お嬢様とゆかいな使用人たち・その四 ~数学者のキューブ~
バームベルク公爵領の転生令嬢ディーネは、諸事情により借金返済をがんばっている。
現在の彼女は、使用人から詰め寄られている真っ最中だった。
軍需産業の研究員であるその使用人の本業は数学者で、おもに軍事用の土木工事の研究を行っているとのことだったが――
「お嬢様。今日という今日は続きをしてもらいます」
「……なんの?」
「先日おっしゃっていた公式のことです! あのような数式が成立するとは思えませんので、反証を三十ばかり作ってきました。ぜひともご覧いただきたい」
「え、無理」
ディーネが逃げようとすると、彼はずいっと一歩近寄ってきた。婚約者がいる関係上、不用意に異性に触ると面倒くさいことになるディーネは壁に向かって大きく後退する。
結果、背中がトンと壁にぶつかることになった。
「……なぜです?」
数学者の男が真剣な顔で問い詰める。線の細い男は、片目を覆う鬱蒼とした髪型もあいまって神経質そうな雰囲気を醸しだしており、負のオーラをがんがんに放っていた。今にも病み化しそうだ。
「なぜって……私、数学そんな詳しくないもん……」
「詳しくない方があんな、あんな、悪魔のような方程式を思いつくのですか?」
「私の発明じゃないし、それ……」
彼が怒っているのは、つまりこういうことだ。
話は三か月前までさかのぼる。
ディーネは借金返済をするべく、商売をしようと思い立ち、手近で使えそうなネタはないものかと探し回っていた。すると、公爵領ではよそよりも軍需産業の研究と開発が進んでいることが分かり、それを手っ取り早く商売に流用する線で決めたのである。
そのときに出会ったのが、この男だった。
彼は『技術者』と呼ばれる職の男で、軍事用のメカニックをやっているようだったが、ディーネが機械にうといこともあり、今回はとくに必要ない研究かな、と判断した。
そこで終わればよかったものを、つい思いつきで、この世界の数学がどんな内容なのか彼に尋ねてしまったがゆえに悲劇が起きた。
彼は連立方程式などは知っていても、虚数や微分積分の概念はまだ知らないようだったので、つい軽い気持ちでディーネが覚えている公式をいくつか教えてしまったのだ。
微分積分は部分的に彼の知る知識と合致したようで、ある程度は納得してもらえたのだが、虚数の概念あたりになると、男は突如として猛烈に激怒した。
ディーネから与えられた知識が想定外すぎて、数学一筋に生きてきた男は、自分の存在が全否定されたかのようなショックを受けてしまったらしい。怒り、否定し、迷いながら公式の証明をディーネにしつこく迫り、ついには閉ループに陥ったプログラムのようにぐるぐるとそればかり悩み続ける状態になった。
ディーネもできる限り質問には答えていたのだが、学校で覚えた公式をそのまんま使っていただけの平凡な少女に、本職の数学者が語る、神学論まじりの小難しい数学の証明問題は手に余った。
――なぜ数学が神学論まじりなのか?
ワルキューレ帝国の国教・メイシュア教によると、数学は神の偉大さを証明するための崇高な学問なのだそうだ。音楽や絵画などと同じだ。中世ヨーロッパでも、ある程度科学や哲学が発達するまでは神学がすべての学問における最高峰とされていた。グレゴリオ聖歌を唱和することで神の偉大さを讃え、フレスコ画やステンドグラスを用いて文字の読めない一般信徒に神のすばらしさを啓蒙しようとする試みと同様、数学を学ぶことは、この世界を創りたもうた神の完全性を讃えることと同義だった。神学論と相反する数学は古代の魔術と同列にみなされたのである。
ディーネの教えた数式は、魔術的、悪魔的だと思われたらしい。
しつこく数学と神学の問答を迫る数学者の男から、ディーネは逃げだしたのだった。
――そしてまた、今もディーネは証明問題を迫られている。
「難しい話は私には無理だよ……」
「ふざけないでください、こんな大それた数学の発想ができる方が、難しいことは分からないなどと幼稚な嘘をつかないでいただきたい」
「いやほんとに、私が知ってるのはざっくりした内容と結果だけであって、途中式とかはぜんっぜん分からないから……私も人から教えられて初めて知ったんだし」
「誰から教わったんです?」
「えーとえーと……天の神さまから、かな?」
出まかせを言ったディーネに、数学者の男は大いに衝撃を受け、いきなり床に膝をついた。
「なぜだ……これほどの神の啓示を、なぜ神は、私ではなく、か弱く幼い女性にお与えになったのだ……! 私は神に見放されたのか……!?」
――わあ、やっばい。
このまま放っておいたら変な方向にエスカレートしていきそうだ。
「た、たぶん、私からあなたに伝えることで、あなたに完成させてほしいから、とかじゃない? いつもがんばってるあなたに、神さまからのご褒美? みたいな?」
すると男はおでこにしわが寄るぐらい目をむいて、大口を開け、満面の笑みを形作った。
「……ではお嬢様は、天使だったのですね……! ああ……なんということだ……! 私の天使……!」
――天使って。
ディーネはぼつぼつと鳥肌が浮くのを感じた。もとから厨くさいのは苦手なのだ。
「ごめん、もう、持ち場に帰って……ええと、名前、なんだっけ?」
「キューブです、お嬢様、私の福音!」
「やめて。お嬢様以外の呼び名で呼ぶの禁止」
「分かりました、このキューブ、命に代えても遂行いたします……!」
「いや、命には代えなくてもいいけど……もう、ほんとかえってほしいな……」
「ではお嬢様、また明日も参ります!」
「こなくていいけど……」
「神の啓示がまたあるかもしれません。それを伝えるのはお嬢様が神から授かった重要な役割のはずです」
「あ、あー……そういう解釈もできるかな……?」
「ああ、明日が待ち遠しいです、お嬢様……!」
キューブは大はしゃぎでディーネの手の甲に勝手にくちづけ、去っていった。
一瞬、ジークラインが来るかと思い、身構えたディーネだったが、手などが少し触れたぐらいではジークラインもいちいち確認するのが面倒くさいと思うからなのか、今回もその気配はなかった。
ほっとするディーネが見守る中、キューブは浮かれた足取りでジグザグに進んでは、廊下の通行人とぶつかりそうになっている。
危なっかしい彼をハラハラと見守りながら、「やっぱり研究者には変な人が多いなあ」と思ったのだった。
インゲニアトール
機械技術者、兼、建築家。投石器の作製から聖堂の建築まで幅広く携わった。