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筆算/複式簿記/算用数字

 バームベルク公爵領には一千万の借金がある。


 ディーネはその返済をすべく、秘密の地下室から発掘された、未整理の債権書類の山と格闘していた。


 ――百年前の家屋の契約書がある。その住所を調べてみると、まだそこに人が住んでいた。さっそく人を派遣して、四代前から滞納している税金を、遡って払えとは言わないまでも、補修費とそこそこの使用料でいいから払ってほしい、さもなければ出ていってほしいとお願いすると、住人は買い取ってしまったほうがお得だと思ったのか、大金貨で一千枚を支払ってきた。歴史のあるいい屋敷だけに、惜しいような気もしたが、出ていけとも言いづらい。


 次は、とある借金の証文の片づけに乗り出した。パパ公爵からの取りたてがないのをいいことに、踏み倒していたのだ。彼は何も言わずに全額払ってくれた。


 ――このように、整理整頓されていない焦げ付き案件が山ほどあるのだ。


 秘密書類の山を家令のハリムと一緒に切り崩しながら、ディーネは目録に目を走らせる。


「……で、ハリム。すでに発見した分で、どれぐらい徴税が漏れているんだっけ?」

「そうですね……ざっと三万ほどかと」

「わあお……」


 現在のパパ公爵の地代が、毎年三万ほどなので、ざっと一年分もの金額が取り漏れている計算になる。すべての書類をきちんと整理整頓すれば、すごい金額になるはずだ。


「ザル経営だザル経営だと思ってたけど、まさかこれほどまでとはねえ……」


 ディーネにはため息しか出ない。


「もう、お父様、なんでちゃんとしてくれないのかしら……」

「大貴族の方の家にはよくあることですよ。自分の家の財産がどれほどあるのかきちんと把握できていない、なんてことは」

「そうだったわね……」


 この世界の会計学は中世レベルだ。


 具体的に言えば、複式簿記がようやく認知されはじめたぐらいの発展具合。

 複式簿記とは、左に借方、右に貸方を記入する形式の簿記のことである。いわゆるバランスシートというやつだ。

 単式簿記は両方ひとまとめにして、同じ行に記入する。


 ただ行をふたつに分けただけじゃないか、と思われる向きもあるだろうが、数字の内訳を二列の表で視覚的に表す、という発想自体が、偉大な発明だったのである。ごく簡単な筆算でさえ、古代にはついに発明されなかった。


 さらに簿記には経営状態を検討するための計算式というのが色々あって、損益計算などもろもろが頭に入っているといろんな角度から分析できて便利なのだが、あいにくこの世界の帳簿はまだまだ、そこまでの発展を見せていなかった。


 現にこの世界では、本職の商人であっても単式の簿記を使っていたり、すべて記憶しているから帳簿はつけないという人もいたりする。


そう、会計記録を『きちんとすべて書き残す』という習慣は、中世も末期になってからようやくできあがるのである。


その点、バームベルク公爵領はまだマシだった。一応、かろうじて、ごくごく初歩的な複式簿記が普及している。会計に強いハリムの指導のおかげで、各地の管理掛けや支配人が、すべての記録を書き残す契約を交わしていて、きちんと毎年ハリムの監査を受けている。


これを五年以上にわたってハリムが行っていてくれたおかげで、ディーネも多少は領地のことを知ることができた。


 では、五年より以前はどうしていたのか?


「あーっ、もーっ、どうしてちゃんと算用数字で書き残さないの? 各地の言語で書かれても読めないし筆算しづらいし!」


 算用数字とはアラビア数字のようなものだ。世界共通の規格というのが一応定められている。しかし、なぜか各帳簿の数字は教会の典礼言語で書かれていたり、方言で書かれていたりするのである。漢数字で一、二、三、と書かれていても日本語が分かる人しか読めないのと同様、ディーネにはさっぱり読み取れない数字の書類が山ほど出てきたのであった。


 ここでも『数字を視覚的に把握する』という発想が欠けていることがうかがえる。算用数字で位をそろえて記入すれば検算もしやすいのに、その単純な発想というのが、なかなかどうしてむずかしいのだ。


「さすがはバームベルク公爵家、といったところでしょうか。三十六の領地と称号は伊達ではありませんね」

「うちの領内って、どのぐらいの言語圏にわかれているんだっけ……?」

「大きくわけて七つですね」

「あああああ……」


 これからディーネは、七つの言語による契約書類を解読しながら、それが現在も法的に有効であるかどうかを各地方のローカルルールである慣習法と照らし合わせながら検討し、現地に徴税人を送って、お金を払ってくださいね、と説得して回らなければならないのである。


 面倒くさい。ひたすら根気のいる作業だった。


「考えただけで死にたくなるわ……」

「がんばりましょう、お嬢様。このぐらいの量であれば、三年もあれば片がつきますよ」

「いやああああああ! ああああああ!」


***


 で、ディーネは速攻で飽きた。

 飽きたので、ディーネは自前の会計学の知識をハリムに披露する遊びを始めた。


「……と、これが安全在庫って概念なのよ」

「なるほど……」


 ご自慢の知識を開陳すると、ハリムはちゃんと感心してくれた。ハリムは大人というか懐が広いというか、ディーネが何かを披露しても、面倒くさがらずに温かく受け入れてくれる。その優しいところがディーネは好きだった。


「お嬢様の会計学の知識は見たことも聞いたこともないものばかりですが、とても洗練されていて、驚くばかりです」

「ええ、まあ、そうでしょうとも……」


 なにしろ現代日本仕込み。千年近くも先を行っている。

 やっと複式簿記が普及しはじめたばかりのこの世界と比べれば、洗練されていて当然だろう。

 会計学には確率計算が絡むようなものもあるが、そもそもこの世界では確率計算そのものが知られていなかったりするのである。


 簡単な確率計算はさいわいディーネも学校でやったことがあるので、知っている限りのことは伝授したのだが、感動するのを通り越して崇拝されそうになった。褒められるのはうれしいが、天才天才と絶賛されるのはちょっと怖かった。


「先日の講義もたいへん身になりました。いったいどなたから学ばれたのですか? ここまでの会計学を教えられる教授は、バームベルク広しといえどもそう多くはないと思うのですが……」


 ディーネはぎくりとした。いくらなんでも、前世で習い覚えた知識ですとはさすがに言いにくい。


「詳しくはひみつよ、ひみつ」

「そうですか……残念です」


 ――そんな感じで一日を浪費した。



アラビア数字

アラビア数字が西洋にもたらされたのは13世紀ごろ。

普及は複式簿記と同時期であり、それまでの公文書はローマ数字で書かれていた。

例 2016 → MMXVI


位が揃えにくく、直感的に数量を把握できないローマ数字はじょじょにアラビア数字へと置き換えられていくことになる。

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