ジーク様にお願い 2
皇太子はテーブルに手を付いて立っているディーネに断りもなく近寄ると、彼女を囲い込むようにして自身もテーブルに手をついた。
――ち、近い近い近い!
突然のことにザワザワと危機感を煽られているディーネに、ジークラインは戦神の名に恥じぬ轟くような美声を故意に低めて、耳元にやさしくささやきかけた。
「そろそろ無駄なあがきはやめて、素直に認めたらどうだ? 俺に従属するのがお前の宿命で、あるべき最上の幸福ってもんだろう? なあ、ディーネ?」
勝手なことを言わないでほしかった。なのに、勝手に体が凍りついて、声が出なくなってしまう。
「本当は心待ちにしてたんだろう?」
無茶苦茶なことを言われているのに、その無駄ないい声だけに反応してしまい、ディーネの鼓動は不覚にも跳ねあがった。ドキドキと脈打ち始める胸を押さえ、ゆっくりと息を吸って、吐く。目を合わせてはいけない。きっと石にされてしまう――そう思うのに、瞳は彼に吸い込まれていた。
「さあ、俺が欲しけりゃひざまずいて許しを請え」
震えるほどの甘い声だった。ディーネは金縛りにあったように動けない。
目の前には婚約者である皇太子殿下がいて、あらゆる男性が男の理想像として挙げるようなまぶしい肉体美と野卑な美貌でもってディーネと対峙している。何かキラキラした粒子をまき散らしているように見えるのは、稀有な美青年に対して反射的に起こってしまう脳の錯覚、幻覚としても、ディーネが彼に対してやけに反発心を抱いてしまうのは、そもそも彼自身に特別な吸引力があるからなのだろう。掃除機か。
混乱しすぎてとうとう自分にもツッコミはじめた頭を振って、冷静さを取り戻そうと素数を数える。彼のペースに呑まれてはいけない。落ち着いて対処すれば、きっと乗り越えられるはず。
ディーネはもうやけっぱちで、チョコの箱をジークラインの胸にゴスッと打ち当てた。そんなことが可能になるぐらい近づかれていたのだ。
「……また、作ってまいりましたわ」
白い絹布とリボンできれいにラッピングした小箱を、ジークラインに受け渡す。
前世知識のあるディーネには、気合いの入った手作りのチョコを手渡す、というシチュエーションがバレンタインを思い出させるので、やけに気恥ずかしい。
結果、ひとりでなんかもじもじするというたいへんに痛々しい状態になった。
「ジーク様ご所望の、バニラの香料のお菓子でございます。他の誰にも作ってやるなとジーク様が仰せになったこと、わたくし忘れておりませんでしたのよ。あれ以来、どなたにも作ってさしあげてはおりませんわ。……それではいけませんの?」
ラッピングがしゅるりと解かれる。初めて目の当たりにする黒い塊に戸惑い、指先でつつくジークライン。見た目はそれほど可愛らしいものではないが、製作には苦労した。
チョコレートの甘い香りはバニラで香りづけした。先日の訪問時に彼がひどく気に入っていたものだ。
「……ふうん。ま、お前のその悔しそうな顔に免じて許してやらないでもねえよ」
ジークラインとしてはそっけなく返事をしたつもりだろうが、長い付き合いのディーネには、彼がめちゃくちゃ喜んでいることが分かってしまい、ますますどうしたらいいのか分からなくなった。
なぜ恋人でもないのにこんないい感じの雰囲気を醸し出さねばならないのだろう。
――あ、婚約者だった。
「これは食ったことねえやつだな。こりゃなんなんだ、いったい?」
驚き顔のジークラインに、ディーネはちょっと得意になった。これはおそらくこの世界で初めて作られた固形チョコのはずだ。
ディーネは彼がぴったりと側近くに立っていることも忘れて、威勢よく答える。
「ショコラを塊にしたものでございます。わたくしを除きましては、ジーク様が世界で初めてお召し上がりになるんですのよ」
「ショコラを……?」
「そうなんですの!」
ディーネは彼にけげんそうな顔をさせてやったことをひそかにほくそえんだ。常に王者風を吹かせている男なので、ディーネにしてみればまさにしてやったりだ。
「これはまだジーク様もご存じありませんでしょう? ショコラは塊にするととってもおいしゅうございますのよ! いずれは商品化いたしますけれども、試作品第一号はジーク様にさしあげます!」
どうだ、光栄だろうと言わんばかりにディーネが胸を張ると、ジークラインは――
なぜか、いきなり笑い出した。