
どうして、こうも想像力が働かないのか。
翠さんは俺なんかよりも、遥かに過酷な現状で、自身が何者なのかも思い出せていないというのに。
「グラナさん? どうしたんです? 頭を抱えて」
「いえ……自分の空気の読めなさに絶望しただけです……」
「そ、そんなに深刻に取らないでください!? こうなってみて良かったと思ってることもあるんですから」
「……? 良かったこと?」
記憶というその人にとって唯一無二で大切なものを失ってなお、そう言い切れる根拠はなんなのだろう?
俺の問い返しに翠さんは薄ら頬を染めながら、何かを搾り出すように続けた。
「確かに不便なこともありました。いえ、不便なことだらけでした。自分の名前もわからない。今までどんな風に生きてきたのかも思い出せない。どこの生まれで、誰がわたしを覚えているのか、知っている人はいるのか? 目覚めてからしばらくは何度も不安と絶望に押し潰されそうになって——」
そこで言葉を区切り翠さんは深く息を吸い込んだ。心理的外傷を吐き出そうとしているんだ。過ぎたこととはいえ、当時の心境を思い返すという心理的負担は、決して軽くはないはず。
こんな俺に出来ることといえば……そっと寄り添い背中をさすることくらいしか。
「大丈夫ですか? そんなに辛いなら無理に言わなくても」
「気遣ってくれてありがとう。でも……言わせてください。絶望の淵に手を伸ばして、私を引き上げてくださったのは他の誰でもない、グラナさんとシエラさんだから」
「……俺とシエラが?」
意外にも程がある翠さんが恩義を感じていた当事者。面と面を向かってそれは俺だと告げられて、困惑した。
だって俺にとっては、たとえ記憶を失っていたとしても師匠は師匠だから。
助けないなんて選択肢は最初から無いのに。
「ええ。どれだけ礼を尽くしても、足りません。それに」
「それに?」
「記憶が無くても、思い出せなくてもグラナさんとは初対面では無い——。そんな気がするんです」
「……。え?」
虚を突くように告げられたその一言に、俺は目を見張った。翠さんは……いや、師匠の記憶は完全には失われていない。そんな可能性がまだ残されていたなんて、都合がいいにも程があるのに。
「ごめんなさい。急に変なこと言い出してしまって。……やっぱり、変ですよね? 会ったことも無いのに、初めて会った気がしないなんて」
「いえ……そういうこともあるんじゃないでしょうか?」
「あはは……そう言ってもらえると、少し気が楽になりました」
ずっと抱えていた肩の荷が降りたのだろう。翠さんは屈託の無い微笑みを浮かべている。月明かりの下、その笑顔はとても眩しくて。
だから、俺は切り出せなかった。
翠さんが忘れているという記憶は、師匠のものなのか。それとも……師匠の肉体に宿っていた別人格、ヴェンテッラのものなのかを。
確かめた瞬間に淡い可能性が消えてしまうような気がして、確かめたい衝動を必死に抑えることしか出来なかった。




