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A Thorny Path  作者: 祇光瞭咲
第9章 罪の行方
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9-25 苦い珈琲

「攻撃を受けている?」


 ウォルター・キースリングは荷造りの手を止めて片眉を上げた。書斎机の向こうでは、警備兵のライネリオが直立不動の姿勢を取っている。


「はっ。施設の周囲六方向で爆発が起きました。この爆発による被害はありませんが、宿舎棟の複数個所から侵入されています。警備兵が応戦中です」

「なぜそこまで接近される前に気付かなかったのかね?」


 ウォルターは若干不機嫌であった。ベッドに潜り込んだ直後に轟音が響き、警備兵が部屋に押し掛けて避難を急いてきたからである。彼は研究以外の事柄で睡眠を妨げられることが何より嫌いであった。

 同じく叩き起こされたソドムク博士が言う。


「日没直後だったか、スーバールの修行僧たちを見た。これまでになく大勢で、いつもより建物の近くを通っていたように思う。あれが何か関係しているのか?」

「お見込みの通りかと存じます。おそらく、その行列に紛れて地面に爆発物を仕掛け、先刻起爆させたのでしょう。修行僧だからと油断して見過ごした、我々の失態です」

「君たちの失態であることは疑うまでもないが。お陰で眠りを妨げられたよ。君たちは我々研究職が安眠できるために雇われているんだ。惰眠を貪ることを許した覚えはない」

「申し訳ございません」


 直角以上に頭を下げたライネリオに、キースリングは目もくれない。淡々とトランクに荷物を詰め込んでいる。


「それで、爆発に驚いていたらまんまと侵入されたというわけか」

「はっ。我々警備兵はまず研究棟の守りに向かいました。その隙に――」

「どうしようもないな」


 ソドムクが庇うように言う。


「そう言ってやるな、ウォルター。彼らは研究成果を守るというファーストオーダーに従っただけだ。最善を尽くそうとした結果なのだから」

「最善を尽くした結果がこれということは、そもそもの実力が伴っていないということではないかね? 訓練内容をもっと見直したまえ、ライネリオ警備長。次回から施設の半径一キロ圏内に入った者は、僧侶であろうと射殺して構わん」

「それは――」


 ライネリオが言い淀む。キースリングは冷ややかな視線を浴びせた。


「で、敵の規模もわからないと?」

「捕捉できておりません。なにしろ爆発で舞い上がった砂塵が煙幕に――」

「ああ。言い訳は無能さを曝け出すことにしかならん。私に申し開きするのではなく、次回の改善に役立てたまえ」


 警備長は黙って頭を下げた。


「ライネリオ警備長、ヘリコプターは無事だろうね?」

「無事を確認しております」

「素晴らしい。このままここで足止めを食うわけにはいかないからな。メルジューヌを呼んできてくれ。私たちは先にパリに向かう」

「直ちに。メルジューヌ嬢は雲斌に格納庫へお連れさせます」


 ライネリオ警備長は駆け足で出て行った。


「私はキルイに知らせてこよう。研究資料が外部の者の手に渡るのも避けなければ」


 ソドムクは警備長の背に労いの視線を投げながら立ち上がった。ちらりとキースリングを振り返ると、彼は慌てることなく上着にブラシを掛けている。


「そうだな。キルイに博覧会に必要な物品を纏めて持ってくるよう伝えてくれ」

「誰かここに残った方が良くないか?」

「そうかな? そうかもしれない」

「……では、私が残ろう。いざという時に判断する人間が必要だろうから」

「うん。任せるよ、ソドムク。君ならば安心だ」


 ソドムクは上着に向かって掛けられた言葉に眉を潜めたが、それに関して何か言うことは無かった。


「間に合えば私も格納庫に向かう」

「わかった。急ぐといい」


 ソドムクも部屋を出て行った。


 ウォルター・キースリングは丁寧に荷造りを続けた。急いだところで格納庫の前で待たされるに決まっている。彼は衣類に砂が付くのを良しとしなかった。

 彼はこの襲撃を重く見てはいなかった。

 犯人はわかっている――タチアナ・ノヴェルとその一行だ。彼女がインマヌエル以外の仲間を連れているところは見なかったが、いつだって仲良しこよしの彼らのことだ。どうせ冬眠する虫みたいに集まってきたのだろう。


 キースリングは一人でニンマリと笑みを浮かべた。

 可愛いタチアナ。

 彼女ほど魅力的で、母性に満ち、そして性根の捻じ曲がった女を他に知らない。


 キースリングがメルジューヌに話したことは本当だ。タチアナは彼のお気に入りだった。未だに彼女以上に彼を満足させる女性には出会えていない。

 初めてタチアナ・ノヴェルに会った時は驚いたものだ。旧友であるフリードリヒ・ダニークが恋人だと紹介してくれた。彼がタチアナに抱いた第一印象は大変失礼なものだった。


 家柄に容姿に才能に財産。何もかもを持ち合わせたフリードリヒの相手が『コレ』か? 


