9-22 名付け親
エアロンはその日もデイルに散々「覗かないでよね、変態」と念を押し、服を脱いでシャワーブースへ入った。それまでのデイルは心を無にしてやり過ごしていたが、このところ慣れたおかげか「覗きませんよ」とか「早く入れ」とか「見たくもない」と気さくな返事を返してくれるようになっていた。
日中の太陽熱で温めた水は到底お湯と呼ぶに相応しくなく、辛うじて冷たくはない水が心許ない量滴ってくる程度である。どうやら砂漠にいるらしいので水浴びができるだけ有難いが、勢いの悪いシャワーほど嫌なものは他にない、とエアロンは考えていた。
流水を裸体に浴びながら、チラリと脱衣所の方を振り返る。デイルが覗いていないことを確かめると、音を立てないよう細心の注意を払って換気口のカバーを外しにかかった。
メルジューヌが彼の部屋を訪れてから、入浴はこれで二回目だ。一度目は何も入っていなかった。しかし、今日は――折り畳まれたメモ用紙が入っていた。
『悪魔が迎えに来ている』
きっと他人がそれを見ても何のことだかわからないだろう。だが、エアロンには理解できた。
――アラストルが助けに来たのだ。
希望と言うにはまだ早過ぎたが、彼にも抵抗する意欲が湧いて来た。
エアロンはその紙を二つに裂いてから元のように戻した。
***
その翌日、検査は今までと様相を異にしていた。
処置室に連れて行かれる前に、例の会議室に通された。警備兵の数は極端に増えている。両側にデイルとスティーブンが立ち、エアロンは椅子に座るよう命じられた。彼らの後からさらに数人が入室し――そして、その男が目の前に立った。
見たことのある男だ。確か、劇場で〈アヒブドゥニア〉号の船長を誘拐する一団の中にいたはずだ。
男はシャツのボタンを一番上まで留め、アイロンの掛かった白衣を纏っている。顔立ちも悪くない。彼は優雅な身のこなしで向かいの机に腰掛けた。
「やあ。私がウォルター・キースリングだ」
エアロンはピクリと眉を上げた。
「……やっと黒幕のお出ましか」
「待たせてすまなかったね。パリでの用事が長引いてしまって」
キースリングはじっとエアロンに視線を注ぎ、片手で秘書に合図した。暗褐色の肌をした美しい女性が進み出る。彼は受け取った資料に目を通し、再びエアロンに向き直った。
「――大きくなったね。見違えるようだ」
「なんだって?」
慈愛に満ちた笑み。予想外の表情を向けられてエアロンは警戒した。
「君のことはよく覚えている。手足の長い子だと思っていたが、こんなに背が高くなるとは。ふむ。瞳の色は変わらないな」
「……何、あんた。親戚の叔父さんごっこでも始めたの?」
キースリングはムッと口角を下げた。
「礼儀は忘れてしまったのか? きちんと躾たはずなのだが」
「誰かと勘違いしているのかな? デイル、この人を休ませてあげてよ。研究のやりすぎで頭がおじいちゃんになっちゃったみたいだ」
急に話を振られたデイルは慌ててエアロンを小突いた。明らかに顔が動揺している。
キースリングは愉快そうに笑っただけだった。
「勘違いしているのは君の方だね、エアロン。悲しいじゃないか――私を忘れてくれるなんて。あんなに『先生、先生』と可愛らしい声で呼んでくれていたのに」
エアロンはいよいよ顔を顰めた。
この男は何を言っているんだ?
