9-12 蜘蛛の巣
同じ頃、タチアナ・ノヴェルとアラストルも同じ話を聞いていた。
彼らはパリ市内にある会員制サロンの個室にいる。二人を呼び出したのは天才科学者ウォルター・キースリング、その人だ。三人はスズラン型のランプシェードから零れ落ちる淡い光に照らされ、重厚なソファーに向き合っていた。
「――以上が私が現在携わっているプロジェクトのすべてだよ。実に興味深いと思わないか?」
ウォルター・キースリングは僅かに首を傾げてタチアナを見つめた。
懐かしい仕草とその表情。微かに細めた目元と、右だけ高く上がった唇。薄く甘い笑みは見る者を虜にし、タチアナにかつての恋心を思い出させた。
十数年ぶりの再会だ。互いに歳を取った。
タチアナの容姿はあまり変わっていないように見えるけれど、肌の艶は失われつつあるし、首や指先は痩せて骨が目立つようになった。
一方のウォルターはどうだろう。学生の頃から白皙の美青年と名高かった彼は、今も変わらず魅力的なまま。元々薄かった髪や眉の色は白髪によってさらに目立たなくなり、代わりに増えた目元の皺が過ぎ去た日々を物語る。彼を美青年たらしめる独特の雰囲気は健在だ。むしろ、歳を重ねた奥深さが彼の神秘性を増している。
ぞくり。全身が粟立った。
タチアナは彼の眼差しから逃れるように顔を背け、自分を奮い立たせて言った。
「興味深いかもしれないけれどね、ウォルター。感心はできないな」
強硬な姿勢を見せる彼女にキースリングは一層笑みを深めた。
「求めているのは知的好奇心だけだ。感心も共感もなくていい」
「それで、またボクを仲間に取り込もうって言うの?」
「手を貸して欲しいんだ、タチアナ。かつて君は私のもとを去ってしまったが、世界中いくら探しても君のように優秀な研究者は見つからなかった。この二大プロジェクトにおいて、私は今壁に直面している。私を助けられるのは君しかいない」
ウォルターは穏やかに訴える。
落ち着いた耳障りのいい声。彼が彼女の名前を呼ぶたびに、忘れていた興奮が蘇るようだった。
だめだ。会うべきではなかった――タチアナは後悔する。
自分は未だにウォルターの魔力を跳ね除けることができない。
「……ボクはもう、他人を傷付ける研究はしたくない」
辛うじて言い放った言葉。
ウォルター・キースリングはその裏にある迷いを見逃さない。
「もちろんだ。君のような心優しい女性にそんなことは求めないよ。かつて君を深く傷付けてしまった自分を心の底から後悔しているからね」
「それなら何だって言うの?」
「ある女の子を救ってほしい。知的で優しい君だからこそ頼めることだ」
「――聞くな、タチアナ」
アラストルが強い口調で遮った。
それまで一言も発することなく、キースリングにもいないものとして扱われていたアラストルだったが、ついに彼も口を開いた。腕を組んでキースリングを睨んでいる。キースリングも負けじと睨み返した。
「招いたのは彼女だけだったはずだがね。タチアナがどうしてもと言うから同席を認めたのだ。私と彼女の話し合いに口を出さないでもらいたい」
「黙れ、マッドサイエンティスト。そうしてまたこいつを都合よく利用しようってのか」
「君は相変わらず口が悪いな。ええと確か――インマヌエル?」
アラストルの眉がピクリと動く。キースリングはにんまりと口角を引き上げた。
「フリードリヒの弟だね? 兄の婚約者を追い掛け回していると、よくラボで噂になっていたから覚えているよ」
「ウォルター!」
タチアナが止めようとするが、彼は意地悪く続けた。
「フリードリヒのことは残念だった。私が親友と呼べる数少ない者の一人だったのに」
「……えっ?」
「君は聞いていないのか? フリードリヒは死んだよ。ところで、インマヌエル――兄上を絞め殺した感触はどうだった?」
タチアナは目を見開いた。呆然とアラストルを振り返る。彼は無言でキースリングを睨み続けていた。
「アラ、ストル……本当? フリードリヒを殺したの……?」
アラストルは答えない。キースリングは穏やかに微笑んだ。