 親交を深めるうちに理解した。彼女は天性の魔性を身に付けている。彼女の素朴さ、あざといほどに隙だらけな仕草振る舞い、鋭い知性。遊び慣れた男ほど引っ掛かる!

 彼女の「意外性」に気付いた男はこう思うのだ――「彼女の隠された一面を知っているのは自分だけだ。俺こそが秘められた宝石を見出したのだ」、と。


 ところが、タチアナは決して言い寄ってきた男に媚びはしない。精々笑顔を見せ、親しげに感謝を述べる程度のものだ。男は思う――「なんでこの女は落ちないんだ? こんなに地味な女が。大して男に言い寄られたことも無い癖に!」――そして、気が付けば手の平の上。男の独占欲と逃げるモノを追い掛けたくなる習性を交互に刺激し続ける内に、獲物は彼女の虜になっている。

 彼女は決して万人に受ける女ではない。その代わり、ある限られた男たちを救い難いほど強力に魅了してしまうのだ。例えば、あの哀れなダニーク兄弟のように。


 しかし、とウォルターはほくそ笑む。

 そのタチアナですら、彼の魔の手からは逃れられない。より強力な魔性を持った者が勝者となるのだ。

どんなに反発し、罵っても、タチアナは未だウォルター・キースリングの影を追っている。彼女が反発すればするほど、彼の腹の奥底に潜む欲望が悦びに震えるのだった。



***


「タチアナ、よかったら珈琲を一杯飲んで行かないか」


 昨日、研究所へ送り届けられたあとのこと。

 書斎で一息吐いたキースリングは彼女に声を掛けた。タチアナは一瞬の躊躇いを見せる。彼は返答を待たず二人分の用意を始めた。


「君に珈琲を淹れるなんて久しぶりだな。まだ味は覚えているかい? 豆はずっと変えていないよ」


 タチアナは緊張した様子で椅子に腰を下ろした。

 湯気と共に深い香りが立ち昇った。マグカップを両手で包み、眼鏡を曇らせながら珈琲を吹き冷ます。十数年前と変わらぬ仕草を見せるタチアナに、キースリングは微笑んだ。


「子供っぽい飲み方も相変わらずだ。私は君が珈琲を飲むのを見るのが好きだったよ。なんだか可愛らしくてね」


 先刻まで他人の脳みそを弄り回していた女が。かつてはそんな皮肉を込めていたのだが、彼女はそんな真意を知らずに頬を染めた。


「昔話は魔物だよ。何時間だってボクらの時間を食べるんだから」

「そうだな。では、残念だがお預けだ――タチアナ、メルジューヌについての君の所感を聞かせてもらえないか?」


 甘美な時間は珈琲三口で終わってしまった。

 タチアナは居住まいを正し、医者の顔付きになって答えた。


「彼女には典型的な精神疾患の兆候は見られなかったよ。好意を寄せる相手への強い執着を除けば、だけど。あくまで疾患と診断するのは『日常生活に支障を来すかどうか』が基準になるよね。その意味でメルジューヌちゃんには何も問題が無いと思う」


 ウォルターは然程意外に思わなかった。


「そうか。それはよかった」

「ただ、その……」


 タチアナは言い淀む。


「彼女は感情の発達が未熟なまま止まってしまっているね」

「それはどういう?」

「喜怒哀楽で言えば、『喜』と『楽』しかない。怒りや悲しみが欠落しているんだ。表面上は一般的な人が抱くのと同じように怒ったり悲しんだりして見せるけれど、おそらく本心では何も感じていないのだと思う――いや、ひょっとすると本当は喜びや楽しみすらもないのかも。他人を模倣することで、そう感じていると本人が『思い込もうとしている』だけなのかもしれない」


 キースリングは彼女を見つめた。内心舌を巻いている。


「……なるほど」

「驚かないんだね」


 タチアナが顔を顰める。


「もしかして、それを確かめたくてボクに見せたの?」

「ああ」


 キースリングは澄まし顔で珈琲を啜り続けた。ふと目を上げると、翡翠の瞳が説明するよう訴えている。彼はカップに口を付けたまま皮肉な笑みを浮かべた。


「鋭いな、タチアナ。だからこそ私は君が好きなんだ」

「はぐらかさないで。教えてほしいな、ウォルター」

「いいとも――あの子は君の言う通り、『ある人物』の感情表出を正確に模倣している。あの子が生まれた時から徹底的に管理、教育し、『オリジナル』と全く同じように考えたり感じたりするように作り上げたのだ。完全な複製とはいかなかったが、複雑な感情を持ち合わせないために極めて簡略化された波形を示す。オリジナルの欠点であった鬱状態によるエラーも無い。彼女は複製でありながら、オリジナルを超える優秀な個体へと成長した」


