殿下のご来訪 (1/3)
侍女たちが慌ただしく行ったり来たりしている。
「ディーネ様の身支度は完了いたしました!」
レージョの手により、ディーネはシルクのドレスを着せられていた。ハーフアップにした髪の毛先は悪役令嬢でおなじみの縦ロールだ。
正装ほど派手ではないにしろ、よそゆきのシルクの靴や手袋ひと揃いできっちりドレスアップさせられたディーネは、「邪魔だからそこにいてくださいまし」とばかりに隅に追いやられている。
「ありがとうレージョさん。ナリキさん、お茶の準備はいかが? ……ナリキさん?」
侍女頭のジージョにポンと肩を叩かれて、ナリキはゼンマイじかけのおもちゃのようにぎこちない動きで振り返った。
「えっと……あ、あの、ティースプーンは右でしたっけ、左でしたっけ?」
「しっかりしてくださいましナリキさん、帝国式はソーサーの右でございます」
「は、はい……」
「ナリキさん、それ左! 左ですわ!」
ナリキは意外と本番に弱いのか、さっきからやたらとオロオロしている。
――この騒ぎの発端はこうだ。先日、珍しくジークラインのほうから公爵家に訪問したいと打診があった。浮かれたパパ公爵はふたつ返事でそれを了承。若いふたりで一緒に庭の散策などをしてから紅茶、そして晩餐などもご一緒に、ということになったのである。
なぜそうしょっちゅう『若いふたり』を一緒にしておこうとするのかがディーネには不思議でならないのだが、禁欲的な淑女教育を受けているディーネが、ごく当たり障りのない言い方でジージョから受けた説明によると、この世界は誓約の刻印の力によりバースコントロールがそこそこの精度で可能なので、婚約中の女性の行動範囲が格段に広いのだということであった。
ディーネがジークラインとつながっている刻印のことである。これがあると不義や密通が実質不可能であるので、バースコントロールとなるわけであった。
「お越しになりました!」
使用人が来るなりそう叫ぶので、室内はパニックに包まれた。
「も、もうお越しなのでございますか?」
「紅茶はお庭のあとですから、焦らなくてもけっこうですよ、ナリキさん」
「わたくしのリボン曲がってないかしら?」
「あぁ~ドキドキしますわぁ~!」
「なんであんたたちが緊張してんの……」
大騒ぎの侍女ーズを引き連れて玄関ポーチにまかり越せば、ちょうど馬車が正面に向かってやってくるところが見えた。彼の場合は転移すれば一瞬なのだが、それだと使用人たちがびっくりしてしまうので、正式な訪問のときはわざわざ手順を踏んでくれるのだった。
皇太子殿下を馬車でお運びするという栄誉で、御者も非常に浮き足立っている。お仕着せもいつになくピカピカだ。
「ああぁ~……殿下がいらっしゃると思うともうダメですわぁ~……」
「もうこの空間が浄化されている感じがいたしますわね……!」
「空気清浄機か」
「今日もきっと悩殺的に男前でいらっしゃるのですわ!」
「で、殿下にごあいさつをするときは、ええと、なんと申しあげればよいのでしたっけ?」
「緊張しすぎよ……あいつはよっぽどのことがない限りはヘマしたって怒んないわよ」
呆れているディーネを、シスたちは尊敬のまなざしで見た。
「あの近寄りがたいジーク様のことを仲良しのお友達みたいにお話しになるなんて、ディーネ様やりますわね~!」
「ジーク様とお会いするのに緊張しないなんてさすがですね……」
「いつの間にかそんなに仲良くおなりになって……」
「これがおふたりの絆なんですのね!」
そりゃあ婚約者なんだから侍女より仲良しなのは当然だろうと思いつつ、ディーネはどこからともなく聞こえ始めた万歳の音頭に面食らった。
――万歳! ジークライン様万歳!
『ジークライン様万歳』。戦争のときに多用された合い言葉らしく、終戦後の今になっても、彼が庶民の前に顔を出すと、必ずこのコールがどこからともなく始まるのである。ジークラインがちょっと足を止めて手でも振ってやろうものなら大騒ぎだ。目が合ったとか、ほほえんでもらったとかが自慢になるらしい。芸能人か。
――万歳! 皇太子殿下万歳!
公爵家の屋敷に詰めている常駐の警備兵、五十名あまりが総出で出迎え、万歳を唱える中で、ジークラインは停止中の馬車から軽やかに降り立った。金無垢のボタンがまぶしい夏用の白い簡素な礼服は鎧用の胴着を模したものであり、ひと言で表現するなら飾りのない白い軍服ないし、学ランに似ていた。上背のある美男子の皇太子殿下にこれを着せようと最初に思いついた衣裳係は讃えられるべきである。
「きゃああああ~!」
「か、か、かっこいいですわぁ~!」
「ジーク様……!」
「シッ、お前たち、はしたないですよ!」
侍女たちが騒ぎ始めた。人の顔を見るなり叫ぶなんて完璧なマナー違反だが、万歳がうるさくてそれどころではない。
――万歳! ジークライン様万歳! 万歳!!
当のご本人がパチリと指を鳴らすと、長槍を構えたフル装備の騎士たちは穂先をひときわ高く掲げ、のちに柄尻を地面に打ちつけて静止した。非常に統率が取れている。公爵家擁する精鋭騎士団の、ジークラインに対する忠誠心の高さのほどが察せられた。
あたりが水を打ったように静まり返る。
その空間の中央に立たされ、ディーネは早くも部屋に帰りたくなってきた。
異常に統率が取れた騎士たちのパフォーマンスが見ていて気持ちいいのは確かだが、その針を落とす音さえ聞こえてきそうな静けさの渦中にいざ自分が晒されると、とても心中穏やかにはいられないのである。
彼ら青鷲騎士団も、公爵家の一の姫・ディーネが皇太子殿下の婚約者だという事実を誇りにしている。本日のお迎えに参加できた栄誉をしかと心に刻みつけ、後日他の団員にも自慢しまくるのであろう。つまりディーネは、彼らの熱い期待を背負って皇太子殿下にごあいさつを申し上げるのである。
この場にパパ公爵がいてくれればまだディーネの負担も軽くなったのだろうが、あいにく公爵夫妻は国境警備の問題で出張中だった。
「わたくしどものお出迎えに何か至らない点はございませんでしたか、殿下」
遠慮がちにディーネが聞くと、彼も周囲が聞き耳を立てていることは分かっているのか、肩をすくめてこう言った。
「いいや。何もない。ディーネ。バームベルク公爵家は、騎士の質に関しちゃ、帝国軍を羨む点は何もないな」
要するに帝国軍に引けを取らないと言っているのである。
彼の擁する世界最強の軍隊と同列に扱ってもらえるというのは兵士にとって最高の栄誉であるので、居並ぶ騎士たちの喜びは最高潮に達した。ここらへんのパフォーマンスというか、人心掌握の技術もさすがに堂にいったものである。つくづく統治者向きの男だとディーネは感心した。