「さて、タチアナ。時間が押しているから話を続けさせてもらうよ。先程説明したシステム開発プロジェクトで、発信側の被験者をしている少女がいる。丁重に扱っているつもりだが、若い娘のことは私にはさっぱりでね……思春期を迎えた辺りから不安定になっているように見えるんだ。是非君に彼女の傍に立って支えてあげてほしい」
タチアナはまだ衝撃を引き摺っていたが、頭を振って向き直った。
「その子のメンタルケアを頼みたいってことだね。確かにボクは精神科医だ」
「それに女性でもある」
「彼女の周りに女性はいないの?」
「幼い頃に母親を亡くしている。可哀想に、彼女に親身になってくれる女性はいないよ」
キースリングは手帳から写真を取り出した。長い髪をした美しい娘が佇んでいる。
「これがメルジューヌ?」
横目でアラストルを見ると彼は瞬きで答えた。
タチアナは写真を返しながらそれとなく訊ねた。
「噂には聞いているよ。彼女はその……危険な子なんだって?」
「とんでもない。素直で従順な良い子だよ。それに賢くもある」
アラストルが聞こえよがしに鼻を鳴らした。
「彼女もここに連れて来てるの?」
「いいや。もし君が彼女の助けになってくれるなら、君に我が研究所へ来てもらいたい」
タチアナは僅かに顔を顰めた。
「国科技研へ?」
「そうだ。世界最高峰の設備を備えた最新の研究所だよ。君も興味があるだろう?」
キースリングは身を乗り出し、両肘を膝についた。
上目遣いに彼女を見つめる眼差しは、これまでの気さくな語り口とはうって変わって真剣だ。輪郭がはっきりしたヘーゼルの瞳には灰色の筋が散っており、見ているだけで吸い込まれそうになる。
「――お願いだ、タチアナ。君のことが必要なんだ」
たったその一言で。
タチアナ・ノヴェルは自分が既に蜘蛛の巣に掛かっていることを悟った。
俯き、隣に座る男に顔を見られないようにして答える。
「……わかった」
「ダメだ」
瞬時にアラストルが言葉を被せる。
「簡単に絆されてんじゃねえよ――同じ過ちを繰り返すつもりか?」
タチアナはキッと彼を睨み付けた。
「そんなつもりじゃない! ボクは可哀想な女の子を助けに行くだけだよ。絶対に研究を手伝ったりはしない」
「それだけじゃねえだろ。お前の身も危険になる」
するとキースリングは穏やかに首を傾げた。
「もちろん、タチアナに危害を加えたりはしないとも。誓ってね」
「他人の人生を踏み躙る男の誓いなんざ信用できねぇんだよ」
「手厳しいな。だが、私は一度たりとも嘘を吐いたことはないはずだよ。殊に、彼女のことに関しては」
「てめぇの良いように利用しようとしている、それだけで疑うには十分だ」
「いい加減にして!」
ついにタチアナがアラストルを怒鳴りつけた。紅潮した顔は怒りのためなのか、羞恥のためなのか。
「どうして君の指図を受けなきゃならないのかな? これはボクの意思でボクが決めることだよ。ボクは行くと決めたんだ。これ以上ウォルターに失礼なことを言わないで」
アラストルは口を閉ざした。彼の顔に怒りは無い。真っ直ぐにタチアナを見つめる瞳は酷く虚ろにすら見えた。
ウォルターは二人を宥めるように両手の平を見せた。
「まあまあ、落ち着きたまえ。インマヌエルくんは君を心配しているだけなのだから、タチアナも声を荒げてはいけないよ」
タチアナは横顔を隠すように顔を背けた。
「……ごめんね」
アラストルが舌打ちを鳴らす。
「――俺も同行させろ。そうでなければ、こいつを監禁してでもてめぇのもとには行かせない」
「アラストル!」
彼は一切タチアナを見なかった。目の前の科学者だけを睨み付けている。
ウォルター・キースリングはじっくりとアラストルの顔を観察したあと、お得意の微笑を浮かべて頷いた。
「いいだろう。歓迎するよ、インマヌエル」
「ウォルター……」
タチアナが何か言い掛けたが、そのまま言葉を飲み込んだ。
一瞬の気まずい沈黙が訪れる。
「……おっと」
キースリングは時計を確認した。
「もっと思い出話を楽しみたいところだが、今日はこれで失礼するよ。一週間後の十時に北駅に迎えに行く。長期滞在用の荷物を持ってきてくれたまえ」




