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旧約 マグノリアの連換術師  作者: 大宮 葉月
4章 草原を覆う大国の陰
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十一話 三十年は川の東、三十年は川の西

 遊牧民の集落が襲撃されて命からがら逃げ出してから一週間ほどが経過した。

 その間、俺がしていたことといえば特になにもしていない。

 いや、正確に伝えるなら《《何もしないことを命じられていた》》、といったところだろうか。


 老師曰く、俺の体には悪い気が全身に溜まっているらしい。まずはこの気を綺麗にしないことには次の治療段階、すなわち連換術が使えなくなった原因を取り除けないようだ。


 その為に老師が口を酸っぱくして厳命したことは、とにかく何もしないこと。

 衰えた体力をすぐに戻そうと負荷の高い鍛錬を行うのではなく、栄養満点の三食の食事を欠かさずにして、十分な睡眠時間を取ることだった。

 流石にそれだけでは息が詰まりそうだったので、庵の周囲を散策するくらいの許可はなんとかもぎ取ったけど。

 

「……釣れないな」


 そんなわけで、庵の物置で埃をかぶっていた釣竿を拝借し、さほど距離は離れていない渓流で釣りなど始めてみたわけだが、全くといって魚がかかる気配はない。


 もっとも本気で釣るつもりなら針の先に餌を通したり、もっと魚がいそうな場所に移動する必要があるのはわかってる。

 けれど、あえてそんなこともせず、ただ針を水中に垂らしているだけなのだから、そもそも釣る気あるのか? と問われれば否としか言えない。

 じゃあ、なんでこんな無駄なことをしているのか?

 それに答えられたら苦労はしない。

 つまるところ、暇を持て余しているのが今の俺の現状だった。


 瀕死の状況で聖地から大陸の東に運ばれ、なんとか目覚めた後も束の間の休息と療養を施してくれた集落は思わぬ事態で壊滅。

 けっきょくなし崩しのまま、今は山奥に連れてこられてこうやって養生という名目の、不自由さからは逃れられない有様。

 何をやっているのか……俺は、とがっくり肩を落としていると「釣れますか」と柔らかい声がした。


「翠さん? なんでここが」

「最近グラナさんが釣りを始められたとお聞きしまして、私もご一緒させていただいていいですか?」

「翠さんも釣りを?」

「老師の見様見真似ですけどね。一応自前の釣竿も持ってますよ」


 ほら、と背中に背負っていた長い筒袋から取り出されたのは確かに釣竿だった。

 切り出された竹を細くしなるように加工されていて、それでいて長すぎず釣りに不慣れな女性でも扱いやすい造りになっていた。

 

「さーて、それでは……えい」


 大きく振りかぶって振り下ろされた釣竿から巻かれていた糸と針が勢いよく飛んでいく。ぽちゃんと水面に沈んだウキがゆっくりと水面に浮かんできた。

 釣りなんて遥か昔にミルツァ村の近くの川で少しかじった程度ではあるが、翠さんの無駄の無い動作に思わず見惚れてしまった。


「よーし、結構いいところに仕掛けられたかな? それじゃお隣、失礼しますね」

「あ……どうぞ」


 よっこいしょと、俺の隣に腰を降ろした翠さんは、どぎまぎする俺の様子にも気づかずのんびりと釣り竿をくんくんと小刻みに動かしている。

 風に揺れる木々と時折吹き抜ける気持ちのよい山風に身を任せ、絶えず流れる清涼な小川でこんな風にのんびりと翠さんと釣りをする——

 少し前までは考えられなかった穏やかな光景に、どこまでが現実でどこまでは夢なのか境界が曖昧になっていくような……そんな気さえするようだった。


「うーん、やっぱり釣れないかなー?」

「? この川では釣れないんですか?」


 川で魚が釣れない……俄には考えられないことだが、ここは仙人がかって住んでいた山……らしい。何が起きてもおかしくは無いとは思うが、川に魚がいないというのは正直今まで聞いたことがない。

 

「釣れないのではなく、釣りを極めた者でないと釣れないと老師が仰ってました。なんでもその昔、とても釣りが上手い道士の偉人がいたらしくて、その方はどんな川で釣竿を振るっても必ず魚を吊り上げたという伝説があるのだと。それぐらいの腕前の方でないとたぶん釣れないんじゃないかな? と」

