殿下のご来訪 (3/3)
「お、おう……当たり前だろうが」
ジークラインにしては歯切れの悪い返事。普段より言葉少なで不器用な返しに、彼の照れと動揺が生々しく伝わってきて、なぜかディーネもつられて恥ずかしくなった。
沈黙のはざまに鳥のさえずりとさわやかな葉ずれの音がふたりの間を埋める。
なにか別の話題でも振ってさっさと流してしまおうと思うのに、馬鹿みたいに立ち尽くすばかりで、何も思いつかない。照れたように目を伏せているジークラインに目を奪われて、身動きが取れなくなってしまう。
木立にさあっと風が吹き抜け、むせ返るような夏の緑の香りがした。金色の日射が強く照りつけ、ジークラインの男ぶりのよい、彫りの深い顔立ちにくっきりと濃い陰影を宿す。
「ディーネ」
低く名前を呼ばれてドキリとした。
背の高い彼をふり仰いだ瞬間、ふと身を低くかがめた彼に軽く唇を重ねられ、呼吸が止まりそうになる。やわらかい感触が押しつけられてすぐに離れた。
キスをされても、ディーネは放心するばかりで、何の行動も起こせないでいた。思考が麻痺してしまったかのように、何の感慨も湧いてこない。ただ少しだけ、頭が熱っぽくて、くらくらする。
「あー……ここだと人目についてなんだ。もう少し奥に行くか。な?」
森を切り拓いて作った並木道の横手、下草が生えそろった暗い木陰を手で示されて、ディーネはぽかんとした。スカートでそんなところに分け入ったら足がちくちくしそうだし、せっかくの絹の靴が汚れてしまうから行きたくない。ディーネは小さく首を振って「いや」とつぶやく。ふたりでゆっくりするのなら、別の場所がいいと思う。
ジークラインはしつこく薦めたりはしなかった。すっかりおとなしくなってしまったディーネを持て余すかのように二、三度咳払いして、気まずげにつぶやく。
「……悪かった。そんなに怒んなって」
どうやらジークラインには、いつもはうるさく騒ぐディーネが不自然なほど固く押し黙っている姿が怒っているように見えたらしい。
「いえ、その……」
怒っているわけではない。しかしディーネには、自分でも自分の精神状態がうまく把握できていなかった。急にどうしてあんなことを、という思いももちろんあったが、それほど嫌だと感じなかった自分自身にも驚いていた。
いたたまれない沈黙を破って、ジークラインがぎこちなく話題を変える。
しかしディーネは彼の、緊張したような声の調子や、こちらの様子をうかがうような視線や、暑さのせいか赤く染まってしまった頬のあたりに注意を取られて、話の内容が頭に入ってこない。
ぼんやりしているディーネの頬を、ジークラインがいきなりつねりあげた。
びっくりして、ようやく頭が覚醒しだす。
「ちょっと、なにすんのっ……!」
「さっきから何ぼーっとしてやがんのかと思ってよ。天啓にも等しいこの俺の貴重な話を聞き流すとはいい度胸じゃねえか」
「はあっ? つまらない話するのが悪いんでしょ!」
ディーネは気を悪くして、ぷいっと横を向いた。さっきまでやたらとこの男が格好よく見えていたような気がしたが、きっと幻覚だったのだと腹立ちまぎれに結論づける。
――ジークラインのくだらない話に付き合っているうちにあっという間にあたりは暗くなり、ディーネたちは慌てて屋敷に取って返した。
***
「……あっれぇー?」
本格的に違和感がやってきたのは深夜、もう寝ようかと思って布団に入った頃合いだった。
なんのかの言ってもキスである。そんなに簡単にできることではない。たとえワルキューレではあいさつのようなものだからと言って、そうしょっちゅうすることでもなかった。
――婚約者だから、まあ、そういうこともある、かな……?
一番解せないのは、そうやって片付けてしまおうとしている自分自身だった。
現世の記憶を取り戻した直後にはあんなに嫌だと思っていたし、今でもたびたび繰り出される彼の厨二病発言には心底うんざりだと思っているが、あのときはまるで別人に取って変わられたかのように嫌悪感などが鳴りをひそめてしまって、ごく自然な成り行きでキスを受け入れていた。
かといって完全に婚約・結婚を受け入れられる気持ちになったかというとそうでもなく、できるなら皇太子妃の地位は辞退したいという怠惰な心は残っていた。
それに、結婚相手は自分で決めたいという気持ちもまだまだ強くある。
――なんだか変だなあ……
変といえばジークラインの様子もいつもと違っていた。彼はディーネを未婚の淑女として丁重に扱っていたので、これまでにも軽率な行動に出ることはあんまりなかった。
――全然なかったわけじゃないんだけど……
ジークラインの凶悪そうな、殺して奪う戦争行為がよく似合うあの外見と、幼少期に何をこじらせたのかと思うほどひどいあの厨二病発言に反して、実際の彼は非常に常識的で礼儀作法をわきまえた男なのであった。親御さん受けもばっちり。そりゃあパパ公爵も絶賛するわけである。
それなのに急にどうしてあんなことをしてきたのだろうか。
「わーっからーん……」
彼は相手の精神状態も魔力の流れでおおよそ読めるらしい。
ということは、つまり。
――今なら押してもよさそうだと思われるような、そんなオーラを出していたのでは?
ディーネはだんだん恥ずかしくなってきた。もしそうなのだとしたら、次からどんな顔をして会えばいいのだろう。
しかし、押してもよさそうだという意味では、記憶が戻る前のほうが圧倒的にそのチャンスは多かったはず。クラッセン嬢はもともとジークラインが大好きだったので、彼が望むようにしてくれればいいと思っている部分はディーネの心にも残っている。
――好かれすぎてて逆に手が出しにくかったとか?
なにしろ彼女は穢れなきお嬢様。純真無垢で可憐な幼馴染が相手ではそうそう軽率な行動など取りにくかろう。手ひどく扱いなどしようものならすぐに壊れてしまいそうな儚さがクラッセン嬢にはあった。
それに比べてディーネは前世の庶民感覚が混ざってしまっているので、前よりも大ざっぱに扱いやすいという部分はあるのかもしれない。
「それはマズいよねえ……」
ディーネの気持ちはどうあれ、節度を持って接してもらえないのでは立場的に困る。
しかし、心情的にはあまり困ったとも思っていない自分がいた。
「やめた。考えたって分かんないよね」
思考停止してみたものの、やっぱりモヤモヤした気持ちが晴れなくて、その日はなかなか寝付けなかった。