セバスチャンの回想 2
セバスチャンが意気消沈するお嬢様に紅茶の給仕をしていたところ、彼女は急に泣きだしてしまった。
どんな不手際をやらかして泣かせてしまったのだろうと焦りまくるセバスチャンに、お嬢様が語ったところは以下の通りである。
「ジーク様のお嫁さんになりたいの、ずっとそう思っていたの、でも、皇太子妃や皇妃にはどうしてもなりたいと思えない! わたくしには、無理なの、できないのよ……大勢の人がいる空間がだめなの、本当に苦痛で、うまく息ができなくなってしまうのよ……」
嗚咽しながらお嬢様が語る内容について、セバスチャンにはなんともコメントしようがない。怯えて、疲弊している彼女の気持ちはよく分かったし、うっかり手を差し伸べてしまいそうにもなったが、しかし、寄り添ってあげる役目は皇太子殿下のものだ。一介の執事に許されたことではない。
「誰かが代わってくれたらいいのに……」
ぽつりと言う彼女があまりにもかわいそうで、見ていられなかった。
使用人としての領分を逸脱している。そうと知りつつも、セバスチャンは少しだけ彼女と会話をしてみることにした。
「……では、心の中で、交代したことにしてしまうのはいかがですか?」
口を利かない家具のようなものだと認識していた使用人が、いきなりそう言ったので、お嬢様はおおいに驚かれた。
「役割を、演じるのでございます。私もよく、そのように考えて、辛い場面から逃げることがあります。ここにいるのは本来の自分ではなく、執事という役を割り振られた役者――その役の通りに仕事をこなしていれば、たいていのことは受け流せるものです」
「役を、演じる……?」
「さようでございます、お嬢様。民衆が見ているのはお嬢様ではなく、未来の皇太子妃の役を演じているお嬢様なのでございます。決められた役柄ですから、おかしなことを口走っても、失敗しても、それはお嬢様の責任ではございません。すべて、あらかじめ神がお書きになった台本なのでございます。お嬢様はそれを再現する役者にすぎません。たとえどんなしくじりを犯したとしても、民衆が怒り、熱狂し、失望する対象は、仮面のように着脱ができる、お嬢様の上辺のみでございます」
彼女は不安そうな顔をした。
「それでは、本当のわたくしはどこに行ってしまうの……?」
「どこにも。どこにも行きません。お嬢様はすべてを上座でくつろぎながらご覧になって、そうして本当のお顔は、お嬢様がお気に召した方にだけ見せてさしあげたらよろしいのです。くだらないことは、すべて他人に任せてしまえばいいのですよ」
彼女はしばらく、セバスチャンの発言を反芻するように、深く沈黙していた。
「……紅茶、召し上がってはいかがですか。冷めてしまいますよ」
「あ……ええ、そうね……」
ハッとした彼女が、なおざりにカップを傾ける。
「あなたは、執事の自分が嫌になることがあるの?」
「……ええ。子どものような失敗をやらかしてしまったときなどは、執事になんてならなければよかったと思うこともあります」
「たとえば?」
「……先日、公爵さまから頼まれていたお酒を、別のものと取り違えて注文してしまいました。あんなミスをしでかすなんて本当にどうかしていました……消えてなくなりたいくらい恥ずかしい思いをいたしました」
お嬢様はそこでようやく、少しだけ笑ってくれた。
「ごめんなさいね、笑ったりなんかして……ほほえましいと思ったものだから……」
「いえ。他人の悩みは、軽く聞こえるものでございます。きっと皇太子殿下も、お嬢様のお悩みをほほえましいとお感じになっているのでしょうね」
「そうね……あの方はいつでも強くて正しくて……わたくしにはとてももったいない方なの……」
のろけのような言葉なのに、なぜかそのときのお嬢様は、少しだけ苦しんでいるようにも見えた。
「……わたくしも役者になれるかしら」
「有名な作家の受け売りで恐縮でございますが、人生は劇場、人は誰もが役者でございます」
「人は誰もが役者……」
お嬢様の背中を押すべく、セバスチャンは重ねて言う。
「その意気でございます。嫌なことは、別の誰かにすべて任せてしまえばいいんですよ」
柄にもなく口調が強くなったのは、皇太子殿下を意識したからだろうか。
「ありがとう。明日の式典も、少しだけがんばってみるわね」
お嬢様が笑ってくれたので、セバスチャンはテーブルの片づけをして、下がった。
なんでもないふりをずっと続けていたが、ほほえむお嬢様は花のように愛らしくて、絶対に許されないと分かっていても、抱きしめてみたいという思いがずっと頭を離れなかった。
***
お嬢様は無事に式典を終わらせた。
それからの彼女は、まるで別人のようだと、誰もが口をそろえて言う。
少しは自分のアドバイスが彼女の役に立てたのかもしれない。そう思うと、ほのかな満足を覚えた。誰も知らない、お嬢様とふたりだけの秘密。皇太子殿下に対する後ろめたさが、秘密の甘さに拍車をかけた。お嬢様にとっての自分はただの使用人だけれど、あのときの彼女の笑顔は、確かに自分にだけ向けられていたのだ。
そんな彼女が、いきなり、新しい商売を始めたいと言い出したとき、セバスチャンは驚きもしたが、非常にうれしい気持ちにもなった。
「私などに、そのような大役が務まるでしょうか」
「絶対大丈夫よ!!」
かつて、皇太子妃という大役に押しつぶされそうになっていた小さな少女が、今ではこんなに立派になって、執事の自分に元気と勇気をわけてくれているのだ。
……元気を持て余しすぎて、ときどき妙なことも口走っているようだけれども。
彼女のこと考えると、胸に温かいものが宿る。
巣立っていくひな鳥のように、たどたどしく飛ぶ練習をしているお嬢様を見ていると、せめて自分のもとにいる間ぐらいは守ってあげたいと思ってしまうのだ。
――騎士とは、仕えている城主の奥方に愛と忠誠を誓う者なのだという。
騎士が奥方に捧げる愛とはプラトニックなものでなければならず、精神的なつながりだけを求めるのが真の騎士のあるべき姿、正しい『騎士道』なのだそうだ。
ウィンディーネお嬢様には皇太子殿下という立派なご婚約者さまがいらっしゃるが、もしも自分が使用人ではなく、騎士として仕えていたら――事実、そういう誘いも公爵さまのほうからいただいていたのだ。
もしも騎士になっていたら。
お嬢様に思いを寄せることぐらいは、許してもらえたのだろうか。
争いごとが嫌で騎士を辞退した身なのだから、想像したってしょうがないことなのだが。
報いてほしいわけではない。
ただ、ずっとそばで見守っていられたらいい、と思う。