男の口ぶりから察するに、うんと幼い頃の話だろうが、ストリートチルドレンだった彼に『先生』と呼ぶような知人はいなかったはずだ。それなら、かつての取引相手――いや、まさか。彼の客は全員とうの昔に誰かの夕飯になっている。
「思い出せないか」
キースリングは僅かに首を傾げた。
「君は薄情な子だ、エアロン――名付け親の私を忘れてしまうなんて」
耳を疑った。
「……名付け親?」
「そうとも。ああ、今もその名前を使ってくれているのは嬉しいよ。君には嫌われてしまったと思っていたからね。それに、もう死んでいるだろうと思い込んでいた」
名付け親だなんて。
そんな馬鹿な話があるはずがない。
エアロンは天涯孤独の身なのだ。路上で目が覚めたその瞬間から、たった独りで稼ぎ、食べ、身を守ってきた。あの日アラストルに拾われるまで、〈ファントム〉と呼ばれた虚構の存在と共に生き延びていた。
では、エアロンという名前はどこから来たのか。
――そういえば彼は覚えていない。
「ははは、そんな顔をするんじゃない」
キースリングは笑っている。
「もっとも、赤ん坊の名前辞典で前の方に載っていた名前を適当に拝借しただけなんだがね。君が気に入っているならよかった、よかった」
「……ふざけないで。あんた、さっきから何を言っているんだ? 僕をからかって遊びたいわけ?」
「おやおや。短気なところは相変わらずか」
「喧嘩も売りたいんだ? 見かけによらず血気盛んなおじさんだね。いいよ、買ってあげるから、とりあえず一発殴らせてくれない?」
左右の警備兵がエアロンの肩に手を置いて牽制する。
キースリングはやれやれと首を振り、立ち上がって彼に近付いた。手にした資料を掲げて見せる。
『実験記録――験体名:エアロン』
背格好についての簡単な記録が記された一枚目。歳を重ねるごとにその数値は更新されている。それは四歳から六、七歳くらいまでの少年についての古い記録だった。最上部には四角い空欄があり、糊付けされていた跡だけが残されている。
「……ふうん? これが僕だって? 手の込んだエイプリルフールじゃないか。あんたはカレンダーも読めないの?」
「そうだな。やはり写真が無いと……ここに貼られていたものは誰かが勝手に剥がして持ち去ってしまってね。私も困っているんだが」
キースリングはそう言ってページを捲り始める。
「ああ、これがいい。顔がよく映っている」
じわり、じわりと焦燥が滲む。
体を強張らせたエアロンの眼前に、キースリングは別の写真を突き付けた。
若き日のウォルター・キースリング、その他研究員数名。中にはソドムクと思わしき男の姿もある。彼らの中央に立っているのは少年だ。痩せてスラリと手足の長い、沈んだ顔の少年――そこに宿る面影を、彼は度々目にしていた。
猫のような山型の瞳。毎日のように顔を合わせていたじゃないか。
鏡の中で。
「――嘘だ」
「嘘ではないよ」
「僕は信じない。わざわざ写真まででっちあげて――」
「頑なだね、エアロン。案外可愛い反応を見せるじゃあないか」
「黙れ。そんな話信じない。だって、僕は……」
動揺で思考が纏まらない。心臓が早鐘のように鳴っていた。耳鳴りもし始め、混乱が心を支配していく。
ゆっくりと見開いていく鉛色の瞳。その中に宿り始めた猜疑と恐怖。
ウォルター・キースリングはさも愉快そうにそれを見ていた。青年の顔が怒りから憎悪へ、そして驚愕へ変わり、最後は絶望へと墜ちていく様を。舐る(ねぶる)ように、嘲るように、味わっていた。
「良いモノを見せてもらったよ、エアロン。無慈悲な真実を突き付けられた時の人間の顔は実に面白い。だが、私にとっては君が信じようと信じまいと関係無いのだ。我々が唯一関心を抱いているもの――それは、君の体に埋め込まれた『発信器』だけだからね」
「発信……器……?」
愕然と見つめるエアロンに博士は説明を続けた。
「君の体をあらゆる手で調べ尽くした結果、君の体内から二十年ほど前に我々が発明した発信器を発見した。いくらか破損はしているが、まあ再起動できないこともない状態だ。我々の電磁波装置が君に害を及ぼさなかった原因はこれだと推測できる」
「な、何? ちょっと待って、何の話……?」
「――メカニズムの解明には具体的な試験を重ねなければならないが、おおよその検討はついている。おそらく、装置が発する電磁波によって、君の体内で発信機能が誘発されたのだ。そして、装置が発する電磁波とちょうど反対の波を作り出した――電磁波は真逆の波を与えることで打ち消し合うことができることは教わっただろう?」
説明を続けるうちに、ウォルター・キースリングの目は興奮に満ちていった。好奇心が目の中で煌めいている。
「君の中に残された装置は人工的なものだ。しかし、それが自衛作用を起こしたとは、もはや『本能』と呼んでもおかしくないね? まさに奇跡とも言うべき出来事が、君の体内で起こっていたのだよ、エアロン!」
キースリングは座るエアロンの背後に回り、その耳元に囁いた。
「もう二度と会えないと思っていたのに、君の中に眠る装置が私たちを再び引き合わせてくれた。これも奇跡と言うに相応しい――おかえり、エアロン。私の可愛いモルモット」
ゾワリとうなじが沸き立つと同時に、本物の本能が彼を抵抗に掻き立てた。エアロンは咄嗟に頭突きを食らわせようと頭を振った。それも予期していたのか、キースリングは笑いながら身を躱す。
「ふざけるな! そんな出鱈目信じると思うか! キースリング、この……っ!」
デイルがエアロンの体を押さえ付ける。抵抗してもがいている内に、スティーブンが彼の首に注射器を突き刺した。
暗転する視界。
にんまりと笑うキースリングの顔を見ながら、前にもこんなことがあったのかもしれないと、無意識が記憶を辿り始めていた。




