お嬢様の手編みの手袋
公爵令嬢のディーネは自室で手袋を編んでいた。編み物や刺繍はクラッセン嬢の特技で、彼女クラスの名人にもなると複雑な模様のセーターも編み出せる。あらかじめパターンを決めておいたドット絵を用意して、その通りに編み目を数えながら編んでいくのだが、今回は驚くほど早く仕上がった。
「そろそろ完成しそうですわね!」
侍女のレージョが声をかけてくれる。
「ディーネ様はお仕事もお忙しいですのに、片手間でこーんなにきれいな手袋を編んでしまえるなんてさすがですわ!」
すでに出来上がっている片手を拾いあげてみて、レージョは固まった。
「……ディーネ様、なんですの、これ?」
「あ、これ、かわいいでしょ? リラクゼーションくまくんだよ」
ディーネが前世で好きだったゆるキャラのデザインだ。異世界には商標権が存在しないので安心して作れる。
まじまじと見てから、レージョはとても深刻な声でつぶやいた。
「……ディーネ様、野生の熊はこんな形しておりませんわ……このイラスト、お鼻もついていないですし……牙もありません」
「マスコットキャラに牙を求められても」
その会話を聞いていたシスが、やれやれ、という顔で肩をすくめる。
「お嬢様育ちのディーネ様はきっと野生の熊をご覧になったことがないのですわ」
「ああ……そうなんですのね……」
「ご覧くださいましディーネ様。野生の熊というのはこういうものなんですのよ」
シスがさらさらと紙に熊のイラストを描いていく。凶悪につりあがった目、獰猛な牙をむき出しにしたマズル、山羊の角とおぼしきものが生えた頭部、二足歩行の胴体、部族風のアクセサリをつけた手足はするどいモリを持ち、腰みのを穿いていて、頭が三つついた犬を足元に飼っている。
ディーネは紙をぺいっと投げ出した。
「邪神か!」
「邪神ではございませんわ! わたくしが修道院の台所番のお姉さまから教えていただいた熊とはこのようなものでしたのよ!」
「それ絶対盗み食いするとこういう恐ろしげな生き物が襲ってくるからだめとかいうお説教でしょ!?」
シスはショックを受けた。
「なぜそのことを……!?」
「あなた、うちの弟とそっくり。私、そのお姉さまの気持ち、すごく分かる」
「わたくしはお姉さまに騙されていたんですの……!?」
「いや、盗み食いするのが悪いんでしょ」
「熊はおいしいものをおなかいっぱい食べた人間をするどく嗅ぎ分けて真っ先に狩りにくるのだそうですわ……執着心が強いから一度これと決めた人間は必ず貪り食らい尽くすと……これもうそだったんですのね……!?」
「それは半分くらい本当かな」
「ひ……!」
シスが震えあがった。珍しい。
修道院長の前でいかがわしい本を広げてジージョに一週間くらいきついお説教を食らったときもへこたれなかったあのシスが。小さくて可愛らしい外見につられて寄ってきた殿方たちからことごとく「なんか思ってたのと違う」と振られてもめげなかったあのシスが。ナリキに向かってうっかり「お母さま」と呼びかけてしまって一か月くらい口を利いてもらえなくてもきょとんとしていたあのシスが怯えるなんて。
「野生の熊とはなんと恐ろしい生き物なんですの……!?」
「私の手袋見ながら言わないで。それは都会化してるから。文明を知っている熊だから」
「牙を抜かれたグリズリーということなんですの……? 怖いですわ! このばってんみたいなお口でひとを丸呑みするのですわね!」
「リラクゼーションくまくんはタコじゃないよ! 丸呑みしないよ!」
レージョはわれ関せずといった顔で手袋を手にはめる。
にぎにぎしながら絵の具合を確かめて、言った。
「でも、本当に不思議なフォルムですわぁ……線と点で熊を表現しているんですのね?」
「かわいいでしょ?」
「うーん、とっても個性的ですわぁ……」
もしかすると、この漫画っぽいデフォルメが可愛いと感じるのは転生者のディーネだけなのだろうか。そうだとするとちょっと寂しい。
「ところでディーネ様、毛糸の具合はいかがですの?」
「なかなかよ。強度があって、均一なのがいいわね」
ディーネは八月に見つけた紡毛工場の製品テストもかねて編み物をしていたのだった。今は理由を説明して納得してもらっているが、真夏に編み物などを始めたときは侍女たちにぎょっとされた。
「そちらの鎧下はジークライン様にさしあげるんですの?」
「大きいですわぁ~。気が遠くなるほど刺繍しないとなりませんのね~」
「大変でございますわね、ディーネ様!」
ガンベゾンは全身鎧の下に着るクッション的な服で、綿を仕込んで作ることが多い。
しかしジークラインはそもそも『俺に鎧は必要ない』と豪語しており、ガンベゾンなどもいらないらしいのだが、戦勝祈願の下着類は女性が作ってあげるという慣習にのっとり、ディーネは着られることのない服を毎度作っているのであった。
鎧なしでどうやって戦うのかといえば、すべて結界防御、そして治癒魔法である。ジークラインほどにもなると死にかけている人間の蘇生ぐらいはやってのける。治療系の魔法は聖職者が得意とするところなのだが、そのレベルの治癒が使える人間はおそらくジークラインをおいて他にいないであろう。本当に人外の男だった。
逆に何をすればあいつを殺せるのか……? そのテーマについては帝国と敵対する各国が日夜研究を重ねているようだが、いまだに誰も正解に至った者はいない。
現代日本の知識持ちのディーネとしては、密室に閉じ込めて一酸化炭素でも流し込めばさすがに中毒死するんじゃないかと思っているが、ジークラインほどにもなると酸素ぐらいは余裕で合成してきそうなので侮れない。ちなみに酸素はまだこの世界で発見されていない。存在しないダークマターをどう認知して合成するのかということだが、あの男ならひょっとしてありえるかもしれないと思わされてしまうのである。科学の限界とかを百回は突破した男、それがジークラインだった。
「先読みして作っておかないと、いつまた戦争始めるか分かったものじゃないからね」
「愛ですわね~!」
「ち、違うし! 暇つぶしだし! ついでだし!」
暇つぶしで作った服が手渡される日がいつになるのかは定かではない。




