六月までの売り上げをまとめましょう
軍事大国・ワルキューレ帝国は、ひとりの伝説的な男の力によって支えられていた。
天才軍師にして猛き戦神。
輝ける君主にして偉大なる魔術師。
大帝国の繁栄の担い手にして皇太子たる男、ジークライン・フォン・アディディウス。
ウィンディーネ・フォン・クラッセンは、バームベルク公爵の直系の姫君として、いずれは皇太子と娶せられる運命にあった。
世界に名だたる大帝国でも随一の領土と権勢を誇る大公爵家の姫君として生を享けたディーネは、あるとき、前世の記憶を取り戻し、自分の立場に疑問を持つ。
「俺の女になるのは最高の栄誉だろう?」
そう断言してはばからぬ男は、事実として黄金の美貌と、彫刻がごとき雄々しい体躯を持ち、彼の妻として遇されるのならば確かに女たちの羨望を集めるのだろうと思わせるだけの魅力を備えていた。
が、しかし。
――私、絶対にこんな男と結婚なんかしたくない!
前世である現代日本の記憶を取り戻し、ディーネは強くそう感じるようになっていた。まず、発言が仰々しいのがいただけない。あれではまるで、厨二病のようではないか。パパ公爵をはじめとした周囲の人々へ、必死にそう訴えたのだが、中世ヨーロッパなみの文化水準しか持たないワルキューレの人々には通じなかった。厨二病というものの概念が、浸透していなかったのである。
ディーネがジークラインと結婚したくない理由はまだある。
彼女が前世で得た知識によると、彼のように物語の主役を務めるような大人物の妻となると、苦労することは確定なのだ。
まず女。英雄は色を好むもの、彼のように立派な人物が妻ひとりで満足することはきっとないに違いない。
結婚相手は自分の意志で選びたい。生まれたときの婚約者と流されるままに結婚するのではなく――そう願ったディーネは、皇太子に婚約破棄を要求し、彼は条件付きでそれを承諾。一年ほど領地経営を行い、彼女の持参金、大金貨一万枚を稼げたならばそれでよし。できなければおとなしく結婚しろ、と通告を受けた。
大貴族の箱入り娘に商売だ領地経営だと大それたことができるわけないと、皇太子はたかをくくっていたのである。皇太子のみならず、誰もがそう思っていた。
――そして、三か月が経過した。
七月になった。春に植えた農作物はあらかた収穫され尽くされ、また別の畑に新しく作物を植えるため、忙しく働く農夫の姿をあちらこちらで見かける。
ディーネは屋敷の文官たちをひとつの部屋に集めた。
「第一四半期が終わりました」
「あの、お嬢様……」
手を挙げたのは地方の領地管理を任されている執政官Aだった。
「第一四半期とは、なんでしょうか」
「春の三か月のことです。こちらの言葉で言うなら『ウェール』かしらね」
「ははあ、ウェールですか……それなら分かります」
ウェールとは、四月、五月、六月のことをいう。この国の暦、グラガン暦は農耕用の暦で、主食がジャガイモであることもあり、植えてから収穫するまでにかかる日数およそ九十日がひとつのサイクルとなっているのだった。
「会計学的には一年の四分の一が過ぎた時期です。よって、売り上げの仕訳をします」
ディーネの宣言に、集まっている執政官や代官、それに家令のハリムたちはよく分からないながらもうなずいた。
ディーネは前世の記憶を頼りに会計監査の真似事をしているだけなのだが、この国の面々にはうまく伝わらないようだ。
――なるべく彼らにも分かるよう表現に気を遣いつつ、ディーネは話を進めていった。
ディーネが現在やっている事業はよっつだ。
ひとつ、ケーキ屋さん。
こちらは五月に開業し、好調な売れ行きをみせ、目標予算より少し多めの純利益を達成した。
五月に金貨五十枚、六月に五十五枚を売り上げている。
これによってディーネの持参金は大金貨10,000枚から、9,895枚までその数を減じた。
次に、おもちゃ事業。
ディーネは四月に戦車の模型を。そして五月、六月に少女向けの着せ替え人形を作って販売した。
戦車の模型は売れに売れて金貨で六百枚。大ヒットした。
少女向けの人形は金貨で六十枚――販売個数三十万個を達成したわりに儲けが少ないのは、利益を出そうとするのはやめて、価格を安くし、庶民でも買いやすくしたからだった。
子どもが喜ぶ事業というのは思いのほかディーネの気分がいいので、たとえ赤字になったとしても趣味で続ける予定だ。
これによってディーネの持参金は大金貨9,895枚から、9,235枚になった。
ふたつ、バンケット事業。
こちらも五月に試運転をして、六月に本格稼働した。
五月に金貨五十枚、六月に昼食で二十枚、お茶会で四十枚、晩餐会で百枚売り上げ。
まだ執事業の後任が決まっていないため、六月は抑え目の営業となっている。
これによって持参金は9,235枚から9,025枚になった。
みっつ、商品の小売業。
現在ディーネが扱っている商品は、ベーキングパウダーと各種洗剤などだ。
石鹸は用意していた分がすべて売れた。従来品よりも使いやすいと思われたようだ。天然成分のみで混ざりものが多い苛性ソーダ性石鹸や酸性白土などより、科学的に抽出した炭酸ナトリウムの石鹸や漂白剤のほうが多少は扱いやすかったのかもしれないが、あいにくディーネはちゃんとふたつの違いを試していないのでよく分からない。しかしフレーバーや色違いで同じ商品でも売り上げに差があるなんてことはよく聞く話なので、驚くにはあたらない。
そして、ベーキングパウダーもよく売れた。こちらは世界各国から問い合わせが殺到するほど売れ売れだった。