「なんか……信じがたいけど。なんていう名前の方なんですか?」

「太公望と呼ばれていたと老師からお聞きしました。釣りだけでなく軍師としても活躍されたとか」

「へぇー。釣りも上手くて頭も切れる……そりゃ凄い人がいたんですね」


 ぷかぷかと穏やかな水面に浮かぶウキを眺めながら、そんなたわいもないことを翠さんと時間を忘れてお喋りに花が咲く。

 彼女は本当に物知りで、清栄に伝わる仙人達の御伽話から最近この国で何が起きたかまで、簡潔にわかりやすく教えてくれた。

 裏も表もないただ純粋に楽しい会話。こうやって言葉を交わす度に、やはり翠さんと師匠は同じであって違うんだな……と、突きつけられる現実に否が応でも認めざるを得ない。


 ——ここに師匠はいないということを。


「グラナさん?」

「え……すいませんぼーっとしてました」

「そうじゃなくて、竿引いてますよ?」

「へ? あ、本当……だ!? おおおおおおお!?」


 物思いに耽っていたらいつのまにか握っていた竿の先が大きくしなっている。

 慌てて立ち上がり、かかった獲物を引き上げようとするもあり得ない過重に竿の先が折れんばかりにひん曲がっていた。

 

「なんだなんだ!? 一体、何が掛かったんだよ!?」

「私も支えます! 腰、しっかり抑えますね!」


 あらぶる竿とはち切れそうなほどピンと伸びた糸の先。

 波立つ水面下には魚ではなく蛇?? と見紛う大きな影がのたうつように尾をばたつかせていた。

 渓流のヌシでもひっかけた……のか? と思いつつ懸命に竿を引いては時折ゆるめてとにかく獲物を疲労させることに全神経を集中させる。

 糸が切れるのが先か、それとも俺の体力が尽きるのが先か。

 獲物が引く膂力にじりじりと川岸に引きづられないように懸命に両足を踏ん張る。

 そろそろ握力限界……と観念して竿を手放そうとした瞬間、竿が嘘のように軽くなった。


 引き上げるなら今しかない——

 無言で翠さんと頷きあい、二人で竿を握って渾身の力で引き上げる。


「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 

 腹から気合いと共に大声を出しながら確かな手応えと一緒に、大きな魚影? が水面を突き破り飛び上がる。

 勢い余って河岸に叩きつけられたその正体に、空いた口が塞がらなかった。


「……これって」

「蛇? なのか?」


 驚くのも無理はない。

 魚を釣り上げたと思いきや、その姿は魚と形容するにはだいぶ……いやかなり疑問符がつく形状。

 頭部と思しき箇所からは鹿よりも立派な角が生え、大きな口にはなんでも噛み砕きそうな鋭利な歯がびっしりと生え揃っている。

 特筆すべきはその全長。

 おそらく大の大人が十人くらい手を繋いでやっと同等の長さと、皮膚を覆う色鮮やかな鱗が全身を覆い、まるで宝石のようにきらきらと光を反射していた。

 今まで全く見たことも聞いたこともない摩訶不思議な生物であることは確かだった。


「なんだよ……これ? 蛇なのか? それとも巨大ウナギなのか? 巨大ナマズなのか?」

「いえ……信じがたいことですけど、これは龍……としか思えません」

「龍? ってなんです?」

 

 聞き慣れないその響きはどこか神聖さすら醸し出しているかのようだった。

 俺の問いに、翠さんはピクリとも動かないそいつから目を離さず口を開いた。


「清栄に古くから伝わる四神の一柱です。東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武……。古来より天の四方を司り大陸の四季……春夏秋冬を司る聖獣であると書物で知りました。その内の一柱、青龍は蛇の長い体躯に全身を覆う麗しい鱗を持ち、雄々しい角と、畏怖を植え付ける鋭利な歯を覗かせる口から発せられる唸り声は、雷雲と嵐を引き起こすのだと」

「雷雲と嵐……ん? あれ?」


 なんだろう? 神様の解説なのに何故かは知らないが馴染みがあるような……?

 確か、俺が得意とする東方体術、それもリャンさんから叩き込まれた四象の型がずばり、その四神の名と同じだった気がするのだが。


 もしかして、あの型は神の力を借りるため……というのが本来の使い方なのだろうか。


「っと、今はそんなことどうでもいいか。それよりどうします? 川に戻しましょうか?」

「いえ、この龍さん、どうやら弱ってるみたいです。呼吸が荒いし、それに全身酷い傷だらけです。連れ帰って老師に診てもらわないと」

「え……こんな重そうなのどうやって?」


 連れ帰ればいいのか? と思考を巡らせていると、龍がゆっくりと目を開ける。

 ギョロリと鋭い眼光と鎌首を持ち上げて、地面に爪を立てた。

 もしかして襲いかかってくる!? と咄嗟に構えるが、直後聞こえてきたその一言に呆気に取られた。


『……腹が……減った』

「は? ……腹?」

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