7 エンターテインメントの終端
現実が始まるのは、エンターテインメントという「空想」が終わった後である。だから、私はV3をエンターテインメントの「終端」だと言った。
デスゲームはフィクションの中で行われていた。だから我々視聴者は安心して楽しめた。それが止んで、作品内の人物は外、つまり我々の世界に出てきた。この事は…デスゲームの如き、生命を掛けた闘争は現実に溢れ出てきた、と私は解釈したい。
エンターテインメントは、現実の安定の上に乗って、表面的な刺激を我々に与えるなにものかだった。戦後の長い平和の中で、エンターテインメントが称揚された。それは我々が現実における価値観において闘争する必要がないと感じられたからこそ発展したものである。価値観は決まっている。だからあとはさあ、努力せよ、というわけだ。
ところが、その社会そのものの基盤が破壊され、現実に我々は生きねばならなくなっている。我々は現実に闘争する必要がある。田中眼蛇夢のように、敵を認めつつも、生の価値を認めるが上に他人を殺す、そういう事もありうるかもしれない。ただ、生命の価値を説いていてもいずれにしろ死はある。それに死がなければ、生命は更新されない。
フィクションとしての闘争は終わり、現実内部に闘争は移される。その分水嶺に「ダンガンロンパV3」は位置する、と考えてみたい。ここから先はエンターテインメントの世界ではない。ここから先は…現実である。また、現実を写し出す芸術の世界である。しかし、芸術に対しては現実が先行しなければならない。それはもう始まっている。
メディアや大衆は常に遅れてくる。彼らの事は放っておこう。我々が見るべき、あるいは参加すべきは、現実という名のゲームである。傍観者である「我」ではない。そうして、芸術がこの世界に存在するとしたら、そのような生の闘争と相関関係を持ったものであろう。芸術が、趣味や遊戯の領域に置かれて時間が経っている。しかし、そうした場所を構築した世界が破壊されれば、芸術は息を吹き返すだろう。饗庭孝男の言うように、芸術は抵抗において生き、自由に死ぬのである。我々の闘いは「これから」であろう。
しかし、V3はなんといってもエンターテインメント作品だった。だから、来たるべき新しい世界を直知した時、自分で自分を破壊しなければならなかった。私はこの破壊を歓迎して受け入れたい。最原、春川、夢野、の三人はエピローグで外に出ていく。彼らはフィクションの存在であったが、その外の現実に出ていった。実際には物語が始まるのはここからである。このバトンタッチを理解するのは、世界の陰惨さを深く理解する者であると思う…。
我々はここまで来た、と思うと共に、ここから始まりだと感じる。ここからが実際に、始まりである。周回遅れの大衆とメディアは放っておいて、新たな現実を認めるべきはここだ。私にとってはV3はそうした地点を確認させてくれる上で意味があった。…しかし、ここまで言うというのはエンターテインメント作品の一つを褒めるとしてはあまりに過大ではないか?という疑問もあるだろう。あるいは、そうかもしれない。ただ、手がかりのない世界において、我々は何を見つけねばならない。その中で私はこの作品に取り付いて色々考えてみたかったのだ。
ここから先は真剣に生きる場所である。我々が生きて、死ぬ場所である。戦後の反映した世界が何より疎外していたのは「死」だった。死のない所には生はない。デスゲームの延長は現実で行われる事になるだろう。我々はこれから、生も死も自分自身の身体で経験して行かねばならない。芸術というものも、それらを写し出し、写し出す事によって、現実を越えていこうとする努力の内に生まれるだろう。我々はとにかくも、そういう地点に立つのを余儀なくされているのだ。