 タチアナが目を見開く。


「何を言ってるの……?」

「支配システムには発信者となる者の脳波を正確に記録する必要がある。それを基に発信する電気信号を構築するのだからね。しかし、発信者が人間である限り病気も死も避けられ得ない――そのために私は、早い段階から『彼女』の複製を用意しておくことを決めたのだ」


 キースリングはうっとりと唇を拭った。目はタチアナから逸らさない。

 ネタ晴らし。彼はこの瞬間が好きだった。真実を知って驚愕する人間の顔、それは彼の成果と能力を称賛しているのと同じことだからだ。


「MXXー〇二は他人の肉体を用いて作られたメルジューヌ・リジュニャンの正確な複製だ。本当は肉体も遺伝子から完璧な複製を造ることが望ましいが、生憎まだそこまでには至っていなくてね。仕方なく、自然的な方法の中で最もオリジナルに近付けられる肉体を用意した」

「待って、それってつまり――」

「――オリジナルと同じ両親から産ませたんだよ」


 タチアナはあまりの悍ましさに口を覆った。


「なんてことを……! ウォルター、君はどれだけ他人の人生を踏み躙れば気が済むの? 親の人生も、生まれた子供の人生も、命の誕生そのものまでも思うままにしようっていうんだね。烏滸がましいと思わない? そんな倫理道徳に反したこと――」

「――君が倫理なんて説ける立場か?」

「……っ」


 怒りを顔に浮かべて詰め寄るタチアナ。その細い腕を掴み、キースリングは鋭い眼差しと共に引き寄せた。近付いた二人の距離が、キースリングの冷たく尖った言葉が、彼女の胸を貫いた。


「足を洗ったからって犯した罪を無かったことにするのはいけないね、タチアナ。君は一八四一〇になんて説明したのかな? どんな顔で彼を愛玩し続けたんだ? きちんと本当のことを言ったのかね?」


 タチアナは苦々しく唇を噛む。


「話したよ、ウォルター。彼の身に起こったことはすべて伝えた」

「本当かい? ずる賢い偽善者の君のことだ、上手く同情を引くような話をでっち上げ、すべて私の言いなりだったとでも言ったのだろう。本当は君自身があの男の体を弄り回していた癖に」

「やめて。彼は過去を取り戻し、その上でボクを許してくれたんだ。だからボクはもう――」


 掴まれた手を振り払おうとタチアナが腕を引く。キースリングは彼女に抵抗を許さず、一層強い力で握り締めた。


「許した、だって? 本当かい、タチアナ? 一八四一〇の口から『許す』という言葉が出たのかな? ん?」


 タチアナが一瞬狼狽える。彼はニンマリと残忍な笑みを浮かべた。


「ほら、やはりだ。仲間たちにも無かったことにするよう『誘導した』だけなのだろう? 君は本当に口が上手いから……君も所詮は私と同じだ。今でも他人に思い通り言うことをきかせて悦んでいる」


 キースリングは突然彼女の体を抱き寄せ、強張る唇に至極優しいキスをした。驚愕で見開かれた瞳に甘く囁く。


「事実は不滅だ。罪は決して消えない。私を殺したいかね、タチアナ? 君の罪を知る私を――」


 そして、今度は荒々しく貪るようなキスを。抵抗する唇を抉じ開け、諦めた翡翠色が瞼の下に隠れる様を見下ろして。だが、タチアナは情欲に抗い、彼を突き飛ばして拒絶した。


「……もうその手には乗らないよ。ボクは過去を清算すると決めたんだもの」


 彼は口元を拭いながらせせら笑った。


「清算なんてできないと言っているだろう。わからない子だね、タチアナ。犯した罪に対してできることは『昇華』だけだ。不道徳な行いを重ねても、その結果何も残らなければ、それは単なる罪でしかない。しかし、それが大衆に幸福をもたらす成果を出せた時、君の罪は必要な行為だったと世界から肯定されるのだ」


 キースリングは秘書を呼び、タチアナを町まで送り届けるよう指示を出した。忌々しくこちらを睨む彼女に対し、彼はいつまでも不敵な笑みで囁き続けた。


「忘れてはいけないよ、タチアナ――君の罪を昇華できるのは私だけだ。私の力によってのみ、君の罪は昇華されて肯定される。私だけだ。私だけが君を救えるのだ……」


 さて。彼女はどうするだろうか。

 ウォルター・キースリングはほくそ笑んでいる。

 この襲撃は彼女の返答に他ならない。

 例え暴力的な手段で襲い掛かってきたとしても、それが必ずしも「ノー」の返事とは限らないことを、彼は心得ていた。



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