しかし、石鹸もケーキも、売り出したければ既存のギルドに使用料を払わなければならない。
そういった諸々のしがらみにより、合わせて大金貨三十枚ほどの売り上げとなった。
これにより持参金は9,025枚から8,995枚となった。
そして事業のよっつめ。
競馬場。
こちらの土地を皇太子から贈与されたことにより、ディーネの持参金に資産としてプラス。
金貨三千枚の査定で、老朽化による改修費金貨百五十枚を差し引いて、残額が6,145枚となった。
さらに六月中旬に開始した計七回のレースで大金貨二百八十枚ほどの売り上げを得ている。賞金として用意した大金貨百枚や必要経費を差っ引いて、金貨百五十五枚ほどの利益となった。
「――以上、三か月で金貨にして4,010枚の純増。わたくしの目指す大金貨一万枚の目標まで、残り5,990枚となりました」
報告を聞き終えた領地の代官たちがざわざわと騒ぎだす。
「……たった三か月で、大金貨四千枚の利益を生み出されたのですか?」
「ええ……でも、そのうち三千枚はジーク様から貰った領地なんだけどね」
情けない気持ちでディーネがそう返すと、彼らは恐慌をきたした。
「まさかまさか、一千枚を稼ぎ出されただけでも天変地異ものですよ!」
「ちょっとした小国の王家の資産なみでございますな……」
「何度見ても報告書の数字が信じられません」
「私も、こうして耳にするまでは、書き間違いと思っておりましたぞ……」
ディーネは遠い目をした。
「そりゃーまあね……公爵家の総資産全部を自由に動かせる立場なんだから、このくらいの増加は当然というか……むしろ少なすぎ? 維持費にもならないじゃない……これじゃ全然ダメよ」
ディーネの自虐的な酷評に、彼らは青い顔をして押し黙った。
そばで聞いていたハリムが冗談めかして笑う。
「これは手厳しい。お嬢様が『全然ダメ』だとすれば、私ども使用人一同はみな無能者の集まりということになります。解雇を心配したほうがいいのかもしれませんね」
「あ、ううん、そういう意味じゃないんだけど……」
ディーネはなんと説明したものか思案する。
「利益はね、総資産や自己資本が大きければ大きいほど増大するのよ。だから、本当にちゃんと経営したければ、総資産の十パーセントとか十五パーセントは稼ぎだせないとおかしいのよ……」
会計学でいうところのROAとかROEというやつだ。
現代日本ではごく当たり前の会計知識だが、それを聞いた代官たちはまたざわついた。
「そ……そのような計算式、見たことも聞いたこともありませんが……」
「ええ、そうよね……」
なにしろこの世界の会計学はようやく萌芽が出たばかり。
具体的には、複式簿記がようやく発明されたばかりぐらいの頃合いなのだ。
悲しいことに、商人にさえ、商取引をちゃんと帳簿に書き残す習慣が根付いていないのである。それでどうやって商売をするのかというと、全部暗記。どんぶり勘定だ。
まだやっと取引を全部書き残して見える化する習慣が根付き始めたばかりの人たちだから、いろんな計算式を使って財務の状況を検討するという発想がまだないのだった。
「やはり貴族の方というのは生まれながらにしてわれらとは出来が違うのだろうか……」
「いやいや、公姫さまが特別であらせられるのだろう……公爵閣下にもここまでのことがなしうるかどうか……」
「お嬢様のおっしゃることの十分の一も理解できない自分が情けない……」
使用人たちが涙にくれている。
「さすがはジークライン様の伴侶となられるべきお方といったところですかな」
「あの方も神に愛されたお方ですが、ウィンディーネお嬢様も多くのご加護を授かったお方なんでしょうなあ……」
「ああ、あやかりたいものです……」
「ありがたいありがたい……」
なにやら拝みだした使用人たちを不気味に思いつつ、ディーネは言う。
「……ていうかね、みんなにもこれ、覚えてほしいんだけど……私ひとりでは見られる帳簿の量に限界あるし、チーム組んで動けるようになりたいのよね」
それに一番よく反応したのはハリムだった。
「……ということは、お嬢様の、その神のようなお知恵の数々を、伝授していただけるということでしょうか?」
「ええ……でも、神っていうほど大したものじゃないわよ……私もひとから教わったものだし、覚えたら全然難しくないしね……」
ディーネが全部喋り終わらないうちに、室内がうるさくなった。
「なんてことだ……!」
「たった三か月で一千枚も金貨を稼ぎ出すお方の帳簿術を伝授してもらえるのか……!?」
ディーネは面食らう。
「……そんなにうれしいことなの?」
「これで興奮しないものがいたら、その者は領地の経営に向いておりません」
「あぁ、そっか……みんな、経営力を見込まれてお父様に雇われてるんだもんね」
他人に勉強を教えるのはそんなに楽なことじゃないが、喜んで意欲的にやってもらえるのなら、ディーネとしても悪い気はしない。
「よし。じゃあ、今月は集中講座をしましょうか。書記官も雇って、講義の内容を書かせて、いずれ本にまとめて出版しましょう。読めば分かるように」
「出版ですと……!?」
すると彼らの興奮は最高潮に達した。口笛や拍手までちらほらとあがっている。
「ああ、それはすばらしいアイデアです!」
「お嬢様のお考えが伝わらないのは、世界の損失ですからな」
スタンディングオベイション状態の男たちにとりまかれ、口々に褒め称えられるディーネ。照れくさいのと大げさなのとで、彼女はつい噴き出してしまう。
「だからべつに、私の発明ってわけじゃないんだけど……まあいいか」
――こうして六月までのまとめはつつがなく終了した。




